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渦中やいかに。

この投稿を書いている12月12日。
私は、一つの高校の「探究学習の時間」の授業の外部メンターとして関わらせていただいた。
その1シーンがどうしても忘れられないので、久しぶりにnoteで形に残そうと思う。

それがどのようなシーンだったかというと、話題は若者の自殺についての話だった。若者(15歳〜19歳)の死亡者数のうち、7割弱が自殺者だという。
その対策のため、自殺に理解のある人を増やすため、講義を開催するというプランを高校生が考えた。

それを聞いた私は疑問を持った。
「自殺者を前にして説明会が最優先なのか?」と。
この疑問は、発表してくれた当人からするととても意地悪だったかもしれない。
一人の高校生が慣れないながらに資料を作り、社会人である私にプレゼンをしてくれたのだ。重圧は私の想像を超えたものだったと思う。
しかし、その疑問に答えるよう要請されたように私は違和感を感じた。

そのうちに質問の時間になったので聞いてみた。
「自殺者の対策のためには、隣人に声をかけることが大切なのではないだろうか?」と。
「講義と会話、どちらがあなたにとってすぐできそうですか?」と。

するとこう帰ってきた。

「講義です。」と。

私はなんだか恐ろしくなった。

会話より講義の方がすぐできそうだという回答、これは教育や現代コミュニケーションが限界を迎えていることをはっきりと示していると思った。

隣人に声をかけるより、講義形式で理解を促すことが無意識にも選ばれる社会になったことを表しているからだ。

一応補足だが、その発表者の高校生のプレゼンや落ち度という問題ではない。
彼はしっかりと自分の重圧に耐え、プレゼンを通して私たちに意見を言ってくれた。

だからこそこれは、この事態は重く感じられる。

「隣人に声をかけること」は難しいことなのだろうか。。。

彼の意見では、「自殺に至るまでを理解することが、自殺を減らす」のだという。
確かにその論理は合っていると思う。そうした側面はある。
だが、それは「問題が表面化して初めて事態を見ることができる」ということで合って、逆に言えば「問題が表面化しないとわからない」ということだ。

対面コミュニケーションや洞察の力から得られるものが、著しく解体されている社会にいるのだと、そして今まさに進行しているのだと感じた。

ガンダムには「ニュータイプ」という人類がいる。
詳しくは監督である富野由悠季氏の解説をググって欲しいのだが、その鍵となる「洞察力」と「賢さ」について、現代社会はまさに「賢さ」だけを求めるようになっている。

しかし、現代社会の「賢さ」は富野氏が描こうとしたものには甚だ及ばない。
現代社会でいう「賢さ」は「いかに効率的にお金を稼ぐか」という「他人を蹴落とし自分が成り上がる」資本主義の権化である。

高校生のプレゼンを聞くメンター役の大人は10名ほどいただろうか。
私は彼らがどのようなことを言うのかもまた興味があった。
高校生ながら、社会人にプレゼンを見られることの重圧、そこにあるリスペクトのようなものを双方から学びたかった。

しかしメンター役の彼らは、高校生のプレゼンについて、言葉を選ばず言うと「粗探し」「自分自慢」をしただけだった。最初から最後まで、全く不快であった。
同時に私は、「そうか。この社会に生きているんだ。」と学んだ。そして私もそうした社会の中で育てられたのだと再認識した。

この社会で、どうしてウェルビーイングなどと言えるだろうか。

そんな大人が、物事を進めているのか。
せめて、子供達だけは守りたいと、私はそう感じる。

私自身、五年前は高校生だった。
大人の言うことは、とても大きな発言のように聞こえて、あまつさえ自分が間違っているように感じる。しかし、五年の時を経て、世の中がおかしいことが少しづつわかってきた。

そう感じると同時に、私は沈思黙考の姿勢と、謙虚さの姿勢を忘れぬようにとするのだが、正しさもまた考え直さなければならないと、沸々と感じる。

「正しさ」とは「ありのまま」と言う意味があるのだそうだ。
しかし、現代の社会は全く「ありのまま」とは言えない。
資本主義やメリトクラシー、合理性や人間性、洞察力の解体などまさに渦中。
コロナウィルスなど可愛く見えるほどの渦中である。

私もまた考え直さなければならない。
私自身の行動と習慣を、そして本質を。

今、何が起こっているのか。

目を見開いて掬い取ることが、ありのままを実現する第一歩だと信じている。

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