人類みな奇形

 兵庫県立美術館、「ヒーロー&ピーポー展」に行ってきた。中でももっとも印象的だったのが石川竜一さんの写真だ。彼の写真を観て、わたしは人間はみな奇形だ、と思った。

 最近ある友人がプチ整形をしたという報告をくれた。身体を加工することに関してはわたしは特に何も思わない。ピアスはオシャレとしてあまりに浸透しすぎているけれども、じぶんの身体の表面を加工する行為として、整形もピアスも刺青も、当然化粧も、さらにより身近なところでいえば服装だって同列に扱えるものだと思う。いじるのが顔面だからといって、そこに過敏になる必要はない(どうして顔面に対して過敏に反応してしまうのかは一考に値しそうだが)。じぶんの表面は世界との接面だ。よりみずみずしい世界と出会うために、あるいは時に世界と距離を置くために、表面を加工することは私たちにとって当たり前のことだ。本人がいいのならそれでいい。
 だから、友人に対して、整形してよかったね、とも、しないほうがよかったよ、とも言う権利はわたしにはないわけだけれども、今日石川竜一さんの写真を見て、わたし自身は整形をしたくないと、この”奇形”を塗りつぶしてはいけないと、思ってしまった。そして友人に対して寂しい気持ちを抱いてしまった。どうしてわたしはこの顔面の造形にこだわってしまうのだろう。

 ある展示室が丸々石川竜一さんの作品のために設けられていた。ほぼ正方形の展示室の中央には映像を流すための部屋が建てられており、中は暗い。ここではあるひとりの人間 《MITSUGU》の写真と映像が展示されている。この部屋を出ると、展示室の壁面には大量のポートレートが貼られている。一部、人が写っていない写真もあったが、ほとんどが正面からこちらを向いている全身の人物写真だ。ある壁面には顔のドアップの写真が並べられている。
 この展示室を表現しようと思うと、つい被写体の人間をラベリングするような言葉が出てきそうになる。でも、そこから逃れ出るなにかにこそ、わたしはこの展示室で魅せられたのではないかと思う。命名を拒む究極の具体、ざらついたものとでも言えるだろうか……。

 あまりにも人間の造形は違いすぎる。私たちはみなが奇形だ。ある理想形との距離を測って奇形と言っているのではない──身体の部位が欠けていることや逆に多いことを奇形と呼ぶように。そうではなく、同じ名で呼ぶ部位を持っていながらも誰もが誰もに対して異なっているということ、そしてその人と人との違いはたとえわずかなものであっても、強い異様さ、他者感とともに捉えられるということ。
 日常的に人の流れを見ていても、そこでこの人の造形は異様だ、と思うことはない。一つにはその相手の人と遠ざかっているからであるし、また、逆に近すぎると顔と顔の磁場とでも呼べるような不思議な圏域に入ってしまい、モノとして相手をまなざすことができなくなるからだ。人に見られている感覚には私たちは敏感だ。そして、見られている、と思って、その人の方を向くと、一瞬目が合うか合わないかのうちに相手はまた目を逸らしてしまう。相手に見ることを求めながら、でも、じっと見つめられるのには耐えきれない、顔をめぐって、そういった奇妙な動きがある。人をモノとしてまなざすことができる場は限られている。写真や映像のような媒体を通すか、マジックミラーやサングラスのような遮蔽物のこちら側に隠れて盗み見るか。ときに媒体も通さず何にも隠れず、モノのように見る視線があるが、それは非常に強い暴力性を帯びる(わたしはそれを別の投稿で書いた)。
 普段人の顔をじっと長時間見つめる機会はない。顔は、他者に対してあるものであるし(じぶんにはじぶんの顔が見えないという事実)、また、じぶんの顔は他者の顔の変化に合わせて反応するものである(時間性のなかで顔は捉えられる)からだ。
 わたしはこの展示で人の顔をじっと見つめることができた。ある壁面には顔面のドアップが数枚横に並べられている。シミや皺だらけの老婆。おそらく片目は見えないのであろう、片目だけでこちらをまなざす男……。そのあまりのざらつきに、深く経験を織り込んだ表情に、そしてそれが一瞬のシャッターに切り取られたというもの悲しさに、もうこちらを見つめないでくれ、という気持ちになった。
 本当はそれぞれの顔にそれぞれの歴史があるはずなのだ。だから、被写体の方が高齢になるにつれてその写真はより「痛ましい」ものに思えてくる。そして、若くて今は「歴史」のない顔であっても、それも一つの奇形であり、時間とともに成熟していき、そして最後には枯れていくはずのものなのだ。顔は今の自分にとっての世界との出入口であるのみならず、今までのじぶんにとっての世界との回路でもあるのだ。それを「作られた理想形」(「美人」は時代によって変わる、平安時代の美人を引き合いに出すまでもなく)という権力性に、普遍という名ののっぺりした平面に回収させるのは悲しい。あるひとつの人間の顔が永遠に欠番となってしまう……。
 次に友人と会うとき、文字通りわたしはどんな顔をしたらいいのだろう。どんな顔ができるのだろう。
 ひとことで言うと、やっぱりそれはずりーよ、って気分だ。

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