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私が大人になって失ったもの、取り戻したいもの

親しい人、見知らぬ人、私が生きるずーっと前に亡くなっている人、私が生きたずーっと後に生まれる人

人と人のたっぷりとした網目の中で私は生きている。小さい頃の私は、このたっぷりとした感じを当たり前に受け入れていた。だけどいつ頃からだろうか、この感覚を失ってしまった。

目覚まし時計の音、ビニール袋に入った小麦の味もバターの味もしない、いつも同じ味の食パン。NHKが身近な便利グッズを紹介し始める時間になったらヘアアイロンをオンにして、7時のニュースの始まりの音楽が流れたら家を出る。一つ目の青信号が点滅し始める直前に渡り終えると、二つ目の信号にはそれが赤から青に切り替わるタイミングで到着できる。時間通りに来る電車、時間通りに始まる授業。よし、今日も全て上手くコントロールできた。

全てがアンダーコントロール。高校時代の私はもう、自分一人で生活を成り立たせているかのような顔をして生きていた。目覚ましが鳴らなかったら絶望的な気分になり、電車が止まったらイライラした。こういう生き方をすればこの社会では上手くやっていけると思っていた。だって、”みんな”そうしているもの。そのうえで、こう生きられない人には力を貸すべきだと高飛車な視点から思っていた。白杖を持った人がいれば声をかける、日本語の分からない人にはバス停で道案内をする、自分のスケジュールが崩れることを気にしながら。そう、私は嫌な奴だった。

社会生活を送るのに、他の人の助けが明らかに必要な人たちのことをどこか”自分たちとは別”のグループの人たちと思っていた節がある。だって私は自分で賄っているもの。私たちは自分たちで賄っているもの。なに?私たちのグループにも、助けが必要な人がいる?それはその人の努力が足りないんじゃない?

病気になれば、自分自身に対して「生きる意味」を問う。私は社会に対して何を与えられているのだろうか?という問いは、あの人は社会に与えているものが少ないのではないか、社会から貰ってばかりなのではないか、という無思慮な批難にも容易に結びつく。

この生き方は苦しい。私はいつも、コントロールが効かなくなることに怯えて、不安で、浅く息を吸っていた。偶然なんてものは恐怖でしかなかった。


苦しくなって、もがいて、ようやく思い出し始めた。

親しい人、見知らぬ人、私が生きるずーっと前に亡くなっている人、私が生きたずーっと後に生まれる人

私は、色々な人たちの網目のなか、沢山の偶然の重なり合いの上に、今ここにいる。自分は誰にも助けてもらっていないなんていうのはただの驕りだ。狭くて偏った考えがもたらす幻想だ。”他の人の助けが明らかに必要な人たち”だって?それは全員だろう。

私は自分が身に纏ってしまっている覆いを認識できるようになった。

今、この覆いをぺりぺりと剥がしている。小さい頃得ていたものを、もう一度取り戻したい。


覆いの隙間から見えるのは、人と人のたっぷりとしたした網目。人間だけじゃない、森羅万象のふかふかとした関係性。偶然というものはこの世界の本質で、だからたしかに畏怖の対象ではあるけれど、ただただ怯えて遠ざけるべきものではない。

この世界は偶然でできている。人間が全てコントロールできると思っているのは一時の錯覚で、自然は人間の及びもつかないところで動いている。偶然の塊と、制御などできないもののうえに、私はちょこんと乗っかっている。


何かを与えたら、等価のものを返される。物心ついたときから、そう教わってきたような気がする。例えば、100円を出したら、100円分のものが。100円分のものを出したら、100円が。困っている人に力を貸したら、”よい”ことをした満足というものが、あるいは巡り巡って私に何かいいことが。だから”よい”ことをするべきなのだし、”わるい”ことをしたらダメなのだと、そう教わってきたような気がする。

価値ってなあに?という問いも置いてきぼりにして。

等価交換、「他人に迷惑をかけないように」、プラマイゼロ...この社会で正しいことかのような顔をして蔓延っている言葉たちが、覆いを固く固くしている。

覆いを被れば幸せになれるというならまだ分かる。だが、覆いを被っている人は皆、苦しんでいる。苦しんで他人を攻撃して、苦しんで自分で傷ついている。なのに、私たちはなかなか覆いを手放すことができない。


そういえば私は子どもの頃、寝る前に祈っていた。特定の信仰があったわけではない。願いといってもいいかもしれないが、あれは私なりの「祈り」だった。

「世界中の”みんな”が ー人間も、虫も、キノコも、交差点の信号も、風も、太陽も...全てがー 1日に1回でもいいから、心から『幸せだ』と思えますように。」

覆いを被る前の私は見ていたのだ、この世界の豊かな編み目を。それが絶妙なバランスの上に成り立っていることに気づいていたから、祈っていたのだ。大切なことも、日々祈らねば忘れてしまう、自分の脆さも知っていたのだ。

社会と自分の波長を合わせていくにつれて、少しずつ失っていったものを、今また少しずつ取り戻している。

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