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自己紹介(と、近況報告、あるいはその不可能性)

葦田不見(あしだみず)と申します。自己紹介と近況報告をします。

「詩人」であり、「記者」であり、その他の側面もあり、というわたしについて、なるべく広く浅く書こうと思っています。それぞれのパートにリンクを貼っているので、もう少し深く知りたいと思われた方はそこから飛んでみてください。


◉  プロフィール

生誕:1995年3月
出身:大阪府
在住:大阪府豊中市でシェアハウス
好物:ポテトサラダ、酸っぱい料理

◉「詩人」として

詩を書いてきました。それまでも文章をしたためるということはしてきたけれども、「書く」と決めたのは2017年4月です。以来、6年以上書いてきたことになります。「葦田不見」(あしだみず)というペンネームもそのときに命名しました。由来としては、「葦田」は本名の苗字からとって、「不見」は「水」が好きだったことと、「見る」というはたらきに代表される視覚優位、可視主義のようなものに一石を投じたいという思いをそれとなく込めたと記憶しています。

自己紹介代わりの一篇

どんな詩を書いているのかを知りたいひとには、まず、資生堂の主宰する「花椿」というメディアに「2月の詩」として選ばれたこちらの詩を見てもらうことにしています。

「皆紅」という詩で、文月悠光さんによる選評が載っています。


2019年、『不/見』自費出版

それから、2019年12月には友人の協力を得ながら、自費出版という形で詩文集を出版をしました。『不/見』というタイトルで、Amazonから随時購入することが可能です。

この詩文集では、「眼の剔抉」というのをテーマに詩と物語、エッセイを収録しました(「不見」という名前の由来とも通じるものです)。出版時の思いは以下のnoteに書いていますので、気になる方はご覧ください。

2020年、二人展開催

画家・airi maeyamaさんと、大阪のイロリムラ(中崎町)というギャラリーで二人展《ひとと ひとと ひとの あい間 ゆ間にすむ》(2020.3.18-3.23)を開催しました(airi maeyamaさんには『不/見』の表紙も描いていただいています)。どういった内容だったかを示すのに、展示のコンセプトの一部をこちらに引用します。

画家・airi maeyamaと詩人・葦田不見は、異なる12種類の紙にそれぞれが絵と詩を描き/書き、そこから神経衰弱のようにして12ペアを作りました。それは、偶然性の入り込む余地をあえて設けるということです。線とは、何かを隔てるものである一方で、何かを結びつけるものでもあります。私たちが常識として扱っているものも、はじめは偶然結ばれたものであって、何度もなぞり直しているうちに、それが「当然のもの」になってきたのでしょう。人が通ったところから土が踏み固められていって「道」になるのです。夜空に浮かぶ星座たちも、かつてはただの白点の集合でした。

では、そんな常識をもう一度、偶然の渦の中に放り込んでみてはどうだろうか。いつもとは違う点と点を結んでみてはどうだろうか。そんな思いで、私たちはあえてテーマも決めず、12枚の絵と詩を突き合わせました。そこには、いかにも似つかわしいような照応関係を見出だせるものもあれば、歪に見えるものもあるでしょう。でも、そこに何かしらの関係、あるいは非関係をあなたが見出だしてくれたこと、それがとても貴いことだと思うのです。ただの白点を結び、それをオリオン座と呼んだひとがたしかにこの地にいたのです。

(「ひとと ひとと ひとの あい間 ゆ間にすむ」展示コンセプトより)

この展示の図録はBASEから購入可能です。


寄稿した作品

いくつかの媒体にも寄稿しました。オンラインショップ等で手に入るものをこちらに記載しておきます。

造鳩會が主宰する文藝誌、「異界觀相」です。それぞれ、一篇ずつ「詩」を書いています。

寄稿等は随時募集しています。各SNS等のメッセージもしくは、こちらのメールアドレス(ashida.water@ジーメール)からお願いします。

SNS

その他の詩作品については、一部がInstagramに載っています。

Twitterはこちらです。


◉「カホンプレイヤー」として

Cajón(カホン)というペルーの打楽器があります。箱型をしていて、椅子のようにまたがって奏でる楽器です。もともとドラムを叩いていた経験もあり、部屋でもできるというメリットもあって、家でCajónを叩いています。Cajónを買った経緯はこちらのnoteをご参照ください。

Cajónをただ叩くのではなく、詩の朗読とあわせるのを試みています。今シェアハウスに住んでいることは上に書きましたが、Cajónを用いた朗読の様子をシェアメイトの映像監督・清水啓吾くんが撮ってくれました。この動画で朗読している3篇は、上でも触れた詩文集『不/見』に収録されています。

そのほか、Cajónの演奏音は、以下の動画でも使用していただいています。


◉「記者」として

2023年、勤めていた会社で異動になって、小さなメディアの「記者」をすることになりました。業務としては、取材、執筆、校正等を自分たちで行います。しかしながら、異動後数ヶ月で休職することになりました。大きな理由としては、家を出て、満員電車に乗るということができなくなったことが挙げられます。そのあたりの詳細は、以下のnoteに記しました。

◉  近況報告

上記のように、詩を書きながら、Cajónを叩きながら、記事を書いています。そして、「記者」としては今は休職をしていて、文章を書くことは続けながらも、復職(あるいは転職?)のために、自分と向き合う時間を取っています。

自分と向き合うという過程で、バイクと狩猟の免許合宿に申し込みをしました。バイクの免許合宿の様子は以下のマガジンにまとめています。

狩猟の免許合宿は来月から行く予定をしていて、今は狩猟に関連する本を読んで勉強しています。狩猟免許の取得過程については他日、noteにまとめる予定をしています。

◉  まとめと、自己紹介の不可能性

以上、おおまかに葦田不見(というペルソナ)についての紹介と、近況報告をしました。これからもnoteで記事を書こうと思いますので、気になる方は引き続きご覧ください。よろしくお願いします。

末尾にですが、自己紹介というものは不可能だ、という話をしたいと思います。自己紹介とは、自分から見た自分、自分が知っている自分を、しばしば文字・文章で表現することです。ここには2人の自分がいます。見る自分と、見られる自分です。

そして、見るということには、しばしば恣意性が伴います。見たいものを見、見たくないものを見ない、というのはひとの性です。ですから、自己紹介をしたからといって、そこに「本当の自分」があると考えるべきではありません。自己紹介されたからといって、それをそのまま受け取るべきではありません。ここには書かれなかったこと、書きたくなかったことがあるということです。

とはいえ、本当の自分なんてものが幻想であるのも事実です。自分というのは、凝り固まった結晶、というよりかは、ある程度の強度は持ちつつも変化の過程にあるもの、たとえるなら液晶のようなものだからです(垂れているステンドグラスを想像してください、垂れた部分は光の屈折の仕方が変わり、だからわたしたちが受け取る光、見え方も変わります)。

自己紹介は本来的には不可能なものです。そこで今回は葦田不見という「幻想」を提示しました。

紹介された自己とは幻想である。とはいうもののしかし、わたしたちは幻想から自由になることもできません。見たいものと見たくないもの、見られたいわたしと、そうは見てくれないあなた、そういった相剋の中に出会いがあります。ですから、いろいろな側面から何度も出会うしかないのでしょう。ひととの出会いには、ストーカーのように横顔を覗き見るばかりではなく、正面から相対することも必要なのです。今回提示した葦田不見の幻想ばかりではなく、他の側面も知ってもらいたいと思います。もちろん同時に、わたしもあなたのことが知りたい。だから、あなたの書いたものも見せてください。それが幻想でもいい。その幻想を幾重にも重ねたものの隙間から「本当のあなた」が見えるなんていうことは期待していません。その重ね合わせこそがあなたであり、そこに居合わせたわたしだということ。だから、幻想だけを見てはなりません。幻想を見ず、不見です。わたしはあなたに会えることを期待している。わたしはここにはいない。でも、いる。だから、また別の場で、それがnoteかもしれずSNSかもしれず、ペットボトルの散乱しているこのシェアハウスかもしれないが、また別の場でも会いましょう。その日を、その時を、楽しみにしています。

お読みいただきありがとうございました。

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