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わたしにとっての瞑想

私は瞑想をする。瞑想にnoteでふれることは何度かあったけれども、今回は私にとって瞑想とは何か、ということを書いてみたい。

私が語るのは、ヴィパッサナー瞑想に関してである。それも、日本ヴィパッサナー協会が運営している10日間コースで指導を受けた瞑想のことであって、瞑想一般についてではない。私が以下において「瞑想」という語を用いるとき、それは上記の意味であることを念頭に置いていただきたい。


意識と無意識のあいだに立つこと

私にとって瞑想は、意識と無意識のあいだに立つこととしてある。

意識と無意識の境は至るところにある。というより、現れる。私たちの視覚には、見ているのに実際には見えてはいないものがたくさんある。誰かと一緒に絵を見たり、映画を観たりすると、見ているところが全然ちがうことに気付かされるし、自分が当然のように見ていたものが、その人には何の印象も残していないことがある。だからたとえば、見ることの技としての美学においては、ただ「見る」ことができるようになるために様々な努力がなされるのだと思う。画面にあるものをすべて言葉に表して、見えているものを形にしようとするのは、おそらくその修練のひとつだ。

詩人、長田弘は「見えているのにだれも見ていないものを見えるようにするのが、詩だ」と言っている。異化作用としての詩、無意識の働きを意識へと浮かび上がらせるものとしての詩がここでは言われている。

このように、無意識的なものを意識するための技、無意識と意識のあいだ(前意識)に立つ技はいくつもあるわけだが、そこには瞑想も含まれる。そして、瞑想ほどにラディカルにそれを成し遂げようとしている方法はないように思われる。瞑想の射程は「生きること」である。

瞑想をひとことで言い換えるとしたら、起きながらにして眠ることだ。それは、眠りには就かないが、目は閉じているという状態である。私たちは眠るときに目を瞑る。だが、目は瞑っているにもかかわらず意識が覚醒していることによって、起きながらにして眠っているという状態を作ることができる。それは、夢において開示される無意識の領野に意識的に分け入っていくことだ。岡潔は「過去なしに出し抜けに存在する人というものはない。その人とはその人の過去のことである」と言う。私を知るということは、私が過去にどのような条件付けを経てきたかを知る、ということである。瞑想は、無意識の領野に深く埋んでいる私という人間のあり方に気づくことである。

「起きながらにして眠る、があり得るのであれば、逆もあり得るのではないか。」
まさにその通りである。瞑想の実践においては「眠りながらにして起きている」という状態も目指されている。つまり、身体は休息モードに入っているが、意識は完全に消え入らずに少し醒めているという状態。眠っているとき、私たちの身体は無意識の為すがままになっている。蚊が止まれば、無意識に刺されたところを掻くし、寝ているときには身体中がピクピク動いている。これらは無意識による反応であって、それらは過去の条件付け(=今の自分のあり方)を強化する方向に進む。だが、眠りながらにして起きていることによって、無意識に反応をしないでいることができる。それで睡眠が浅くなるのではないか、疲れが取れないのではないか、という心配は確かにありえようが、このように眠りながらにして起きるという睡眠の仕方がうまくできるようになると、朝もすっきり起きることができるようになる(らしい)。


サブリミナルな手法について

私たちの無意識は常に反応している。サブリミナルな手法を用いた広告はそれを悪どい方法で応用したものである。文化にはタブーがある。今日の近代化した社会においてはしばしばそれは「性」であり「死」である。ウィルソン・ブライアン・キイ『メディア・セックス』に書かれているのは、その文化にとってタブーとされているものを連想させるような記号や文字が「薄く」入っていると、人はついついその辺りを見てしまうという例だ。それは性器や髑髏のマークであったり、「SEX」や「DEAD」という文字であったりする。「薄く」というのは、閾値を下回る程度の、という意味である。その情報は閾値を下回っているので、意識されることはない。が、代わりに、無意識がそれに反応する。だから、どこがどう、ということは言明できないのだが、私たちは「なんとなく」でこの商品がいい、というふうに刷り込まれていく。

リラックスしていれば、こういったサブリミナルな効果にも気付きやすい。そのときの緊張状態によって、意識できる範囲は広がりも狭まりもするものだ(だから集中とは、しばしば思われがちなように何かを一点に集めることというよりは、意識が広く行き渡っており、その中のどんな小さな一点も見逃さずにいられるという状態である)。情報の氾濫する今日、私たちの神経はすり減り、それに拍車をかけるように、膨大な量の広告が流れ込んでくる。訃報があり、ポップなCMがあり、天気予報があり……それらが矢継ぎ早に流れていく。YouTubeの広告でも流れていくタイムラインでも同じである。当然このような状況では、逐一広告の隠された意図に気づくことは極めて難しい。

それに科学的な根拠があるのか、という意見があるだろう。「科学的な」というのが、客観的に計量可能な、ということを意味するのであれば、根拠を証明することはできない。なぜならそれはサブリミナルなものだからである。だが一方で、『メディア・セックス』が示している多くの例を鑑みるならば、使う側にとっては、その手法が広告としてより大きな効果を発揮するのであれば科学的な根拠があろうがなかろうが使えばいい、ということになっているのかもしれない。

この本では、視覚に訴えかける手法が多く紹介されているが、サブリミナルな影響を受けるのは何も眼だけではない。私たちの聴覚や味覚もそうである。むしろ、無意識のレベルで条件づけることができたらなんでもいいので、人間の感覚器官は全てこの手法の対象になり得るだろう。

この本には、超有名バンドや某高級ブランドの例が出てくる。本当かどうか信じられないというのは納得する。少なくとも頭だけの人間になってしまい、身体の「その他の部分」を無意識の反応の為すがままに任せている人であれば当然のことだろう。だが問題はそれが「科学的に」真か偽か、ということではなくて、自分の身体に照らしてそれが信じられるかどうかだ。

自分の身体、経験に照らして考えることと、受け売りの知識でもって考えることと。ここで私は二つの生きるあり方を念頭においている。内側から生きるあり方と、外側から生きるあり方だ。外側から生きることに私たちは慣れている。上記の「科学信仰」もそれに類するものだろう。そしてまた、しばしばそれだけが唯一の視座であるかのようにして過ごしている。


外側から生きるあり方

身長は何センチ、体重は何キロ。それでこういった顔をしているということを写真(それもしばしば胸から上の正面を向いた写真だ)を提示することで示す。あるいは、こういった学校を出ており、そこはこれくらいの偏差値だということ。それから収入がいくら、血液型は何型、生年月日は何年何月何日で、星座は△座。趣味はこれこれで、好きなアーティストは〇〇、あるいは好きな××は……。

こういった「客観的な」指標は確かに「客観的」なので、誰かに自分の「こと」を伝えるのには便利だ。したがって、以上のような項目はしばしば自己紹介のときの話題にもなる。

が、一方で、これで伝わるのは、自分の「こと」であって、「自分」ではない。自分の「こと」とは、自分が所有する「こと」のことであって、それは私自身を何も説明してはくれない。私が何かを所有するとき、私は、私が所有していると信じている当のものによって所有されている。それは断片として私が存在しているということでもある。おそらく「自分」は(自分の「こと」ではなく)、声のトーンや姿勢、身振り手振りなんかから漏れ出るのだろう。ぼそぼそと小さな声で下を向きながら話す人が、人と話すことが好きです、と言ってもなかなか信じてもらえないはずだ。だがもちろん話しぶりやジェスチャーがそのまま即「自分」であることもないので、「ギャップ」が発生し、ギャップ萌えのような事態が起こることもある。

また、その指標が「客観的な」ものであるということは、自分を代替可能なパーツとして捉えること、そしてそのパーツの寄せ集めを提示していることにもなる。私が幼い頃にはプロフィール帳が流行っていた。バインダーのようなものに様々な質問項目が書いてあり、それを友達に配っては埋めてもらい回収する遊びなのだが、この遊びが成り立つには、その空欄の中身を入れ替えたら他の人になるということが前提されていなければならない。おそらく今日の労働においてもそういった場面があるだろう(むしろ、子どもの遊びは大人のあり方を様々な形で炙り出すことがある)。

だが、私が今まで括弧をつけて「客観的」と書いてきたように、こうした「客観」は客観のようでありながら、実際のところ、「わたし」を記述するにはあまりに不十分だ。むしろ、「わたし」を記述することができないということが分かっているからこそ、そういった指標を作ってはあてがっているのかもしれない。つまり、それが実は相対的であるという意味で、否定的なニュアンスでの「主観的」だという言葉がしっくりくる。「客観」を「客観」として把握することはできない。「客観」への通路は各々異なっているのだから、それぞれの「客観」は実は「主観」だ、と言うことも可能だろう(思弁的な議論はこれくらいにしておこう)。

私とは要素の集合ではない。が、「外側から自分であること」に慣れている私たちはじぶん自身を「客観視」しながら、自分を細切れの要素のように捉える。だから婚活がマッチングのビジネスとして成り立つのだろうし、「ダメなら次!」という言葉があり得てしまう。


内側から生きるあり方

だが、こういったあり方が全てではない。私たちは内側から、ひとりの人であることもできる。そしてその実践のひとつに瞑想がある。私の/というからだが日々感覚している事実に気づいていること。それは地道な過程であるが、本来的に私が知ることのできることは、このからだの範疇を超えては存在しない。どこかの誰かが証明したことや、発見したもの、そういったものが私の生活を支えていることは重々承知している(それは豊かさでもあろう)。だが、それは全て頭における知識であって、それが私の全てではない。「この」色、形、匂い、ざらつき、それらはどこまでいっても私のからだと接触したものである。以上でも以下でもなく、ただそれだけである。それに気づくことと気づかないことと、その二つの選択肢があるだけである。

この感覚に気づかないでいることは、気づかないところで私の条件付けが繰り返されていく可能性がある、ということを意味する。無意識は変わらず無意識のままであり、私は「知っている」範囲に安住し続ける。反応が繰り返される。一方、動かず、私が今感じている感覚に気づいていれば、条件付けを重ねるか重ねないかの分岐に立つことができる。背中を掻いてもいいし掻かなくてもいい。足を組み直してもいいし、組み直さなくてもいい。私はこのようにして過去にコンプレックスを生み出していたのだと「気づく」ことができる。私は内から、私である。

では具体的な方法は……と話を進めたいのだが、私が具体的な瞑想の方法を述べることは禁じられている。それは、瞑想がその人の過去に遡るある種の「手術」であり、素人の私が指導することには危険が伴うからだ。もし知りたいのであれば、参加し、「内側から生きて」もらうことしかできない。だが、内側から命を生きる方法は瞑想だけではない(命のことなのだから当然だ)。それに、瞑想のようなラディカルな方法が多くの人にとって必要であるとも限らない。別に瞑想でなくとも、人との会話の中で、あるいは読書の過程で、私たちの無意識は常に私たちの意識と境を接している。そこからこれらのあいだを生きる技を編み出すこともできるかもしれない。


内側と外側のあいだで

二つのあり方を以上に述べた。外側からのみ生きることは、延命するのには便利かもしれないが、それは「この命」をみずみずしくはしない。

外側から生きているとき、目の前に現れてくるのはどこまでいってもすべて交換可能な機械のパーツだ(もちろん自然も、人間も)。自然は搾取の「対象」となり、開発や搾取が進む。また、人間の内面はブラックボックスである、として、どんどん行動へと駆り立て/られていく。私たちが生きている現状である。

この視方においては、「わたし」も「あなた」も臓器の集まりでしかない(いつから私たちは骨と肉になったのか。内側から確かめるなら、より硬いところとより柔らかいところが感じられるに過ぎないのだが…)。体を劈いたこともないのに、私たちは知った気になっている。知識とは外から差異を眺めることのようだ。それは距離である(一方、知恵とは内から生きることであり、そのときそこに距離は存在しない。私がそれであるところのものとして知恵はある)。

他方、内側からのみ生きていこうとすることもまた、理想としてはいいかもしれないが、決して現実的ではない。それでは他者との回路を持つことができない。むしろ内側から生きることは他者と出会うための準備としてあるように思われる。もちろんそうして出会うのは他者一般ではない。その都度接する「あなた」である。恋人である。家族である。友人である。そうして人の中で生きていく過程で、ときに全くの他人と「出会い」もする。

内側から生きるのであれば、私が今この瞬間に感じている感覚は他の誰かと共有できるものではありえない。私とは他の誰かと代替不可能なこの奇形であり、この身体と接触したものだけが「わたし」には感じられるのだ。そして、この接触こそが今の「わたし」の成り立つ基盤であり、したがって、この「わたし」と世界とが接触する出会いの場としてのこの身体、この奇形こそが私の世界と言うことさえできる。ただ、共有できるものがないということは、共通点で人と仲良くなろうとする試みがことごとく失敗するということでもある。それは、違いを、あるいは私を凌駕する他者の過剰を認め、その過剰と付き合っていくという方向性へと導かれるだろう。

そもそもどちらかだけのあり方で生きている人はいない。以上は二つの極だ。内から生きる方法としての瞑想が意識と無意識のあいだに立つことであったように、重要なのは、内側と外側のあいだを生きようとすること、これら二者のあいだを往還することではないだろうか。それは都市で暮らし、ひたすら無意識的な反応に踊らされるのでも、また瞑想ジャンキーになって世を罷るのでもなく、人中、人のうちにおいてバランスをとっていくということだろう。

そして、外から生きることが自明視されている今日、バランスを取ることはしばしば、内側から己を生きる方向へと比重を傾けることだろう。だから、私にとっては瞑想は「しんどい」し、もうコースに参加したくはないと思うけれども、「生きよう」と思っている以上、瞑想は私に必要なものなのである。

私は瞑想をする。

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