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最近のこと

ここ最近のことを、最近読んでいる/読んだ本とともに記す。

休職

仕事を休職することになった。もう1週間以上経っている。はじめの1週間はほとんどベッドから動くことができなかったけれども、今はちょっとした外出くらいはできるくらいには恢復した。とはいえ、まだまだ復職は遠いように感じる。満員電車に毎日乗って1時間も通勤しないといけないということの異常さは前々から感じていた。己を騙し騙しそうやって働いてきていたのだったが、それができなくなった。急に、朝動けなくなったのである。だから、復職するということは、適応方法(あるいは騙し方)を編み出さないといけないということであり、それができないうちは、まだ復帰することができない。

「ひと」に倦む

満員電車の何が嫌なのか、といえば、端的に他人との距離が近いことによる息苦しさなのだろうが、それに尽きるものではない。ハイデガーは、人間が「ひと(ダスマン)」になる過程として新聞のような報道機関や、公共交通機関を利用することを挙げているが、それに抗いたいという気持ちがあるのだろう。

「ひと(ダスマン)」とはどのようなあり方か。

われわれは、ひともするような享楽や娯楽を求め、ひともするように文学や芸術を読み、観賞し、批評し、そしてまた、ひともするように「大衆」から身をひき、ひとが慨嘆するものを、やはり慨嘆している。この「ひと」―それは特定の人ではなく、総計という意味ではないが、みなの人であり、世間である。

マルティン・ハイデガー『存在と時間 上』(細谷貞雄訳)

YouTubeで観たあの動画が感銘を与えたのは、あなただけではなく、また別の「ひと」に対してそうだ。今日にあえて「太宰が好きだ」と公言するほど凡庸なことはない。たまに世間が嫌になって、自然に触れたくなるのも、SNSを断とうとするのも、無理からぬことで、そうやって逃げようとしている態度そのものが、逃げようとしている当のものに他ならない。

やめるなら「本当に」SNSやニュースに触れることから離れなければならないし、「本当に」公共交通機関に乗ることをやめなければならない(でも、それは現実的ではない)。だから、ほどほどの距離感でSNSは使うべきだし、ニュースにも追いついているべきだし、必要に応じて公共交通機関を利用するべきだ。何の変哲もない結論。だが、それでいい。そうでしかあり得ない。

でもそれでいいのか

でも、それでいいのか。いいはずがない。

91 個性は、その最高の段階に達することによって(謂わば弁証法的に)個性としては解体する。なぜなら、最高段階に達するのは、個性が全体性の映像になり、自己を拡大して全体性になることによって行われるのであるから。

ジンメル「日々の断想」(清水幾太郎訳)

私にはこちらの方が「正しく」思われるのだ。だが自我を拡大して全体性なるものになる、というのには違和がある。エゴイスティックな響きがあるのもそうであるし、一と多を一足跳びに接続してしまっている感が否めないからだ。もう少しジンメルを引く。

47 高い人間の大きな特色は、彼の場合、歴史的種族の場合とは違って、生命の熱情的な感覚的な全体が、そこから生れる精神的形而上学的な生活の基礎なのではなく──その反対な点にある。この生活の方が前者の根柢であり、これを根本地盤として生命の樹が成長して、謂わば食用の果実を結ぶようなものである。

精神的形而上学的な生活が根っこにあり、その上に、生命の熱情的な感覚的な全体があるという。ではその生命の熱情性とは何か。

146 熱情的な生命の衝動が、却って自己破壊という結果を生むことがある。なぜなら、この衝動は、全存在の究極の根源から流れ出し、また、そこへ帰って行くもので、個別的形式の否定と紙一重のものであるから。人々が進んで自らに加える熱狂的な、或いは、禁欲的な苦痛には二重の機能がある。即ち、一方では、自我というものが他の感覚には見られぬほど深く強く感じられる。他方では、自我を破壊して、これを一般的存在に分解する道を進む。

ここで、先の引用と一致する。熱情的な生命の衝動は、自己破壊という結果を生むことがあるが、その自己破壊とは、個的存在としての自己の破壊のことである。そして個としての崩壊は、全体性へとつながる。自己が高められると、自我というのが強く感じられる一方で、その自我が破壊される(弁証法的に止揚される)。この高みを、ジンメルは別様にも表現している。

46 多くの人々の生命は、朦朧の中を流れて行く。高きに上った人間は、明澄と暗黒との中に生きる。朦朧とは、明澄と暗黒との中間にある曇った中途半端な混沌状態である。

明澄とは、強く感じられる自我の状態であり、暗黒とは、破壊される自我のことである、とまで言えば、あまりに言葉が過ぎるかもしれないが、極として明澄と暗黒が示されている。だが私たちはそれほどの高みにいるわけではない。私は、それほどの高みにはいない。そこで以下である。

45 中間者としての人間。人間というのは、精神的な狭さと精神的広さとの中間領域にだけ生存することが出来るもので、余り知識が少くても、余り知識が多くても生存することが出来ない。それゆえ、老人は、生きることが非常に難しい──本当は、もう生きることが出来ない──余り知り過ぎているから。錯覚は、無知と知識の中間にあるもので、実践的な事柄にとっては一つのフィクションである。いや、誤謬も同じ中間的なもので、一般的な無知とは全く違う。しかし、知っている以上のことを知り得たのであろうということを知る──これは正に人間的なものである。この人間の絶望が彼を人間たらしめる。

中間者の絶望。パスカルの慟哭を思い出させる。

421
私は、人間をほめると決めた人たちも、人間を非難すると決めた人たちも、気を紛らすと決めた人たちも、みな等しく非難する。私には、呻きつつ求める人たちしか是認できない。

パスカル『パンセ』(前田陽一/由木康訳)

次の一節はもはやパスカルが述べているかのようでもある。

41 自分自身に適せず、踏み迷って、休むことを知らない存在、それが人間である。理性的存在としては余りに多くの自然を有し、自然的存在としては余りに多くの理性を有している──どうすればよいのか。

ジンメル「日々の断想」(清水幾太郎訳)

「どうすればよいのか。」解答を求めてはいないだろう。反語である。「どうしようもない」と言っているのではないか。だが、「日々の断想」を読んでいるとたしかに光が投げかけられてあるように感じられる。あるいは次のように述べる。

56 恐らく、人生の最も恐るべき徴候は、これに縋って人々が人生に堪えているもの──態度、興味、信念──であろう。人生を生き抜くために人間が頼りにするもの以上に人間としての水準の深さを示すものはない。

57 人間の本質と特徴とは、彼の絶望の存するところにある。

58 人生の下らなさと狭さとは、全く絶望せざるを得ないほど極端なもの及び抜け道のないものとして人々を捕えることが多い。これを超越させる唯一のものは、これを認識することであり、これに絶望することである。

絶望せよ、それを認識せよ、という。だから私たちが、私が送る日々というのは次のようなものとなる。

66 私の生涯を通じて、私というのは、空虚な場所、何も描いてない輪郭に過ぎない。しかし、そのために、この空虚な場所を塡めるという義務と課題とが与えられている。それが私の生活である。

67 各瞬間が究極の目的であるかのように──それと同時に、如何なる瞬間も究極の目的ではなく、各瞬間が更に高いものへの、あるいは、最も高いものへの手段に過ぎぬかのように人生に処さねばならぬ。

69 人生の本質的な問題は、次の点にある。今日が最初の日であるかのように、毎日、新しく生活を始めること──しかし、一切の過去、その一切の結果、忘れられぬ一切の古いもの、それらを必ずそこに集めて、前提とすること。

高みを目指すことだ。そこに到達できないとしても。そして、到達できないということにも、あるいは全く到達が不可でもないということにも絶望せよ。そしてその絶望を認識せよ。「ひと」であることを止めることはできないという絶望がある。だがそれでいい。この空虚な場所を埋めようとすることだ。まるで今日が最初の日であるかのように、そして(ジンメルは言っていないが)今日が最後の日でもあるかのように。だが、真面目腐ることもなく、どの瞬間も究極の目的ではないかのように、さらなる高みへの手段であるかのように人生に処することだ。

少し抽象的になった。もう少し日々の生活に近いところで、どう過ごすかを書き直してみよう。

もう一度書こう

だからといって、どのように日々を生きればいいのか。おそらく復帰はしないといけないし、するのだろう。どのようにこの期間を過ごすべきか。言えることは、己にとって確からしい方向に進んでいくことだけだ。いくつかの方向がぼんやりと見えてきた。

バイク

シェアメイトにバイク乗りで映画監督の宇治田くんがいる。彼との雑談の中で、バイクの免許を取ったらどうか、という話が出た。たしかに、自動車免許を合宿で取得したときのことを思い返してみても、好ましく感じる。

まず何より、生活リズムが整うし、適度に体を動かすことになるから、健康にいい。それに、新しい機械の扱い方を学ぶことは、己のバランスを取るうえでも、いいことだと思う。早起きして、バイクの講習を受けて、隙間の時間では本を読んで、という、豊かな時間になりそうだ。

仕事を辞めてバイク旅をする、そこで運命的な出会いがあって天職に就く、なんていうストーリーを予め想定するのもおかしな話だが、バイクに乗って風に吹かれていたら、何か見えてくるものがあるだろう。車とは異なる「馬上」のアイデアが湧いてくるかもしれない。

しかしシステムだからといって、工場を破壊したり、政府に反抗したり、オートバイの修理を避けたりするのは、原因ではなく、結果を攻撃することになる。結果だけを攻撃しているかぎり、変革は不可能である。本当のシステムは、私たちの体系的思考そのもの──合理性──によって構築されたものである。だから工場を破壊しても、それを生み出した合理性が残っているかぎり、その合理性が再び別の工場を築き上げるだろう。革命によって政治体制をくつがえしても、それを生み出した体系的思考パターンが無傷のまま残っていれば、必ずそれに次ぐ体制が生まれてくる。今日ではシステムに関する議論が甚だ多い反面、それについて真の理解を持っている人はほとんどいない。

ロバート・M・パーシグ『禅とオートバイ修理技術:価値の探求〔上〕』(五十嵐美克訳)

宇治田くんが貸してくれた『禅とオートバイ修理技術』からの引用だが、少し光が見えてきたように思う。電車というシステムや、今日の労働環境というシステム、あるいはそれらが縒り合わさって結果する満員電車を、ただ憎んでいても仕方がない。このシステムとの付き合い方を考える必要がある。免許合宿に行くことで、少し付き合い方がわかってくるかもしれない。

狩猟

またも合宿だが、狩猟の免許合宿を申し込んだ。詳細は別のnoteでまとめる予定だが、こちらもシステム、制度との付き合い方という点で、学びを得ることができると感じている。

もう4年も前の記事だが、この頃から問題意識自体は変わっていない。つまり、生き物の生死が隠蔽されていて、そこから肉だけを搾取するという過程への違和感。当時は学生でお金もないものだから、ワンコインで食べられる牛丼屋によく世話になっていた。そのときに、せめて自分で殺した生き物なら、もっと食べるという営みがみずみずしく感じられるのではないかと思ったのだった。

あるいは3年前の記事。食べることと食べられることが相互に陥入し合う場としての「わたし」を実感したい。ここに生きるということは、食べることであり、食べられることであり、食べ残すことであり、食べ残されることである。自分がどちらに立つかというのは遡及的な話だ。できるのはそこにただ、生き、死ぬことである。

読書

読書はいつものことだ。本を読み続けていればふるえるような一節に「必ず」出会うことを知っているのは幸せなことだと思う。実際には出会えなくてもそれは変わらない。近頃は、複数の本を少しずつ読んでいくという方法で読んでいる。たとえば、以下のような本だ。

休職期間のようなまとまった時間があったからこそなんとか登攀してみようと思えた『純粋理性批判』であり、修辞技法に自覚的になれば表現の幅が広がるかもしれないと思い読み始めた『現代レトリック辞典』であり、映画の理論面を勉強しようと思い、この出版社に勤めている友人に薦めてもらった『映画論の冒険者たち』であり、かねてから関心のあった映像の詩人の「詩集」、『ジョナス・メカス詩集』である。わたしは健やかなるときも病めるときも本を読んできた。光が本の中から、その暗いページの隙間から差し込んでくることを知っている。

休息をとりながら、生活を編んでいくということ。再度始めるべきときだ。焦らず、だが、着実に、もう一度生き始めようと思う。

最後にもう一度引く。

69 人生の本質的な問題は、次の点にある。今日が最初の日であるかのように、毎日、新しく生活を始めること──しかし、一切の過去、その一切の結果、忘れられぬ一切の古いもの、それらを必ずそこに集めて、前提とすること。

ジンメル「日々の断想」(清水幾太郎訳)

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