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【三分小説】バス停

蟹クリームコロッケが一欠片落ちた。
そしてわたしは1か月前、
新しいアルバイトをはじめた。

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決まって黒猫が横切るバス停。
わたしは週6日
夕方になると
日曜日の夕飯を作るような気持ちで
大きなバスを待つのだ。

店の前に着く頃には、
街は琥珀色に輝きはじめている。
暖かそうに見えるが、心は冷たかった。

従業員専用の入口の前に行くと
煌びやかな街灯を背に
清掃員のおじさんが吐いた煙草の煙がぷかぷかと
上がっていくのが見えて
それはまるで
地元の工場夜景のように複雑な美しさを放っていた。

紙製のタイムカードは
大袈裟な音を立てて上下する。
"これだけ働きましたよ"の合図であり
黒く刻まれていくインクは
わたしの身体を汚す証でもあった。
それはいつも
どこか滲んで見えた。

帰りのバスで毎回一緒になる女の子がいた。
明らかに10代の顔つきで、
可愛らしい大きな目をしている。
同じ店の子だ。
服装のせいだろうか
勤務中にすれ違う彼女はもっと華やかで
艶のある細身のワンピースが似合う
派手な印象だったが
今、目の前に居るのは
ただの伏し目の女だ。
彼女は、それ以上でも以下でもない、
感情のまるでわからない顔つきをしている。

お互いに目は合わさず、同じように揺れる。
毎回会話は一切無いが
「あなたのことならわかっているよ」
と言ってやりたくなった。

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休日には、いつも誰かに責められているようで
落ち着かなかった。
深夜3時には決まって鳩尾がむずがゆくなり
目が覚める。
薄暗い廊下を通ってキッチンへ行き、
ホットミルクを温めるが、
その待ち時間にもまた
要らぬ考え事をはじめてしまったりした。

その考え事に背中を押されて、
わたしの中で大きな風が噴き上げた。
それに揺さぶられた木の葉が
鼓膜に閃光を突き刺す。

部屋着姿で分厚い靴下を履いたまま、
冷たい野外の風に飛び込んだ。

静寂に独り鳴くピアノの音。
理性を失ったコンビニの明かり。
日常に溶け込んだ不自然な色が瞬く信号機
それらをわたしだけは見逃したくなくて
頭が痛くなるくらいに
全てを目に焼き付けた。

遠くで響く車の音に耳を澄ませ、
目の前の赤信号を今日は堂々と渡ってみた。
ふらふらとしか歩けないが、確かに歩いた。

もう戻らなくていい。
誰にも縛られない。
わたしはどこへでも行ける。

そのあと、
雨がわたしを叩きつけたけれど痛くなかったし、
知らない家のカーテンを貫く雷は
とても心地よかった。
誰でもない空。
彼は、
行き場のない怒りを叫んで、
そんなことを考えながら歩く
わたしを見て泣いてくれた。

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それは昨日の夜のはなし。
いまわたしは、
いつものバス停横のファミレスで
蟹クリームコロッケを落とした。
今日も夕方になれば黒猫が横切り
大きなバスに揺られて
琥珀色の街に飲み込まれていくのだった。

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