15歳、父を"捨てる"ための高校受験。
前回は、幼少期の父と僕の関係性についての話でした。今日は父と僕が別々に暮らすことになった、高校受験の話から始まります。
高校受験、僕と母の共通目標。
中学3年生。僕は人生で初めての受験生になりました。
地方の田舎町。中学校も街に1校で、1学年に3クラス。小学6年生から北海道大学を目指していた僕は、高校から札幌へ引っ越し、進学校に通うべく毎日受験勉強をしていました。
同じ志望校の友達はおろか、札幌圏に進学する子もほとんどいなかったため、とても孤独な毎日だったのをよく覚えています。それでも友達にはそこそこ恵まれたし、学校や塾の先生も応援してくれていたし、周囲の大人からは「町で数年に一度現れる進学校受験生」という期待を掛けられていたこともなんとなく察していました。
そんな僕の最大の味方は母でした。本人の次に相当なプレッシャーを背負い、元々精神的にも安定的な母では決してありませんでしたが、それでも寝る間も惜しんで夜食を用意してくれたり、勉強のサポートをしてもらっていたのを覚えています。
そしてなにより、母と僕には共通の目標がありました。
父の元を離れたい。
この頃の父といえば、受験勉強にはまったく協力してくれませんでした。
自分も思春期や反抗期とよばれる時期を迎え、父としては相当に手の付けられない存在だったのだと思います。僕が深夜に受験勉強に取り組むなか、父は帰宅して早々いびきをかいて寝たり、テレビをつけて大声で笑ってみたり、僕が父親に対して抱いていた「好きかもしれない」という感情は、この頃には微塵もなくなっていました。
思えば、この頃から母親は子育てでさらに孤立し、同時に息子の"私物化"を進めていきます。
親としての責任感のスイッチが完全にOFFになってしまった父を見ては、母と子で「一緒に札幌に逃げよう」と誓い、その手段に札幌の高校へ進学しようとしたのでした。
高校合格、新たな生活の始まり。
なかなか前例の少なかった、地元からの進学校受験。
市内受験生よりもさらに狭い枠を、なんとか無事に合格できました。北大出身者だった塾の先生が本当に手厚くサポートをしてくれたのが、とても大きな勝因だったと思います。親子共々本当にお世話になりました。
こうして父を(仕事の都合もあり)地元に残す形で、母と子は札幌に引っ越すことになりました。当時は「もう自分の人生を邪魔されずにこれからは生きていける」と、本当に清々しい気持ちだったのを覚えています。
高校生活、新たな孤独の始まり。
とはいえ、希望的なことばかりではありませんでした。
15年ずっと田舎育ち。都会の環境に馴染めず高校1年の夏には適応障害のような症状が出始めます。毎日身体がだるく、提出物や予定をうまくこなすことができない。追試を出席し忘れて先生からも理解されず見放され、成績もみるみる落ちていく日々でした。
一方で母も新たな環境で地域との交流があるわけでもなく、毎日自宅とスーパーを往復するような日々のなか、静かに孤立を深めていました。
せっかく田舎から進学校に出たのに、人生で初めて"バカ"のレッテルを貼られる日々は本当に屈辱的でした。プライドも何もかもズタズタでしたが、当時まだまだ体力のあった僕は、ひとまず1か月なにがなんでも全力を出すと決めて学力の再起を図ります。
そうして数か月ゴリ押しているうちに勉強は習慣化され、テストの順位も100人ぐらい抜き、いよいよ順位も2桁台に乗るかというラインまで復活することができました。なにか自分を励ましてくれる存在がいたわけではないですが、これ以上どん底にいて自分の性格がひねくれてしまうのが怖くて、とにかく自分にできることをやり続けていました。
それでも味方は、居なかった。
この努力をひけらかすわけでもなかった僕ですが、たまには親にも自慢したい。というより、母も眠いだろうに毎晩夜中まで電気をつけさせてもらって頑張っている理由を、母親に伝えたいと思いました。
「お母さん!250位だったのが、1年かけて110位になったよ!」
右肩上がりのグラフが描かれたプリントを学校から誇らしげに持ち帰り、さすがに、母親もさぞ感動してくれるだろう!と思って見せたところ、母から帰ってきた言葉は、絶望的なものでした。
「え、あなたの努力はそんなものだったの?」
母は、僕の学力が落ちていった日々も、学校がつらくて泣いていた日々も知っているはずなのに、中学のように「1位」とは書かれていなかった成績表を片手に、母はどん底からの再起を喜んではくれませんでした。
この頃の母は周囲にあまり上手に頼ることができず、都市生活に馴染めず困っている息子を見てはひとりで抱え込み、父からも生活費の振り込み忘れが続いたりと、常に不安と恐怖を抱えていたようで、すでに酒とたばこに溺れて冷静な判断もできなくなっている様子でした。
息子が、安定の象徴になった。
母が不安定になればなるほど、母は息子に安定を求めるようになりました。つまり、進学校に通い、日々努力する息子に自分の存在意義を重ね、生きる喜びを見出そうとし始めたのです。
しかし高校生ともなれば、自立に向けた成長が著しい時期。親に許可を取らずに遊びに出たり、こっそり恋人を作ったり、そういうことをしたくなる年頃です。
高1の終わりごろ、自分に人生で初めての恋人ができました。いまではゲイを自認する僕ですが、人生初の恋人は女の子でした。しかし、その恋も長くは続かず。僕はやはり女の子を愛することができなかったのです。
勉強を頑張っても誰も褒めてくれない。恋人ができても自分は女の子を愛することができない。そんな毎日を楽しむ余裕なんてとっくに失っていて、笑うことができなくなっていたある日、母が僕の異変に気付きます。
「最近元気ないね、どうしたの?」
「いや、実は女の子と付き合っていたんだけど、続かなかった。」
「そうか、そうなんだ…もしかして、ホモなの?」
全身が固まった。言葉が詰まって出てきませんでした。
「そ、そうかも、しれない…。」
母のなかで、いよいよ"息子の安心・安定神話"が崩れた瞬間でした。たばこと焼酎とが置かれたキッチンの換気扇の下、母は静かに頭を抱えていました。
加速する"私物化"
それでも母が自分の人生に安定を見出す術は息子以外にありませんでした。
高校2年、部活で急用ができ、帰りが遅くなった日に母は言いました。
「どこにいるかわからないと不安になるからちゃんと報告して」
「確かにそれもそうか」と思った僕は、スマホのGPSを母と共有することを約束しました。
それから半年ほどたったある日、僕が家に帰ると、
「なんで学校の周りをうろうろしているの!昨日あんたが学校つらい、体がだるいっていうから、死に場所探して歩いてると思ったんだよ!」
と言って僕を怒ります。確かに具合は悪かったけれどその日もきちんと学校に通っていた僕は、何が起きたのか全然理解できません。
実はその日、人工衛星の不調でGPSの精度が低下するということがありました。僕の位置を指し示すピンが、母のスマホの地図アプリで高校の周りをうろうろしているのを、母は見ていたのです。不安になった母は家を飛び出し、高校の周りを動く僕のピンを追って走り回っていたようです。
当時、親子そろって常に体調が悪く、何が正常で何が異常かすらよくわかっていなかった僕にも、さすがにこの時は母親の言動に異常さを感じたのを覚えています。
「これは誰かに頼らないといけない。」
直感的にそう思った僕は、母方の祖母を呼んで、定期的に3人で一緒に過ごす時間を増やしてもらおうと考えます。
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