AIを利用して執筆された芥川賞受賞作『東京都同情塔』を私なりに解釈してみた(ネタバレあり)

第170回芥川賞受賞作『東京都同情塔』。作者は九段理江氏。生成AIを利用して執筆したことを記者会見で語り、話題となりました。

この作品のあらすじを新潮社のHPより引用します。

ザハの国立競技場が完成し、寛容論が浸透したもう一つの日本で、新しい刑務所「シンパシータワートーキョー」が建てられることに。犯罪者に寛容になれない建築家・牧名は、仕事と信条の乖離に苦悩しながら、パワフルに未来を追求する。ゆるふわな言葉と実のない正義の関係を豊かなフロウで暴く、生成AI時代の預言の書。

新潮社HP(https://www.shinchosha.co.jp/book/355511/)より引用

私がこの作品を読んだ感想を端的に表すと、暗喩を通して、生成AIを用いて執筆した小説で世界を支配したいという欲望と、それに伴う迷いや後悔、誹謗中傷の怖さとの間で葛藤する心を描いた作品かなと感じました。「ホモ・ミゼラビリス」が柱になっているので、裏テーマはイヴァン・イリイチの「コンヴィヴィアリティ」なのかなと邪推しています。逃げを感じるけれど、それも含めてAI利用小説として初めて芥川賞を受賞した作品にふさわしいと思います。

おそらく本作を既に読まれた方は「そんな内容だったっけ?」と思われる方が大半でしょう

まだ本作を読まれていない方は、ぜひ読んでみて、私の解釈に首を傾げていただければと思います。内容は100ページほどですし、電子書籍もあります。

さて、上記の解釈は、私独自の視点にもとづくものなので、それが正しいかどうかは分かりません。そもそも芸術なんてものは鑑賞した人間があれこれ考えてなんぼですから、正解も間違いもないのです。国語のテストの「作者の気持ちに最も近いものを答えよ」なんて問題は、ハナから間違いなのです。問題の制作者が0点。読んだ人がそう読んだのであれば、それが正しいでしょう。

以下に、私が上記の解釈をするに至った理由を書き残しておきます。

くれぐれも私のこの感想に目を通して本作を読んだ気にならないように。多分、私みたいな読み方をする人はこの国にはいないと思いますから。

以下からネタバレになります。未読の方のために下にリンクを貼っておきますから、回れ右して読んでからまた来てくださいね。



「イヴァン・イリイチ」

本書では、「犯罪者」や「受刑者」を「ホモ・ミゼラビリス」、つまり「同情されるべき人々」という呼び方に変えて、都内の「シンパシータワートーキョー」という名の塔に収容しようという計画が進んでいる世界が描かれています。

恥ずかしながら、私は「ホモ・ミゼラビリス」という言葉を初めて聞きました。作中ではその定義をAIが回答していますが、あくまでも作中での定義であり、フィクションが多く含まれています。ハルシネーションにも見えるのが面白いところ。

実際に「ホモ・ミゼラビリス」という言葉を検索してみましたが、日本語ではあまりヒットしません。しかし英語(Homo miserabilis)で検索すると、それなりに出てきます。言葉自体はかなり古くからありそうです。

検索する中で、私は産業社会批判で有名な批評家イヴァン・イリイチという人物にたどり着きました。私は不勉強なので詳しくありませんが、「ホモ・ミゼラビリス」という言葉をイリイチは「産業社会から疎外された人々」というような意味で用いています。

作中で何度も使用されているこの言葉を、九段氏が単に「生成AIに質問したらそう答えてきたから」という理由で採用するとは考えにくいです。九段氏は意図的に「ホモ・ミゼラビリス」という言葉を用いていますし、「ホモ・ミゼラビリス」という言葉を用いて作中の仮想の回答を生成するように生成AIに指示をしているはずです。

この仮定に基づくと、「ホモ・ミゼラビリス」は生成AIを受け入れられない人々のメタファーのように見えます。「産業社会から疎外された人々」は、現代でいえば「生成AIをうまく扱えない人々」であり「生成AIを使いたくない人々」だからです。一方で、作中では生成AIを積極的に活用する人々のように見える描写もあり、私は解釈がむずかしかったです。今のところ、私は生成AIをめぐってSNSにて汚い言葉で煽り合っている「言葉を大事にしない人たち」を指しているのかなと考えています。

さて、イリイチは一方で「コンヴィヴィアリティ」という言葉を提唱したことでも知られています。作中では触れられていませんが、私はこの点も重要ではないかと考えています。

「コンヴィヴィアリティ」は「自立共生」とも訳され、分かりやすく言えば「テクノロジーに依存するのではなく、道具としてうまく扱いながら共生していこう」といった考えのことです。

これは九段氏が生成AIについて「自分の創造性を発揮できるように、うまく付き合っていきたい」と語ったことと一致します。

これは私の邪推ですが、本作を執筆する過程で入れる要素として「コンヴィヴィアリティ」も検討されているのではないかと思います。しかし作品のテーマ性や他の要素との兼ね合わせを考えて、用語としては触れないと判断されたのだと思います。

本作は短い中で様々なモチーフが語られていて、一歩間違えれば要素を詰め込みすぎだと見られかねません。一つの作品としてまとめあげる過程でいくつかの要素が削られていたとしても、全く不思議ではありません。

「アンビルト(未建築)」

上記のインタビューにて九段氏が本作のモチーフとして言及している「アンビルト(未建築)」について。

作中では、ザハ・ハティド氏が設計した「国立競技場」が建設されています。これは現実では撤回され「建築されなかったもの」です。

一方、本作の主人公は、漢字の言葉をいい感じのカタカナ言葉に「言い換える」ことに違和感を感じています。

私は、この「国立競技場」は、「言い換える」ことで受け入れやすくすることのメタファーになっていると感じました。

つまり、現実では別の競技場に「言い換える」ことで受け入れられたものが、作中では「言い換える」ことなく建設されているのです。そして「言い換え」られる対象が「シンパシータワートーキョー」や「ホモ・ミゼラビリス」になっています。

建物としても「国立競技場」は「シンパシータワートーキョー」と対比されており、タワーの意味が強調されていると読み取れます。

「生成AI」

主人公の牧名沙羅は、言葉の使い方に敏感で厳格であり、それはまるで出力を検閲されている生成AIのようでもあります。

牧名が「生成AI」の暗喩であるならば、彼女が設計しようとしている塔は「生成AIを用いて執筆された小説」でしょう。

本作では、主人公がママ活を持ちかけた東上拓人という若い男が登場します。

タワーの名称に違和感を感じている牧名に対して、東上はコンペで勝てば公の場でタワーを自分の好きなように呼べるし、それが大衆に受け入れられれば、彼女にも呼び方は変えられるだろうと語ります。

これはつまり、「生成AIを利用して執筆した小説」が評価されれば、生成AIとの向き合い方について強い発信力を得られるし、それが大衆に受け入れられれば、未来はそうなっていくだろうと読むことができます。これはまさに芥川賞での一連の流れに一致します。完全に想定内です。めっちゃ野心的だと思います。

「言い換え」

私が独断と偏見で読み取った本作のメタファーを整理すると、以下のようになります。

  • 牧名沙羅=生成AI

  • シンパシータワートーキョー=『東京都同情塔』(本作)

  • ホモ・ミゼラビリス=言葉を大事にしない人たち

  • コンペ=芥川賞、文壇

  • 国立競技場=言葉を言い換えることによる受容

つまり、「生成AIを用いて小説を執筆することで文壇での評価を得よう」という野心をもって本作は書かれており、その一方で生成AIを利用することへの九段氏の悩みが主人公の言葉の中に暗に表現されていると、私は読み取りました。そして本作の内容も読まずに賛否を軽々しくのたまう人々は、言葉を大事にしない哀れな人々であると作者は見ているのかもしれません。

このように本作そのものが、九段氏自身の考えを「言い換える」ことで、世の中に受容されることを目指す構造になっているといえるでしょう。

もちろん私のように変な深読みをする人間がいるかもしれませんが、九段氏は「読んだ人それぞれが感じた内容が本作のメッセージです」と回避することができます。

作者は逃げているのです。そっくりそのまま「生成AIを利用した小説で文学賞を目指す物語」を生成AIを用いて書いたら、強い批判を浴びせられることは目に見えていますから、そのための逃げ道です。直接は書かずに、ふんわりほのめかす。読める人には伝わる。そういう奥ゆかしさを内在した文学です。

星新一賞に入選したAI利用小説である私の『あなたはそこにいますか?』(日経「星新一賞」第九回受賞作品集に収録)でも、作中のAIが生成した文章の部分に使っていますから、手法としては私の真似事といっていいと思います。『東京都同情塔』ではAIが回答している部分のフォントが意図的に変えられていますが、後半では語り手の文章と混在している部分があり、これも(ネタバレにはなりますが)実は語り手がAIであり、後半の語り手による地の文の一部にAIの文章を使用した『あなたはそこにいますか?』の手法と似ています。

より起源を探るのであれば、第3回日経「星新一賞」にて一次選考を通過したAI利用小説を生み出した「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」のメンバーである佐藤理史氏の『コンピュータが小説を書く日』があります。これは小説を書くAIについてAIを用いて書かれており、AI利用小説の中の古典と言っても過言ではないでしょう。

九段氏は、そこから一歩進んで「作中のAIが生成した文章だから作品としてAIを使うことに意味がある」という文脈に「言い換え」ています。さきほど私の作品と似ていると書きましたが、九段氏は「語り手がAIではないか」と読み手に感じられるように明確にフォントを変えており、手法として巧く昇華していると思います。そして本作のメタファーに気付かず表面的な読みをしている人々は、「なるほど、うまい使い方だ」とうなずくのです。それはまさしく「ホモ・ミゼラビリス」なのかもしれません。

そういう「逃げ」の構造を持っていることが、本作の価値でもあります。この時代に生成AIを用いて小説を執筆する作家が何を考え、そして感じていたかを、如実に物語っているからです。生成AIが話題となっている今のタイミングで本作が芥川賞を受賞したのは、非常に喜ばしいことだと思います。

余談

ちなみに、私は別に作中のAIの言葉ではなくても自由に使っていいじゃないかと思います。だって今は、パソコンで書いた小説も、検索してネタを集めた小説も、何を使って書いたかなんて誰も気にしていないからです。

それらが登場した当時は、物珍しさはあったかもしれません。でも現代に「これはパソコンで書いたからこそ意味がある」なんて言う人はいないし、「もしやこの小説はパソコンで書いたのではないか?」と気にする審査員もいません。なぜなら、みんなが当たり前に使っているからです。

生成AIも当たり前に使われるようになりつつあります。「生成AIをネタにしているから生成AIを執筆に使う」なんていうのはバカバカしいのです。良い機会ですから、さっさとやめたらいいと思います。

それでも、みんなそういうことをやりたがります。かくいう私もAIをネタにした作品を発表し続けています。

なぜなら、みんな心のどこかでやってみたいと思っているし、それをすると読者に「ウケる」からです。しょうもないのですが、それが人間というものです。

しかしこれは、受容され始めている予兆であるともいえるでしょう。そのうち、みんな生成AIを使って恋愛ものを書き、ミステリを書き、ホラーを書き、ファンタジーを書くようになります。もう書いている人もいます。AIに関係のない物語に、能力を拡張するツールとして使われていきます。そしてその執筆に何を使ったかを誰も気にしなくなります。

なぜなら、重要なのは「作品の中身」であり「作者の力量」だからだと誰もが知っているからです。

私はそういう未来を作るための道作りをしています。未来を想像し、行動することで、望ましい未来を自らたぐり寄せること。それが私のやるべきことだと信じています。

なんでそんなバカげたことを信じられるかって?

ほんの数年前まで国内でAIを使って小説を書こうとしている人は30人もいなかったことを知っているからですよ。


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