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自分を幸福にしておくことの、手綱をゆるめない

 

 6月なので、勝手に『トラウマサバイブ強化月間』なぞ心がけてみようかな、と思います。

 なんで6月だとそうなるのかっていうと、加害親の命日が近いので、っていう理由です。傾向と対策。今後、トラウマに殺されることはおそらくないけれど、なるべく傷を深めたくもないので。立てときましょ、傾向と対策。

 前の記事を書いたとき、もう少し丁寧に言語化しておきたかったことから、まずは書いてみます。
 「自分を幸せにすることの手綱をゆるめない」ということについて。

問題は、ね。

 元被虐待児の体には『自分をぞんざいに扱う』がデフォルトで染みついているように思います、少なくとも私はそうです。むしろ、自分を不幸にすることでなにかに復讐しようとする、という振る舞いに、自覚を持つことの方が困難な気がします。
 二十歳をちょっと過ぎた頃、『幸せになんかなってやるもんか。とんでもないことになって、私の絶望を思い知らせてやるんだ』って、明確にそう考えている自分に気づいて、愕然としたのを覚えています。


 悔しいなら不幸になっちゃダメだぞ。絶対だーーー

 っていう名言を、あの美しい物語、あの鮮やかな風景とともに心に植えつけてくれた日渡先生には本当に感謝。漫画って…漫画って、本当に凄いですよね…!!
(ご存知ない方はぜひ『ぼくの地球を守って』をお手に取っていただきたいです。心の傷、忘れられない記憶、そういったことを、辛さではなく愛おしさのほうへと反転させてくれる力を持った名作です…!!)

 そう。不幸になっちゃダメなんですよね。

 問題は、そこからですよ…。
 どうしたら、不幸にならずにいられるのか。

 
 とりあえず…不幸にならないための第一歩として私は、加害親の葬儀の期間、自分の「怖い」という感覚に対して、正直に対処しました。それが結果的にはちゃんと安全弁として機能してくれた気がします。
 このnote で繰り返し、「自分のいやだな、こわいなを大切にしてください」と書くのは、きっと、一番儚くて、でも一番しっかりと守ってくれるのが、それだから…という実感があるせいなのでしょう。

 今回も同じことを申し上げます。
 今日書くのはサバイバルスキル、ライフハックとして何をやったか、なので、暴力性を想起させる表現は出てこない、とは思います。でも何度でも書いておきます…逃げたくなったらいつだって、理由なく逃げていいんです。いやだなと思ったら、何の言い訳も要りません。逃げてください。


怖い場所に行かなくちゃならない。


 6月のある日から唐突に始まったその「死者を弔う期間」。…私には、まずは選択肢として、葬儀に参加するか否かという分岐がありました。
 似たような境遇に置かれるかもしれない方のためにクッキリ書いておきます、葬儀に参加するか否かの選択肢はあります。自分自身で、どうしたいのか…選びとっていっていただけたらいいなと思います。
 私は自分にそう願ったし、読んでくださっているあなたにも…どんなことも一概に言えないということを前提に置いた上で、願わくば。と思います。選べてほしい。
 だってどうしたって、それなりの感情の起伏を歩くことにはなるでしょう。そこでもがくのはあなた自身に他ならない、でしょう…?
否応無しに巻きこまれるのではなく、自分のハンドルを手放さずいてくれたら…。願うことは勝手ですもの、そんなふうに言葉にしておきます。
 

 さて私自身のケースに話を戻しましょう。
 この点においては、前もって自分のなかに準備してあったいくつものIfストーリーなかで… 「加害親が母親より先に亡くなったなら、彼はもう《私の父親ではない》から、私には葬儀に参加する義務はひとつもない。けれどそれを取り行う母と姉については、大切な家族であることに変わりはないのだから、そのサポートはちゃんとする」というふうに自分の感情を腑分けしておりました。
 葬儀の場で展開されるであろうドロドロとした感情の応酬、そういったものの想定はある程度持った上で、そういう判断を、いざやってきた現実の上でも、しました。
 自分の家庭の問題をそれとなく相談したことがあった職場の上司にも、そのようなことを伝え、「私自身が喪に服すのとは違うので、御香典その他のお気遣いは本当に遠慮させていただきたいのですが、休暇はしっかりいただきたい」というふうに相談してから忌引休暇に入りました。

  ※ ここで注釈を入れておきます。
 てらいなくそういう話ができる上司に恵まれたことは、ものすごく稀有なことだと思います。
 重要な場面で正直にいる必要は、何もない。話して大丈夫だという安心や信頼関係があるなら別ですが、そうでないなら、うまい嘘を幾らでもつけばいいと思っています、私は。
 家族神話が、サンタクロースと同じ体温をもって息づいている社会です。この社会に、あなたの状況が伝わりやすい『嘘』をつくことは誰の不利益にもなりません。なんなら、一番不利益を被ってしまうのは、そうやって嘘でしか自分を守れない我々自身です。でも安心して息ができることを優先して良いって、私は思うのです。
 生き延びよう。誠実さだの表明だのの話は、その後だ。 

by あしてあとれ

 そうやって冷静に、サポートのためにその場所へ行く、と判断をする頭の片隅で、さてどうやって生き延びようか、ということも必死に考えていました。もう既に充分、怖かったので。

 「葬儀」なんだからとりあえずどうしたって避けようがないのに…親の家に入ることそれ自体が怖かった。自宅前の通りを車で走ることも避けていた体なのに、平気なわけがない。
 だから、自分に《儀式》を準備してあげることに、しました。

1、 決まったルートを通る。…これは、漫然と恐ろしいことに触れずに済むように、です。 同じルートを通ることで、「これから、緊張感が必要にな場所に行くんだぞ、緊張して当たり前だし、何事もなければラッキーだ」という心の準備をする。本当に嫌なことが起こったら、そのルートごと自分の日常から切り離せるように。この地域を通るたびに辛い思いをしないために、辛い記憶を重ねる風景を、あちこち混ぜこぜにしないために。

2、コンビニをセーブポイントとする。…日を重ねるうち、定めたルートに『コンビニに立ち寄る』というワンポイントを加えました。言うなればセーブポイントです。「この先、大きなダメージを喰らっても、ここに戻れば私は自分自身の日常に帰る。暮らしてきた穏やかな時間を、一旦ここでしっかり置く。」自分にそう約束して、行く前と帰る時にコンビニに寄るのです。
 何時に訪れても、無機質な白い明かりの店内。冷えた空気。時をとめたように個性のない場所。これは私にはとても有効な、すばらしいセーブポイントとなりました。…この儀式は今でも、実家を訪れなければならない状況になった時の私を支えています。
 この方法に支えてもらえる、と分かったら、そうやって、《儀式》を繰り返して強化してゆく。

3、耳を優しい音にひたす。…私は声フェチなので、一番ダイレクトにパワーチャージできるのは聴覚情報だと自覚していました。ですから、あの時期の私は大好きな高橋一生さんのシングルを鬼リピしました。行き帰りの車の中で。
 これには前談があります。そもそも私が彼に堕ちた(そういう言い方をしておきますね)のは、とある作品での彼の『怒号を発する』というアクション、その表現の選び方に、「この人は絶対に暴力性を無自覚には発揮しない人だ」という絶大な信頼を持ったからなのです。自分の立ち振る舞いが、声音が、眼差しが、どんなふうに他人に影響を与えるか観察し、出来うるなかから最善の選択肢を選び続ける人だ、という…信頼。
 ですから、彼は私にとって赤の他人でありつつも、人間として最大級の信頼を持てる相手です。そういう人物の、声だけ聴く。これしか聴かない。これしか要らない。
 何を聞かされた後でも、何を言われたとしても。この人の声に触れれば大丈夫。自分にそういう暗示をかけておくことで、おそらくダメージを最低値に納めることに成功した、と思います。


 これら3つはすべて、暗示です。おまじないでしかない。
 けれど私が怖くて仕方のないものもまた、ある意味では実態のないもののはずなのです。
 加害親はもう死んだ。侵略的な関係性しか提示されない親戚一同とのコミュニケーションも、私はもう立派に成人していて、コミュニケーションスキルについてずっと腕を磨いてきた。自分で自分を守れるし、守りたいと願っている。
 ならば心が求める支えのすべてを使って自分を守る、そう決める。

 これらの【儀式】は、実に有用でした。親の家に…『怖いことがあったところ』に、行くのが怖いのは当たり前のことです。怖い場所と、自分の日常との間に、いざという時のための切り取り線をしっかり引いておく…そのためのステップでした。

 自分への手当ての方法を準備しておく。

 さて、恐怖を宥め、必要な心構えを持ったうえで訪れる実家。ここから先はザ・現実です。ライブ感をもった対応が求められます。ありとあらゆることが起こります。どこのご家庭でも多かれ少なかれそうなのだから、壊れきった家族のそれなんて、そりゃあ。
 人間の『社会性』のたゆまなさを…見るし、同時に、空気が薄くなってゆくのも、感じます。したたかに生きるということは素晴らしいことかもしれなくて、けれどどんな会話もきちんと結ばれることがない、それは空中に一本張られたロープの上を歩くみたいに居心地が悪い。信頼なんて、いらないのかもね、いかなる人間に対しても。そんな、苦い感覚を、血液のなかに閉じこめて、外に漏れないようにする。
 私はこの場所を明確に怖いと思っているけど、安心してる人間なんてここには一人もいない。でもそれをそうと自覚してるのはもしかしたら、私だけなのかもしれない。
 そんな場所。
 息をするだけで、肺のなかに細かい砂が溜まってゆく、みたい。

 やったこと。

4、解離が酷くならないように、呼吸を守れるツールを増やす。…ここでも高橋さんの登場です…ここまでくるとちょっと自分でも楽しくなってくる。そういうふうに、自分を笑えることを許せる、高橋さんが相手なら。
 お茶、アイス、チョコレート。高橋さんが宣伝に出たすべての情報を、自分の安心を高める道具として余すところなく使いました。この人の気配に触れていれば、大丈夫。

5、仲間との生存確認をする。語り直しをしておく。…私には二人の姉がいますが、姉Aとはある程度の共同戦線を張れる仲でいます。
 今日も一日を終われそうか、自宅へ帰ることはできそうか、眠ることはできそうか、声をかけあって別れる。難しそうであれば、セーブポイントであるコンビニに二人で寄って、なにか美味しそうな冷やし物一品を本日の「厄落としアイス」として食べて、互いのフィードバックをする。
 傷は生傷のうちにどうにかしておいたほうが良いのです、乾いて残ってしまうと後をひく。だから、信頼できるお互いには、率直に、話す。脳みそのなかで本日何度も何度もリフレインしてしまっている、投げられた言葉やザワッとした瞬間について話して、状況の整理をして、自分たちの現在を自分たちの言葉で語り直しました。

 『トラウマ』の根幹は、『一人で乗り越えなければならないこと』にあるそうです。
 そういう意味で、今回の葬儀の期間に起きたアレコレは、トラウマにはならずに済んだと言えるのかもしれません。私には姉Aがいて、姉Aには私がいた。
 感じたことを率直に話せる相手がいて、その人と共同戦線を張れた。イマココが永遠ではないぞ、生き延びるんだぞ、互いにそう言い聞かせ合える相手がいたこと。そのことに、本当に感謝しています。

6、「厄祓いアイス」を摂取する。…そういう呼び名を知ったのは後からです。体が欲していました、アイスを。
 お酒は飲めない、タバコも吸えない、カフェインもたちどころに効いてしまうので午後からは飲めない、食欲なんかどこにもない。『あそび』を持つのがヘッタクソな自分の、膿んだように腫れぼったくなった頭と体を、甘く冷やしてくれるもの。コンビニアイスには本当に、全身全霊で甘えました。
 最悪だな人生。最低だな我が家の人材ラインナップ。掘れば掘るほどヘドロじゃんウケる。そんなことを呟きながら、姉と二人でぼんやりとかじる冷たい甘さ…。そうしていると不思議と、なんとかなるって気がしてくるのでした。あれは本当になんなのだろう。
 問答無用の温度変化とか、良い香りとか、糖分×油分の幸せなコンビネーションとか、なんか…そういうこと、なのでしょうけど。
 解離の予感が防衛最前線で常駐待機してくれている状態の身体に、『感じることが怖くない』と思い出させてくれるツールという意味で…アイスは最適でした。ここまで上げてきた6つのステップの中で、一番「幸福」に近いかもしれません。
 冷たい。甘い。良い匂い。こっくりした喉越し。感じることは怖くない。そう言ってやろう、何度でも、私自身に。
 厄祓いアイスはそういう時間でした。100円ちょっとでちゃんと幸せに、なれるよ。一瞬だよ、難しくないよ、大丈夫だよ。生きていけるよ、こうやって。そういう、自分との約束の時間。

 一瞬で、悲しみと怒りのゴングが打ち鳴らされる場所で。自分の人生と心をどう守り通せるか。開きすぎず、閉じすぎず、どうしたら一番マシになれるのか。ギリギリの選択をたくさんたくさんした後で、そうやって体に落ちてくる冷たさとか甘さは、本当に優しかった。
 そうして、優しいものがこの世界にちゃんとあること、優しくされたいと願う自分に優しくしてあげる方法が、手元にあること。


 どうしたら、不幸にならずにいられるのか…。

 私が必死にやっていたことはこんなことでした。

 

 私だけは私を無視しない。


 ただ、傷つけられるのを、汚されるのを、無視されるのを、道具のように扱われるのを…他の誰も知らなくても、私は知っておく。自分を見せても大丈夫だと思えたら、ちゃんとアラートを発する。そういう闘いの場であることを、自分だけは、知っておく。
 解離を本格的に発動させて自分を現実に置き去りにしないでいいように、自分のフィールドに戻ったら自分を本当にいたわる、今自分が辛いということを無視しない。
 そういうことでした。私にとって、自分を幸福にすることの手綱をゆるめない、というのは。…世界中が無視しても、私だけは私を無視しない。
 だって私は自分の一番怖いこと全部終わらせたのだから。もう二度とあの男の顔を見なくて良い本当に。もう二度とあの声を、あの息を、耳にしなくて良いのだから。やっと、そう。やっと…死んでくれたのだから。
 振り返って、あの時既に、加害親の死そのものが、私自身を物凄く勇気づけてくれていたのだと、気づきました。もう本当に終わった、やっと、おわった。そういう安堵感。

 想定もしていなかった…優しい去り方でした。その日、たぶん、本人も気づかないくらいぽっかりと。
 そして、私の人類全体に対する不信感を丁寧に育んでくれた…その外面の良さ。それを死に際まで反映して、気の回る御友人がその異変に気づいてくれた。御友人の機転のおかげで、現場と遺体が酷いことになったりする前に私たちは彼の死に気づけたのでした。

 本当に、彼を、その去り方だけは褒めてやりたい、褒めてやろうと思います。もうこの世にいない人ですから。
 幾らでもそこに地獄を生むことができる男でしたから。苦しみもせず、長引きもせず…そうやって新しい泥沼に家族を引きずりこむことなく消えてくれたことは、葬儀の際に発生した混沌を経た今、改めて奇跡に近い取り計らいだったなと思います。もっとぐちゃぐちゃになって、酷い感情の応酬を経て…姉たちとの関係性さえ壊されてしまう可能性だって、そこにはあったわけですから。

 …うーん、それにしたって、言葉にしてみても愛憎のコントラストがすごい。

 

スキルです。ハウツーですマニュアルです。
それが、あなたの手元いつでも握れるところにあってほしいと思います。


 サバイバルスキルと書きました。ライフハックとも書きました。
 あくまで私のケースについてなので、リンクできる部分がどれだけあるかも不明です。

 でもまぁとりあえず私はこうやって、葬儀の期間を越えました。
 偉そうなことを書いていますが、それでも充分血まみれの期間でした。取り返しがつかない分断もありました。
 けれどその分断すら、実はずっとそこにあった問題がしっかりと姿を見せてきただけでした。終わると思った家族の物語は構成員一人の死なんかでは終わらず、それでも。
 問題があろうがなかろうが、一週間たてばまた仕事が始まり、寝て起きて食べての繰り返しを続けていかなければならない、そんな現実を、それでも私はここに書いたことでなんとか乗りこなしました。

 根性論ではないんです。心の持ちようとか、前向きな言葉とか、そういうことでは生きられない。
 スキルです。自分が使えるもの、武器にできるもの、それら全部が自分を守る方法になって、自分を守る道具になります。なってくれます。
 必死にとった対策であるこれらを、どこかで取り入れてもらって誰かの呼吸がラクになるならこんな嬉しいことはない。そう思うから、ここにこうして、書きのこしておきます。
 いつか、必要とされる誰かに、届きますように。

 優しいものを見つけておいてください。安心できる瞬間をコレクションしておいてください。好きだと言えるものはいくらあっても良いものです。そのなかに、あなたの命があります。あなたのいるべき世界はそこです。しっかりそこに受けとめてもらったなら、現実はちゃんとそこに立ち上がってきます、私はそう信じています。

 この世に、あたりまえの顔をして、『家族』という神話が息づいているんですもの。家族に殺された私たちなら、新しい自分だけの『神話』を、育てましょう。新しい約束を幾らでも自分としたら良いと思います。誰に別れを告げることはできても、自分とだけは別れられない。
 自分との約束だけは、破って生きることがむずかしい。

 そんなことを、思います。

 はじまる、6月。涙のように降る雨、恵みの雨。
 ずぶ濡れに、濡れ鼠になるのが好きだった子どもの頃の私に、あたたかいお風呂とやわらかいタオルを用意してやるようなきもちで。
 雨に濡れてはしゃいでも良いよ。あったかいお風呂であったまっても良いよ。どちらも慈しんで良いよ、お前の人生だよ。
 こんなふうに。
 トラウマサバイブ月間、はじめてみます。
 

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