見出し画像

国際女性デーに際して

画像元: Freepik

 本日3月8日は国際女性デーである。女性差別をなくすため、多くの人が声を上げるべき大切な日だ。


女性差別とは?

女性差別とは、女性であることを理由に不当な扱いを受けたり、差別を受けたりすることを言います。

女性差別にはどのようなものがある?世界の事例とは

 Aであることを理由に不当な扱いをすることは、Aに対する差別である。この差別のうち、女性差別をなくすために活動をしているのがフェミニストたちなのだ。

 では、具体的にどのような「差別」があるだろうか。
子供の頃から女らしさを強要される。お淑やかであれと教育される。入試で男子より高い点数を取らなければ入学できない。社会人になってもお茶汲みなどをさせられる。男女の賃金格差がある。政治家や社長などトップの多くは男性である。結婚後は寿退職を強いられる。改姓を強いられる。出産したらキャリアが途絶える。家事育児を完璧にする良妻賢母であることを求められる。離婚後は女性のみ100日間は結婚できない。性犯罪被害者に対するセカンドレイプ。
 こうして見ると、女性は多くの「差別」を受けており、しかもそれが生涯続いている。

根源的な「差別」

 差別をなくすには、まずその差別がどのような意図で行われているのかを知らなければならない。「そんなもの知りたくもない」? 「お前は差別主義者の味方をするのか」? まあ、そう言わずに下までスクロールしてご覧頂きたい。



















 これは、私が以前書いた記事である。これは端的に述べると、「女性は有害な女らしさを捨てろ」というものだ。なぜ女性に絞ったのか。それは、「有害な男らしさ」「有害な女らしさ」には明確な非対称性があるからである。それは、このnoteのアプリを使えば簡単に分かる。

note検索にて 検索時期は2024年3月8日14:24

 「有害な」と打つと「#有害な男らしさ」が53件、「#有害な女らしさ」が9件、「#有害な男性性」が7件である。これは「フェミニズム」と「マスキュリズム」、「#国際女性デー」と「#国際男性デ―」でも同様である。

 また、国際男性デ―とは、別に男性の権利を考えるものではなく、女性差別について「男性が」考えるものなのである。これは、成立からして全く違うものである。

 これを言うと、「女性の権利を考える日に男性の権利について話すミソジニスト」と言われるが、実のところ似たようなことをしているのは女性の方なのだ。

 男性の辛さについて語るとフェミニストは必ず「有害な男らしさのせい」「抑圧してるのは強者男性」「差別コスト」などと言う。だが、統計を見ると男性差別を作り出しているのは紛れもなく女性であるということが分かるであろう。そして同時に、「女性差別」を作り出している原因も女性なのだ。
 冒頭に述べた数々の「差別」にも、統計による反論が可能だ。

 子供の頃から「らしさ」を求められているのは、女性よりも男性の方が多い。芸術方面に男性が少ないのも、男性には就職を見据えた進学が求められるのに対して女性にはそのような期待が少ないからである。



 男女の賃金格差は、労働時間を見れば明らかである。これを無視して格差をなくせと叫ぶフェミニストは、単に楽をして所得を得たいだけである。

 結婚後は女性が家事育児を強いられるというのは全く逆で、女性が稼ぎの多い男性を求めている結果として女性が家事育児をしているだけである。

 他にも、性犯罪被害者への「セカンドレイプ」は加害ではなく、事実関係を確かめるためであるとか、離婚後の再婚禁止は産まれた子供が元夫か現夫かどちらの子供なのかが分からなくなるのを防ぐためだとか、反論はすぐに上がる。

 女性差別とは、女性自身が望んだ結果であるという大変政治的に正しくない結論になってしまったが、データが全て物語っている。かつての私も女性は「不当に」差別されていると思っていた。しかし女性は「不当に」差別されているのではない。「自ら望んで」差別されているのだ。むしろ本当に「不当に」差別されているのは男性の方である。

これが本当の「差別」

 男性の体は、女性のそれと比べ格段に軽んじられる。過労死も自殺も男性の方が圧倒的に多いのにも関わらず、辛さを訴えずあるいは訴えても「有害な男らしさ」の一言で掻き消される。

 男性は自分が被害に遭っても言い出せない。それは「男らしさ」からというのもあるだろうが、言い出したとしても「自分が悪いことにされる」のだ。


差別はどうすればなくなるのか?

 「女性差別は一番最後になくなる差別」であると言われている。しかし、そもそも差別だと認識されていないのは男性差別の方ではないか。むしろ、「男性差別こそが一番最後になくなる差別」だと言えるだろう。なぜなら男性は社会から永久に「加害者」であると見做されるからだ。

 それでも、男性は我慢強く優しいので、「社会に利益があるなら」と男性差別を許容してきた。それがかつての日本である。日本という共同体を維持するため、女は子を産み育て、男は女子供を護る。良い悪いは別にしてそうすることで共同体は維持されてきた。しかし現代はどうだ。子供を産んでもいない私が言うのもなんだが、男性差別の免罪符であった出産の「義務」を果たしている女性はそう多くない。このような現代で男性が差別を許容する道理は果たしてあるだろうか。

 私が本記事を書いたのは、一般の特に男性に自らの受けている差別について知って欲しかったからである。

 私は正直、フェミニズムが進んだ社会はそう長続きしないと思う。深刻な少子化によりインフラ整備もままならず、そのような社会は持続できない。当然犯罪も横行するだろう。その状況でフェミニズムなどと叫んでいたらあっという間に殺されるのがオチである。

 「差別」とは、そのような極限状態になって初めて解消されるものなのかもしれないという絶望的な結論を残し、本記事の締めくくりとしたい。

 まあ、みんな大好き上野千鶴子先生でも見て癒やされて欲しい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?