見出し画像

味覚のなかで生きつづける

死んだ人の表情や声は、何年も経てば徐々に忘れてしまう。

でも、いつも作っていた料理を再現し続ければ、味覚のなかで生きられるんじゃないか?


地元・岐阜県飛騨地方では、郷土料理のことを「ごっつお(ご馳走)」と呼び、各家庭によって多くのレパートリーがある。

ばあちゃんの得意料理もまた、ごっつおだった。

山菜や豆腐などを使った煮物がメインで、「こも豆腐」「ぜんまいの煮付け」「ころいもの煮っころがし」「ほうれん草のあぶらえ」が王道だ。

小さい頃の僕は煮物があまり好きでなく、どちらかと言えばたまに作ってくれる牛肉コロッケのほうが好きだった。しかし日本人とは、年齢を重ねるにつれて煮物の甘辛い味付けが恋しくなるのだ。

僕もご多分に漏れず「その舌」になったけど、作ってくれとねだることは、残念ながらもうできない。

ばあちゃんの遺体に供えるごっつおを、ばあちゃんの味どおりに作れる自信が僕にはなかった。

頼りになるのはばあちゃんの息子、つまり僕の父さん。だけど僕の作る料理にいつもケチをつけるから、あまり期待できない。レシピも残ってないし、何年も介護施設にいたから、最後に作ってもらって結構な年数が経っている。

ごっつおの味を記憶から引き出し、スーパーで材料を一通り買い揃え、調味料とにらめっこする。

手探りでいいから、やるしかない。

僕がばあちゃんの味を再現できたら、これ以上ない弔いになるはずだ。


ここで我が家の「ごっつお」について順番に説明しよう。

「こも豆腐」とは飛騨の伝統的な素材で、わらで編んだ”むしろ”で豆腐を包んで煮たもの。中がスカスカで表面が凸凹になるので味が染みやすい。

「ぜんまい」は山菜のひとつ。韓国料理のナムルにもあるから馴染み深いと思う。我が家ではいつもスーパーで購入しているが、春になると自分の山に登って採ってくる家も飛騨には多い。

「こも豆腐」と「ぜんまい」は、昆布と干ししいたけで取った和風ダシに、醤油や砂糖などを加えて煮込んでいく。

(ぜんまいが少量&高価だったので、家にあった油揚げとダシをとった干ししいたけでカサ増しした)

つづいて「ころいも」とは、親指と人差し指でつくる輪っかぐらいの、小さなじゃがいものこと。

皮のついたまま水洗いしてから、少量の油で15分ぐらい炒めていく。ころいもに火が通ったらダシと醤油、砂糖で味をつけ、最後にみりんで照りを出す。

もっとも耳馴染みが薄いのが「あぶらえ」だろう。飛騨では「えごま」のことを「あぶらえ」と呼び、有名な”五平餅”やおはぎなどに使う。

軽く煎ってからすり鉢でつぶし、醤油と砂糖を加えてタレを作る。そこに茹でたほうれん草を刻んで和えたのが「ほうれん草のあぶらえ」だ。


これらの「ごっつお」を、僕ははじめて作った。家だけじゃなく定食屋や居酒屋でも頻繁に出されるけど、作ってみてはじめて知ることが多かった。

こも豆腐とぜんまいは、想像以上に長い時間煮込まないと味が染みないこと。

ころいもは、皮がしわくちゃになるまで油で素揚げするとタレが絡みやすいこと。

あぶらえは、煎りすぎると苦くなってしまうこと。

ずっと素朴な味だと思っていたけど、何十年何百年とかけて、素材と丁寧に向き合った調理法があつまっている。

いったいばあちゃんは、この味を誰に教わったんだろう。

美味しく作れるようになるまで、何度失敗したんだろう。

どれだけの笑顔を、この台所で見つめてきたんだろう。

夕暮れ時、かっぽう着姿のばあちゃんの後ろ姿に思いを馳せながら、僕はごっつおを作り上げた。


完成した僕なりの「ごっつお」を家族全員で試食したが、どれもこれもばあちゃんの味には程遠く、良い弔いになった手応えはあまりない。

ころいもには火が通り過ぎていて必要以上に柔らかい。

煮付けの味付けはとても薄く、特にこも豆腐は無味と呼べるほど。

あぶらえは案の定、煎りすぎて苦かった。

母さんや妹は美味しいと言ってたけど、僕は愛想なく箸を進めることしかできなかった。


いつも使っていた平皿に盛り付けて、ばあちゃんの頭の上に供えてみた。

歯に衣着せぬ物言いをする人だったし、「ぜんぜん美味しょうない」とでも言いだしそうだ。

だけど、気持ちよさそうに眠る顔が布越しに透けて見えたから、今日のところは許してもらえたかもしれない。

これからも作り続けるから、いつかきっと美味しくできるよ。


仏間に座っていると、父さんが後ろから入ってきて僕に言った。

「ごっつお、また作っとくれよ」

どうやら母親の前では、ケチをつけないようだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?