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三角形の内角の和

これは私が小学2年生の時の話だ。
なので、1995年になる。

1995年といえば、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、坂上忍カーチェイス事件などの痛ましいニュースが連日報道され、世間は物々しい空気に満ちていた。

私の通う2年1組の教室は学校の一番端に位置しており陽が当たらず、窓から見えるのは鬱蒼とした庭木たち、湿っぽい空気がコンクリートに染み込んでいて不気味な様相を放っていた。

世間の潮流のせいか、それとも通っていた教室のせいか、今でも1995年と聞くだけで「暗い」と反射的にイメージしてしまう。

そんな年に、私は生まれて初めて「定理」というものに出会う。定理とは、何時いかなる状況でも成立するこの世のコトワリのことである。

野山を駆け回りながら育った私は、この世界は無作為な天然自然からできていると何となく思っていて、規則性や法則性がこの世界の構造に関わっているという事実は衝撃であり、同時に、世界が少しつまらなくなったように感じられた。

ちなみに、

「三角形の内角の和は必ず180度である」

これが、私が初めて教わった定理だ。

ある日の自習時間、2年1組の教室に2年2組の担任ヌマ先生が突然、険しい面持ちで教室に入って来ては「おい!誰かこの三角形の内角の和を求めろ!」と怒鳴り、黒板に適当な三角形を殴り書いた。
ヌマ先生は30代の女性の先生で眼鏡を掛けていた。怒りっぽいのがたまに怖いが、何かにつけて屈託なく笑うのでそれなりに愛着があった。
すぐにクラスの秀才トモユキが名指しされ、この問題を皆の前で解くことになった。トモユキは懸命に黒板に書かれた三角形に分度器を当てたりしていたが、すぐにヌマ先生の「バカヤロウ!」という怒号が響いた。角度を測るのに分度器を用いるのは真っ当である。何が悪いのか私達にはさっぱり分からなかった。

「バカヤロウ!三角形はどんな形でも内角の和は180度なんだよ!なんでそんなことも教わってないんだよ、お前たちは!」

ヌマ先生は顔を真っ赤にしながらそう言った。
私たちは唖然とした。クラスの秀才トモユキも「そんなのありかよ」という様子だった。
来る日も来る日も図形に分度器を当て続けたあの日々は一体何だったのか。というか分度器の存在意義は何なのか。
私たちの努力がひとつの裏ワザにより徒労に変わってしまったような、そんな脱力感を覚えた。

おそらく、我々2年1組の算数のテストの結果があまりにも悪く、これはと思ったヌマ先生が血相を変えて乗り込んできた、というような流れだったのだろう。それにしたって私たちが怒られる筋合いはどこにもない。

私たち2年1組の担任は、オコシ先生という昭和の教師像を絵に描いたような七三分で大きな眼鏡を掛けた男の先生であった。歳はおそらく50代くらいと思う。
先生は事あるごとに激昂されるタイプで、「だから日本はダメなんだ!」というパワーワードをひっさげ、将来の祖国を担う我々の不出来を憂いては、教鞭をお執り下さっていた。その熱意のあまり、叩きつけた教鞭を折られてしまう事も度々あった。
オコシ先生がどのような思想を持って、どのようなイデオロギーを抱いていたかは分からないが、教育に対する熱意の方向性が他の先生とはかけ離れていて、異色の先生であったことに違いはない。私たちも子どもながらに違和感を覚えていたもので「なんでオコシ先生は三角形の内角の和について教えてくれなかったのか」という疑念はそのまま不信に変わった。
オコシ先生が怒ると怖いので表面上は従順であったが、その日から私たちと先生との間に少しだけ距離ができたような気がする。

しかし、今思い返すと、教員歴30年のオコシ先生が「三角形の内角の和は180度」という算数の基本中の基本を教え忘れる何てことはあり得ない。
ここからは私の想像だが、きっと先生は教科書の他に秘密のテキストを教壇の下に隠し持っていたのではないだろうか。

来る日も来る日も三角形に分度器を当て続ければ、いつかは「三角形の内角の和っていつも大体180度くらいじゃね?」と気付くだろう。生徒にとっては生まれて初めての定理の発見であり、世界の構造をひとつ自らの力で解き明かした瞬間でもある。この喜びをオコシ先生は生徒に知って欲しかったのではないか、というのが私の想像するオコシ先生秘密のテキストの第一項目である。

第二項目には、「純粋な三角形とは何か」という事が書かれていたのではないか。三角形の内角の和が180度になることは分かったが、例えば手書きした三角形はいびつなので必ずしも内角が180度になるとは限らない。では、手書きした三角形は定理から外れるので三角形ではないのか?
しかし、私たちはそれを見て「三角形」だと認識している。現実と認識にズレがあるのは何故か?そもそも教科書に綺麗に印刷された三角形でさえ、拡大すればインクの集合体であり「線」もなければ「角」もない、いびつな三角形だ。では、純粋な三角形はどこにあり、どのようなものか?
それすら分からないのに、私たちは「三角形の和は180度だ」と教われば、ああそうかと鵜呑みにしてしまう。三角形とはそのようなものだと、何となく腑に落ちてそこで終わってしまう。

「自分の手を動かして調べろ!自分の頭を使って考えろ!」

そんなことを伝えたくて、オコシ先生はあえて三角形の内角の和について安易に教えなかったのではと、思う。決して2年1組の生徒のテスト結果を見て「やべ、教えるの完全に忘れてたわ」みたいな事態ではない、そう信じている。

ところで、皆さんは、何故三角形の内角の和が必ず180度になるかご存知だろうか?
ちなみに、私は知っている。さっきGoogleで調べたのだ。

この知識を得る間、私は線を引く事もなければ分度器を当てることもなく、スマホの画面を数回なぞっただけである。そして誰が書いたかも分からない記事を読んで「ふむふむ、なるほど。そういうことか分かったぞ!」となった訳である。この体たらくを見られたらオコシ先生にぶっ飛ばされることであろう。

オコシ先生が亡くなったと風の噂に聞いたのは2000年前後の頃だ。インターネットが一般の家庭に浸透し始めた頃で、スマートフォンはまだない。
今現在は誰もが手元のデバイスから情報にアクセスできるようになった。オコシ先生が(おそらく)忌み嫌っていた「自分の力を使わずに答えだけ先に知っちゃう」現象が日常の中で呼吸をするくらい当たり前のように行われている。
このような社会を見て、オコシ先生はどう思われるだろうか。唖然とされるだろうか、それとも激昂されるだろうか。Google社を訴えるだろうか。情報統制に関する法改正を叫ぶだろうか。逆にYouTube大学とか始めるだろうか。

何にせよ、

「だから日本はダメなんだ!」

そう仰り、教鞭を叩きつけられるに違いない。

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