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「傷つく」のも自己責任かもしれない

「傷つく」のは、受け身のようでいて、実は能動的な動詞である、というようなことを何かの本で読んだ。


一見、誰かによって為される行為に対して発生する表現だけど、「傷つく」というのを、私自身が自覚しているわけで、「傷つけられる」と言い換えたとしてもそれはやっぱり能動的であるらしい。

「私は傷ついてない」と自覚することも出来るわけだから。


もう何年も前にこの考え方に出会ってから、私は「傷ついている」とか「悲しい」みたいなネガティブな自分の感情に出会った時に、その原因を掘り下げるクセがついたような気がする。


何に対してイライラしてる?
泣きたくなってる?

そんな自分の感情を分解していくと、「痛み」みたいなものに行き着いて、それは自分の「弱み」とか「弱点」だったりする。

それか、変なプライドやこだわりだったりすることもある。

とにかく、「他人から見たら、イタイ」部分なのだ。


「他人から見たら」というのがポイントで、周囲の評価を気にしてるうちは、傷つくことが多すぎる。

イタイ部分を刺激されるのは辛すぎるから。

他人の意見が気にならなくなると、「私が良いと思ってるから」と割り切れるので、別に他人に左右されて傷ついたりすることがない。



育休を機に始めたnoteだけど、本当は数年前から「やってみたい」とは思っていた。

その当時、書いてみたかったのは、実は自分のイタイ部分で。


痛いけれど、この痛みを分解してみなければ乗り越えられない気がしていたし、その作業(痛みに向き合い、克服していく)自体が、もしかしたら他の人の役に立つこともあるかもしれない…という思いだった。


結局noteに挑戦できなかったのは、当時の私の痛みを書くことで、自分が傷つくのも怖かったし、私以外の人が傷つくことも大いにあるとわかっていたことが理由だ。

それほど、私の痛みは「他人の評価」に左右されていたから。



それから何年も経ち、当時感じていた「痛み」を刺激されるような出来事が、実は何度かあった。

その度に私は「傷つく」経験をし、それを何度も繰り返してるうちに、「もう、いいや」という瞬間があって、そこでようやく「傷つく自分」をもうやめようと思えた。


「私は傷つかない」と自覚するまでには、それなりに時間がかかった。

年齢を重ねたり、オンラインコミュニティに入って異業種の人に触れたりすることで、凝り固まった自分の価値観や心無い無責任な他人のコメントが、どれだけ無意味かと知った。


自分の感情や幸福度、満足度は、自分で決めていいのだ。

だからもう、私は傷つかない。


相手を許す・許さないという寛容さの話でもなく、そもそも自分の痛みは自分で処理できるようになったから。


ただ、自分では感じていない痛みも、言葉にしてエピソードとして語った時に、他の人にとっては気まずさを感じさせるものである可能性は否めない。

そこだけ、気をつければ良いんだと思う。


そういう意味では、やっぱりまだ私も失敗しちゃったりする。

今日、久しぶりにそういうことがあったのだ。

私は痛くないんだけど、周囲にとっては「イタイ」と感じさせてしまいそうな事が。

これもまた、もう少し浄化させられそうだったら、いつか書いてみたいなと思う。

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