「とんでくるナイフ」は避けられるけれど「言葉のナイフ」は避けられない
本題の前に。
昨日初めて書いたnoteに、「スキ」をつけてくださった方が5人もいて、
とても嬉しい気持ちになりました。
私が誰か、ということを知らないで、
なんのフィルターもなく、ただ純粋にその文章に評価をしてもらえることに喜びを感じます。
「書く」ことで見えることがたくさんある気がします。
いつも自分の中だけに留まっていた思いや言葉をアウトプットし、外に置くという行為は、
一部自分の中の棚卸しにもなる気がします。
では本題に。
今日はタイトルの件。
仕事中の一コマから感じたこと。
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サラリーマンをしていると、そこには否応なく
「評価」
がついて回る。
何を基準にした評価なのか、
会社というコミュニティの中には、本来人間には(少なくとも日本社会には)ない、
縦の序列があって、否応なくその上下の序列が、言葉の力や、物事の決定権を左右させる。
その評価も、外の世界にほおりだされた、真っ裸の1人の人間になってしまえば、
なんの効力も持たないただの肩書きでしかないのに、
会社というコミュニティに入った瞬間に、その序列は強烈に人を縛る。
なにがそんなにえらいのか。
世界の中のちっぽけな1人の人間が、
ただ会社というコミュニティの中で、「上司」になった途端、
言葉や、その人のレールの上に、その他の人間の時間や物語を縛り付ける。
昨日も少し書いたが、1人の人間には、必ずその人にしかない、人生という名の物語があって、
みんな生まれた時からその物語を描いている。
「誰かのための世界」ではなく、「自分の物語」がある。
けれど、会社という組織においては、
なにを基準に定められたのか、
そのコミュニティでしか効力をなさない評価、位が、
その人にしかない物語を、無理やり自分の物語の脇役のようにしてしまう。
ここからがタイトルの件。
今日は1人の上司が公衆の面前で、
「だからなんでそんなこともわからないかな。」
と、その下の上司に鋭いナイフを突き刺した。
その人もいい年だ。
私たちのような若輩者たちの前で、そんな言葉を浴びせられるのは、いたたまれない気持ちだろう。
その鋭い言葉のナイフにより、その人は、
自分自身の「want」ではなく、
他人の「have to」につき従い行動するしかなくなる。
どんな人生にも痛みはつきものだ。
痛みを伴わずして、成長もないだろう。
子供だって怪我をして、立ち上がって、
次は痛くないように、怪我をしないようにと学習し、転ばないようになっていく。
けれど、時にふと思う。
向こうから本当にナイフが飛んできたら避けることができる。
避けないと死んでしまう。だから誰もが避けるだろう。
でも、言葉のナイフは避けられない。
発せられた瞬間に、否応なく相手を突き刺す。
避ける手段はない。
突き刺された相手は、刺さっているとわかりながらも、
痛くないフリをして、怪我をしてないフリをして、そのまま歩こうとする。
会社というコミュニティにおける上司と部下の関係では、
上司が言葉のナイフを突き立てても、
それはなぜか「正当化」されることが多いように思う。
刺された方が「我慢すべきだ」という考えが多いように思う。
えらいから、上司だから、という
世界の中のただの1人の人間という見方をすれば、
なんの効力も持たないそんな位を持っているというだけで、
時に人の人生を、物語をねじ曲げてしまう言葉のナイフをふるうことが許されてしまっている。
そんな理不尽なことはない。
人は、自分を傷つけるものから自分を守って良いのだ。
ときに逃げたっていいはずなのだ。
だって、ナイフが飛んできたら誰だって逃げる。
なら、目に見えない心をえぐる言葉のナイフからだって、
目をそらして、心をガードするために、
そこから逃げ出したっていいはずだ。
みんな自分の物語を豊かにするために、
わくわくするものにするために、
楽しいものにするために生きている。
それは本来、誰にも侵すことのできない、侵されるべきではない、その人だけの大切な物語なのだ。
「上司のいうことだから」
「仕事だから」
「会社とはそういうものだから」
そういう、広い世界においてはよくわからない定義、慣習により、
人は多くのことを縛りつけられ、自分の物語を、人のレールの上に敷かれているような気がする。
本来もっと自由でいいはずだ。
もっと自分のために生きていいはずなのだ。
本来人生とはもっと優しいものでいいはずなのだ。
あなたの人生も、私の人生も、かけがえのない、たった1人の物語なのだから。
だから、
理不尽に突き立てられる言葉のナイフからは、
自分の身を守って、目を背けて逃げてもよいのだと、そう思う。
平凡なアラサーサラリーマンの独身女子が、人生という名の物語を、1ページずつ、1日ずつ大切に生きるために、ありのままを綴ります。苦しい時も悲しい時も、すべてを受け入れてまっすぐ見つめて前に進むために。人は産まれてきただけで奇跡なのだと、そう信じて。