【♯1】私は何者
今日も今日とて底辺飛行のコーナーでは、障がい者(筋ジストロフィー)、超ネガティブ、超陰キャが私自身についてあれこれ書いていくコーナー。
第一回は私は何者という事で、少しでも私が何者か分かるような事を書いていく。
本名はNGでネットでの名前のアッシュはポケモンが好きなので主人公のサトシは英語版でアッシュなのでアッシュとした。
年齢は95年生まれというところからも想像してくれ。
熊本の田舎で暮らしている。
学歴は高卒でその後に職業訓練校に通ったぐらいなので誇れるものは何もない。
仕事はしているが、何をしているかはあまり書きたくないので伏せておきます。
私の性格は、自ら話すタイプではなく、人見知り、ひねくれもの、天邪鬼。
コーナーの説明でも書いているように私は筋ジストロフィーという国指定の難病で車椅子で生活している。
筋ジストロフィーは遺伝子の病気で骨格筋が壊れて徐々に筋力が落ちていく病気だ。
病気が分かったのは小学3年生で両親が気づいて大学病院で判明した。
分かる前から徒競走ではいつも最下位だったが、小学生の私からすれば病気なんだとは思いもしなかった。
判明した後に直ぐに身体を動かす習い事をやめたのを今でも覚えている。
小中高では病名は教師たちは知っていたが、クラスの子だったりには自分の障がい名ではなく、「足が悪い」、「足の筋肉の病気」という理由で通してきた。
というのも、筋ジストロフィー患者の最後などを知ったらあまりにも生々しいので言いたくなかったのだ。
また、これには私の人目を気にしていたのもあったからだ。
徐々にという事で、中学2まで歩く事はできていた。
遺伝なのかと思うところもあるが、父、母の家系を見ても誰もいなかったので、突発的なものだろう。
長い距離を歩かないようにと小5ぐらいに車椅子も使うようになったが、私は自分で歩けると思った距離は極力歩く様にしていた。
というよりも、特に小学生の私自身が病気を受け入れたくない気持ちからも車椅子を拒む行動をとっていたのだと思う。
中3からは歩く事や立つ事ができなくなったので流石に諦めもついた。
体がショボくなっていく中で明るくとはならず、暗くなっていったのが私だ。
他人はどう思っているかなど、小学生時代から他人を機嫌を伺って行動するところがあったのも原因なのかもしれない。
考えすぎるのもあり、小学5年生ぐらいから、誰もいなく、一人になった時はよく口癖で「死にたい」と言ってしまう。
小学生から20年ほど経つが、今でも一人の時には「死にたい」が口癖なのは変わらない。
小中は義務教育ということもあり、中学ではちょいと病むぐらいのいじられはあったが、振り返ると教師や周りの人には恵まれていた。
これには小学校が1学年1クラスしかなかったのもあり、みな仲が良かったのが影響しているのだと思う。
障がいからも常に教師が見てくれたり、車椅子をおしてくれたりと小中の私は甘えがあったのか、義務教育ではない高校からは、自分からしゃべらない、人見知りが影響してぼぅちな3年間であった。
人を避けるように教室の隅で本を読んでいるようなぼっち生活で、高校の思い出はあるかと聞かれると、家庭科の調理実習ぐらいで、学校終わったらすぐに帰宅して宿題しながらアニメを見るという生活をしていた。
それもあり高校からは1人で遊ぶのが好きになり、むしろ一人じゃないと落ち着かないぐらいまでになった。
それと同時にこうやって社会不適合者が生まれるのだなと実感した。
1日が人と話すよりも猫と話す事が多い日なんてよくあったものだ。
親に迷惑はかけまいと高校は休むことなく通い、なんの役にもたたない皆勤賞を貰った。
高校時代はひねくれずにあるものを早く持っていれば少しは変わっていたかもしれない。
私の時代では中学卒業の時期に携帯電話を買ってもらう流れがあり、私も親に買ってあげようかと言われたが、私は頑なに拒んだ。
皆と同じような人間になりたくない、連絡先を交換しているものたちを見ていると気持ち悪くなったりと、ひねくれものの性格が発動してしまった。
ガラケーからスマホにちょっとだけ転換している中で、ジョブズの発表を見てiPhone4がカッコよく心を奪われた。
それから少し時間が経ち、高2の時に4Sが出た購入した。
学校の人と連絡をするために買ったものではなかったのもあり、連絡帳には家族の番号しかなかった。
スクロールなんて不要な連絡帳であった。
高校卒業後は特にやりたい事も何もなかったので、職業訓練校に2年通った。
大学に行けるぐらいの評定はあったが、お金もかかるし、やりたいこともないからお金を貰いながら勉強できる職業訓練校にした。
それに大学行ってもぼっち確定で留年したくなかったので行く気にもならなかった。
職業訓練校では車椅子の人であったり、年齢も高い人もいたおかげもあり、なんとか仲の良い友人が一人で来た。
スマホを買って初めて連絡帳に友人が追加された。
その友人とは今でも時々ゲームをしたりしている。
お互い車椅子だからなにか通ずるものがあったのからだと思う。
職業訓練校に通ったのもあり、なんとか仕事に就くことはできたが、わがままかもしれないが、それが本当にしたいことかと言われるとそうでもない。
なぜなら私は料理の方の道に進みたかったから。
歩けた頃に自分で炒飯作ったり、パンを作ったりと作ることや夕飯の支度の手伝いなどが楽しくて、得意科目は家庭科の調理実習だったからだ。
車椅子でも家などではできるが、趣味ではなく職業として挑戦したかった。
ないものねだりにはなるが、私の欲しいのは筋力と歩ける体。
料理人になりたいのは無謀すぎるので、高校卒業後の進路を決める際はそんなことは言えず、今の仕事につながるような安牌な道を選んだ。
仕事に関しては、飽きないよう、楽しめるように「最高の暇つぶし」と思ってやっているところはある。
障がい持ち、陰キャ、ないものねだりしている時点で終わった人間かもしれないが、人に恨みを持ったり、妬んだりして生きていないところは終わっていないのかもしれない。
むしろ私の身内などが筋ジストロフィーにならなくて、私がなって良かったと思います。
私以外の身内が筋ジストロフィーになったら果たして耐えれたかなと思ってしまうので、やっぱり今思っても私で良かったと思う。
死にたいと思った事は何度もあるが、結局の所死にきれないし、なんだかんだいかれた性格と気合と適当でなんとか乗り切っているのでw
また、私はピラミッドでいうと底辺で、下がないので安心できている所もあるだろう。
そういえば、恨み、妬みではないが神様がいるとして、前世があるとしたらこれだけは聞いてみたいことがある。
私の前世は人殺しとか大悪党だったのか?を聞いてみたい。
単純に運が悪かっただけでもしゃーないとはなるけどね。
私で良かったと思えると同時に、年々人への「感謝」は増すばかりだ。
底辺な私に人間らしい日常を送れるようにしてくれる親、ヘルパーさん、社会を回してくれている人々に感謝。
人間らしい日常が送れているから、今のところ心臓も肥大したりはないから健康でいられている。
ひねくれものではあるが、どうしても人は一人では生きていけないので素直になるという気持ちも年々増している。
20数年しか生きていないぺいぺいではあるが、人に助けが必要になった時のいいアドバイスがある。
「頑固にならず素直」になる事だ。
これは持論ではあるが、介護職をやめる人が多いのは、給料面だけでなく、介護を受ける老人が頑固だったり、プライドが高かったり、介護を受けている自分が受け入れられなかったりして強い口調で当たったような言い方をしてコミュニケーションが崩壊している一面もあるかと思う。
そうなる前に自分もいつかはという気持ちが大事なのではないかと思う。
「頑固にならず素直」になる気持ちがあるとより人への感謝も増すであろう。
やってもらって当然ではない。
やってもらって感謝だ。
私は社会不適合者で超陰キャなのは変わらなく、それを無理に変えるのはできないので、「感謝」する気持ちだけは大切にしていきたい。
私は何者か少しは伝わったかな?
少しでもイメージできればありがたい。
何者かになりたくないは嘘かもしれないが、これからも日々を楽しむ自由人を続けていきたいな。
やりたいことは大体やれたので、あとは死ぬまでにONE PIECEの最終回が見れればいいな。
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