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消化不良のわたしたちは堆肥として

四月は最も残酷な月、死んだ土から
ライラックを目覚めさせ、記憶と
欲望をないまぜにし、春の雨で
生気のない根をふるい立たせる。
(T・S・エリオット『荒地』より冒頭部分)

四月が終わりました。死と再生の季節はもう終わったのだろうか。私たちは来るべき緊急事態宣言解禁の日に向けて気持ちを昂らせている。宣言が延期されるだろうというニュースも見るが、日が長く、気温も暖かくなるにつれ、早く外へ繰り出したいという気持ちにもなる。私の住む大阪でも、品切れになりがちだったマスクがあちらこちらで売られているのを目にする。それは決してコロナ禍の収束を意味しないのだけれど、なんだかこの「我慢」の時期が終わっていくような気持ちにもなる。河川敷で遊んでいる人の数は日に日に増えている。

私たちはコロナウイルスと戦おうとしてきたし、今も戦っている。私たちは敵を作ることで「私」の輪郭を縁取っていこうとすることの限界を知っているはずだが、そのわかりやすい論理にいまだ囚われてもいる。コロナウイルスはたしかに人間を脅かすが、私たちを脅かすのは何もウイルスばかりではない。「凶暴な」野生動物たちを飼いならしてきて、動物園で写真なんか撮るようになってしまって、人間は、人間以外にも「他者」がいるということを、ともすると忘れがちだ。だが、人間だって喰う主体でしかないわけではない。

「コロナに負けない」

友人のnoteを思い出す。

コロナに関するテレビ、新聞、ネットニュース、SNSの投稿などを見ていると、「コロナに負けない」「コロナとの闘いに打ち勝つ」という言葉がよく聞かれる。
だけど、わたしはこの言葉になんとなく違和感を覚えている。
コロナは負かすべき相手なのだろうか。
わたしたちはコロナに打ち勝つことができるのだろうか。
既に、世界中で150万人以上が感染して、9万人以上が亡くなっている現状を考えると、コロナに勝つとか負けるとか、そういう話ではないように思えてくる。
(2020/04/22 しふぉ「コロナで思うこと3 「コロナとの共生」より)

友人はこのようにnoteを書き始め、コロナウイルスと、大学院で研究してきた防災とを結びつけて考えている。東北での二年間を経て、自然災害は「特別なもの」ではなく、「日々の暮らしと同じ線上にあるもの、自然の営みのひとつ」になったという。

防災は、「いかに自然をコントロールするか」でも、「いかに自然災害に立ち向かうか」でも、「いかに自然に打ち勝つか」でもなくて、「母なる自然や周りの人たちとの関係を日々構築していくこと」なのだと思うようになった。

コロナも防災も「うまくいってもゼロ、うまくいかなければとても大きなマイナス」であり、そこにこそ難しさがあると言う友人は、「どうやってコロナと折り合いをつけていくのか、どうやってコロナと共生する暮らし・日常を築いていくのかを、現在進行形で考えていくことが求められているように感じている」と言う。

そしてコロナと防災に類似を見出した友人はその次のnoteでコンポストの実践をコロナへと結びつけていく。そして何よりこれはコロナとの共生を「現在進行形で考えていくことが求められているように感じている」と述べ、あるいは「日々の暮らしの中で、海や大地といった自然や周りにいる人たちと繋がりを紡ぎ、受け入れ、共に生きていくことが本当の防災なのだと思っている」と述べる自身が、ある種の「コンポスト」であろうとしていることの表明のようにも響いてくる。

コンポスト。堆肥。それはpostをともにする(com-)ことでもある。

私たちは喰いつつ、喰われる。だが、「他者」はいつも過剰を湛えているのだから、喰うときも食われるときも余剰が残る。そしてその余剰は、消化されきらないことによって、また「他者」を利することもある。

たとえば葉緑体は真核細胞に飲み込まれた緑色の光合成細菌が消化されないまま残った、その成れの果てだという。あるいは疣もそうだ。ちょうど一昨日教えてもらったことなのだが、疣は傷口からウイルスが入ることによってできるらしい(皮膚の細胞分裂が失敗したものか何かだと思っていた私には驚きだった!)。でもあれだって、私を痛めつけることなく、でもそこでたしかな存在感でもってただ、痼っている。私たちはあれを切除してしまうこともできるが、疣ウイルス(ヒトパピローマウイルスという名前だそうだ)の側から見れば、私たちヒトが、喰われきらないで残っている部分だとも言える。


喰らって喰らわれて消化不良の「わたしたち」

「マルチスピーシーズ人類学」の雑誌『たぐい vol.1』に、ダナ・ハラウェイの議論に関する、逆巻しとね氏の文字通り大変「味わい深い」文章が載っている。この文章には「前菜」があり「酩酊」がある。そして「主菜はわたしたちである」。もちろん最後は排泄へと終わる。この一連の食の流れ(いや、“一”連と呼ぶことはナンセンスだろうが)を追うようにしながら読み進めていく過程には肉の眩暈とも呼べる愉しみがあるのだが、惜しみつつもここからつまみ食い的に引用をする。

ダナ・ハラウェイは「動的共生体」という概念を用いるが、これは、「相互作用をするアクターの集合体」ではなく、また、「宿主とその他の共生生物を足し合わせた全体」でもない。言うなればそれは「行為や関係が生成する前に存在するものではなく、複数種の行為のなかで関係が生成し身体が構造化されていく、内的作用(inter-action)そのもの」だという。私なりに換言するならば、[1+1=2]なのではなくして、[ + = ]や[ − = ]、あるいは[ × = ]や[ ÷ = ]の空欄を埋める中で、あとから1や2が出てくることだ、と言えるのかもしれない。

また筆者は、「動的共生体」を、東千茅氏の言葉を借りつつ、「生きるために食べることと共に生きることの「癒着」であり、「自他の相互越境状態とでもいうべき開放的な個体の生の本然」と表現している。

生物どうしが捕食者/被食者へと生成することもあれば、互いを共生生物として抱き込むこともありうる。生きるための捕食は生きるための存在自体の変容を伴うため、捕食者/被食者を予め区別することはできない。それらの差異は、接触領域のただなかで偶発的に生じる役割の分化に過ぎない。里山で自給自足生活を送るうちに、「かえって個我というそれまでこだわってきた枠が侵犯される結果となり、あまつさえその侵犯されてあることにこの上ない悦びをかんじている」という東千茅の感慨は、この動的共生体の生きた実例と言ってもいいだろう。食糧自給の達成とは、食糧となるいきものと共に生きざるを得なくなるという意味においては、自足の放棄でもあるのだから。
(逆巻しとね「喰らって喰らわれて消化不良の「わたしたち」─ダナハラウェイと共生の思想」より)

生きる以上、他の生き物を殺さないではいられない私たちにとっては、食べること=殺すことと、共に生きることとが同じだと言えなくてはならないのではないか(ヴィーガニズムを実践しているからといって生き物を殺していないということにはならない、もう既にして腸内に棲んでいる微生物、共生してしまっている微生物を無視することはできないだろう)。私たちはペットを食べるなんてとんでもない、と思うのだが、そればかりが共に生きるあり方だとは限らない。可愛がっている「にもかかわらず」食べるのではなく、可愛がっている「そして」食べる、もありうるのではないか。羊や牛を可愛がって飼いつつ、屠って食べることは両立する(というよりは両輪と言えるだろう)。そしてこうして書いている中で、私は自分のタブー意識さえ炙り出されていくのも感じる。では、共に生きる人間同士のあいだにも「共生生物」ではなく、「捕食者/被食者」の関係があり得てしまうのではないか、というからだの底から寒くなるような想像。もちろん、「捕食者/被食者を予め区別することはできない」のだが……。

だが私たちは「他者」を食い尽くすことも「他者」に食い尽くされることもできない。一部は消化できるけれども、消化できない部分は消化されないまま体内に残るか、排泄される。私たちは喰う/喰われる。でも、この「/(スラッシュ)」は、その表面は、決してつるつるした「インターフェイス」ではない。むしろメルロ=ポンティに倣い、それはでこぼこと嵌入し合う肉の折り込み、襞に例えられている。そこは面と面の接触としてではなく、一と多が新たな複合的なパターンを生成するずっと動的な場である。


堆肥としてのわたしたち

もちろん、ホモ・サピエンスさえ、堆肥化を免れることはできない。

ポストヒューマンにこびりついていた自律的なヒトの残滓を捨て、共に依存しあうわたしたちは、退避地を失い痩せていく大地の上で、さまざまな堆肥を制作する。生物に食われたあと未消化のまま残される排泄物もそこには含まれる。わたしたちは土壌微生物に分解され、やがて腐植となり、未だ存在しない未知の生を育むだろう。わたしたちは堆肥をつくり続けることによって、数えることのできない堆肥体となる。
(・・・)わたしたちは、共に喰らいあいつつ仕方なく一緒に生きるあいだに形質転換していく。いつまでも喰らい喰らわれ排泄し排泄されながら死につつ生きながらえるわたしたちは、この現在進行形の分厚い現在にとどまり続ける。物理学的平衡を突き崩すトラブルとともにとどまり続ける(スティング・ウィズ・ザ・トラブル)。これはヒトのままでは思考できない実存、堆肥体へと至る身体的実践である。

コロナウイルスの感染拡大を前に、私たちはどの方向を向くことができるだろうか。ウイルスに真っ向からぶつかり抗う方向、そして、生き残ったら人間讃歌を歌う方向? あるいはこの「他者」と私も同じ地平にあるということを思い出しつつ、死んでいく私、あるいは生き延びる私を「生きる」コンポストとなる方向?そのほかは?

いずれにせよ、誰もが食べないで生きていくことができない以上、そして、食べるときには消化されきらない部分が残ってしまう以上、ウイルスに打ち勝とうとすることは「非現実的」に思える。私が今生きているということは既にして共生してしまっているということだからだ。もちろん、感染を拡大させない努力は必要だ。だがコロナ「対策」が共生の方向を向かないのであれば、それがコロナを「殺す」方向に向かうのであれば、「私たち」の幾分かを殺すことにもなるのだということを忘れてはいけないだろう。

文章は最後に「野糞」へと至る。そこで言及される「野良」の記述に励まされる思いがするのは私ばかりではないはずだ。

かつては飼われていたものが野に放たれたとき、それは「野良」と呼ばれる。家畜でも野生でもない野良。野良犬、野良豚、野良猫、野良カミツキガメがいるなら野良人がいてもいいだろう。完全なる飼育も純粋無垢な野生も存在しないわたしたちの世界のなかで、わたしは自己同一性を担保された会社人としてではなく、有象無象と共に生成する野良人として今、切り出されようとしている。堆肥(コンポスト)のなかの野良(フェラル)、野良のなかにも堆肥。ほとんど野糞だ。わたしたちのなかでわたしは野糞として生きていて、わたしのなかには消化不良の来るべき野糞のわたしたちがたむろしている。少なくともわたしのからだはそのように応える。

研究機関に勤める専門家や、世間で「地に足をつけて」生きている人だけが主役なのでもない。多かれ少なかれ野良化された私たちのコンポストが、あるいはコンポストの私たちが「ここ」を耕し続けるだろう。安心して、喰い、喰われたらいい。

この朗らかさ、バタイユが太陽肛門を見上げた景色に遠くはないような気がする。どんな非力な赤子でも、己のからだを用いて「ものを形作る」ことの神秘を思うなら、私たちは、ネクロフィリアとしてではなくより有機的なものを愛する気持ちとして、「堆肥」に「野良」に、魅せられることができるのではないか。

最後にもう一度冒頭の『荒地』を引用しよう。

四月は最も残酷な月、死んだ土から
ライラックを目覚めさせ、記憶と
欲望をないまぜにし、春の雨で
生気のない根をふるい立たせる。

四月、残酷な月が終わった。だが死と再生の季節が終わったわけではない。私たちの起き上がる土はもはや「死んだ土」ではないだろう。このコンポストで記憶(過去)と欲望(未来)をないまぜにしつつ、私たちは分厚い現在を生きるのだ。


〈参考文献〉

・『たぐい vol.1』(亜紀書房)
・『たぐい vol.2』(亜紀書房)
・ジョルジュ・バタイユ『太陽肛門』(景文館書店)
・エーリッヒ・フロム『悪について』(筑摩書房)
・T・S・エリオット『荒地』(岩波書店)
・しふぉ「コロナで思うこと」(https://note.com/shchiffon/m/m3721d989d3b9)

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