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生きるための努力に疲れ果てた

ときどき、ふと生や死について、あるいは人生の理由や意味について考えてしまうことがあります。
「なぜ生きているんだろう」「何のために生まれてきたんだろう」「そもそもどうして人間は存在するのか」「死ぬのになぜ生きるのか」
もちろん、これらの疑問には生物の一種としての生存戦略、人格を持つ主体としての尊厳、社会的動物としての構造維持など様々な観点からあらゆる回答が可能でしょう。

しかし私にとって重要なのは、どうしてこれらの疑問が、頻繁かつ自動的に頭の中で繰り返されるのか、ということです。
「生きている」ことが自分にとって当たり前で疑う余地のないものであれば、「私は生きているんだ」と殊更に意識することなく過ごすことができると思います。しかしながら私は「今自分は生きている(だからいつか死ぬ)」ということを、どういうわけか頻繁かつ自動的に感じてしまうのです。
たとえば「寝ている間に侵入者に刺されて二度と目覚められないかもしれない、だから目を閉じれない」「突然気が狂ってこの包丁を自分に刺してしまうかもしれない、だから今日は料理できない」みたいな思考です。これは他者に向くこともあります。「今ここで見送ったら私はこの人と二度と会えないんじゃないか」「私が今ここで愚痴を吐いたら相手はストレスが溜まり溜まって死んでしまうかも」…。
字に起こしてみるとなんとも根拠のないおかしな考えであることがわかりますが、例え頭でそのようにわかってはいても、これらが湧き上がってくるのを抑えるのは、やはりとても難しいことなのです。

それでは、なぜこのような現象が起こるのか、そして元をたどれば「今自分は生きている(だからいつか死ぬ)」ということにばかり、なぜ意識が向いてしまうのでしょうか。
あくまでも私個人の症状の現れ方や感じ方ではありますが、この一年ほどトラウマ治療を継続して受けてわかったことを踏まえると、今考えられる理由は2つあります。

1.人生を送ることに対する現実感の無さの裏返し

解離性障害におけるこの現実感の無さ(現実感消失・離人)という症状は、時に自分を守る一方で、たびたび大きな苦痛をもたらします。自分の言葉で描写するならば、「夢を見ている感じ」「世界全部が嘘っぽい」感覚です。
これは、裏返せば「ここは偽物の世界で、帰るべき場所が別の世界にあるはず」という気持ちを私の中に引き起こします。そしてこの気持ちこそが、自身の人生や生命に対する認識を大きく揺るがしてしまうのです。要するに、「今」「ここ」に本当は私は生きていないと感じるが、現実として「今」「ここ」で生きているという事実は間違いない、これらの相反する二つの間で板挟みになった結果、ある時には「死ななくちゃ」「逃げなくちゃ」(=この偽の世界から離れたい)と思い、またある時には「(今ここで)ちゃんと生きないと」(=この偽の世界に適応したい)という気持ちが生まれるのだと思います。
このような状況下では、「生きる」ということは「自分の人生を生きる」ということを意味せず、ただ「自分として生きているふりをしている」ことにほかなりません。例えるなら、なんとなくあらすじは知っているような小説や映画の世界に突然放り込まれて、そこで登場人物の一人として生きているような感覚です。自分の名前は知っているし、周りの人とどんな関係で、普段はどんな仕事をしていて、どこに住んでいて、何が好きで何が嫌いか…、こういったことを知識としては知っていますが、それが自分自身のものであるとは感じられない。ただ、とりあえず知ってはいるので、その役のイメージに沿ってさも本人であるかのような「ふり」をし続けている。
これが現実感消失や離人と共に「生きる」ということであると私には感じられます。そして仮にこれが私にとっての「生きる」ということなのであれば、生や死、人生の理由や意味といったことにばかり意識が向くのも不思議なことではないでしょう。なぜなら、「生きる」ということの本質を知らなければ「ふり」はできないし、あるいはどこかに「本当の人生」があるのだとすれば、なぜ自分はそれを手に入れられないのかと考えることは当然のことのように感じられるからです。

2.生と死を意識せざるを得ない環境

それではそもそも、なぜ現実感消失や離人がおきるのか、というところに焦点を当てると、私の場合は幼少期にさかのぼることができると思います。なかなか詳しく書くのは難しいですが、小さい頃の自分を取り巻く環境は、あらゆる場面で「生と死」を意識せざるを得ないものだったと感じています。自分の命が脅かされるということに加え、大切な人の命が脅かされたり、あらゆることに永遠は存在しないのだと幼いながらに受け入れざるを得ないような出来事が日常的に起こったりしたことが、今の自分の発達性トラウマの病状に非常に密接にかかわっていると思います。そしてその発達性トラウマの症状群の中核に解離が存在し、その一形態として現実感消失や離人が起きているのでしょう。
このようなプロセスで醸成された価値観、それも「生と死」に関わるものは、別の領域に移してみれば「愛着障害」や「コンプレックス」「トラウマ」などあらゆる方法で表現することができると思いますが、いずれも強固に私の中に横たわり、あらゆる方法で症状を作り出し、さらに自分では意識するのがなかなか難しいものです。これらを刺激しないよう無意識に押し込めながら日々生活する一方で、ときには自分でも思いがけない方法で表に顔を出すため、そのたびにそれらは平穏な日常を破壊し、私を自己嫌悪に陥らせてしまうのだと思います。
理由の1と2は完全に独立であるとは言い難いですが、双方向に因果関係を作り、それが現在もなお「生と死」について考えざるを得ない状況にブーストをかけ続けているのではないかと推測しています。


タイトルの「生きるための努力に疲れ果てた」というのは、ここ最近、希死念慮への入り口としてやってくる思考です。

なんかときどき「生きるのに疲れた」と思うことがある。具体的に誰が嫌だ、この仕事が嫌だとかじゃなくて、なんか生きるためにずっと努力しなくちゃいけないのがただつらい、これ以上がんばれないみたいな気持ちになって、消極的な希死念慮がこれまた自動的に湧いてくることがある。それでいつか死ぬのになんでがんばんなきゃいけないんだみたいな気持ちにもなるし。でも結局、「生きている」ということに確信・自信が持てないから、「生きてるふりをしている」ことが馬鹿馬鹿しく感じるのかも。

これは別の人格が先日書いたものです。私はこの感覚に苦しいくらいに共感できるだろうと想像する一方で、もし一度共感してしまったら自分が崩れ落ちてしまうような底知れぬ怖さがあり、どうしても向き合うのが難しいものでした。逆に言えば、だからこそ解離して別の人格が持ってくれているのだと思います。
しかし、この一年ほど継続して受けている自我状態療法が功を奏して、以前に比べるとここ1~2か月は人格やパーツとの距離がとても近くなり、思考や感覚、記憶などが意図せず混ざる頻度が増えるようになりました。これは、症状がだんだんと寛解に近付いていることを示す一方で、私にとってはときに耐え切れないほどの苦しみをもたらすものでもあります。

今回の記事を書く過程で、どうすれば私はこの「生と死」に関する自分たちの認知をうまく把握することができるだろうかと考え続けていました。トラウマ治療の中で教わったことや、関連書籍などから得た知識、そのほか日々の生活の中で考えたことなどをぐるぐると行き来しているうちに、結局ある程度「他人事」として考えることが、現状、私の心を守るために良い方法であるということに気が付きました。
もちろん自分自身に起きていることである以上他人事ではないのですが、一つの症例として、自分の様子を少し離れたところから確認し、記録して文章に構成しなおすということにより、「私の中に現在進行形で起きていることなのだ」という事実から少し視点を移動し、症状を客体として、私はそこから離れた主体として、ポジションを再獲得することに成功したのです。

とはいえ、この文章を書き終えた今でも、どうすれば「生きているのが疲れた」という状態を解決できるのか、実感としては見当もつきません。そして実感に基づき考えようとしだすと、命を絶つことしか見えなくなるため絶望感を感じます。
しかし今回、症状を客体として扱う主体としての視点を獲得した立場から推測できることは、トラウマ治療を進めることで、この現象を引き起こしている理由の1と2の負のループを断ち切ることができ、それが根本的な解決にいつか繋がるのではないかということです。
ただ、知識として、あるいは論理的に考えた末の結論として、それがわかったとしても、なかなか現時点で解決にたどり着いた自分を想像するのはとても難しいですね。毎日のちょっとした良い変化に注目しながら、とにかく今は耐えるしかなさそうです。

また気づいたことがあったら記事にしますね。今日はこの辺で、ありがとうございました。

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