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【短編小説】マリッジとブルー(『星のブルース』トリビュート小説)

夫婦から、恋人に戻ったみたいだった

■あらすじ
相性抜群だけど別々に住んでいる、ちょっと変わった夫婦。
妻が出産を控えた年末、夫婦はふたりでの最後のデートに出かける。

吉井和哉さん『星のブルース』のトリビュート小説

 書き上がった婚姻届を見るなり、彼女が言った。
「青じゃん」
 僕の記入したところだけ、青い文字になっていた。うっかり三色ボールペンの青で書き始めてしまったのだ。
「まあ、大丈夫でしょ。ちゃんと読めるし」
「いや、夫婦で別の色とか変でしょ。よりによって青だし」
「青だとまずいの?」
「マリッジブルーとか言うじゃん」
「うまいこと言えるなら全然ブルーじゃないから大丈夫」
 彼女は新しい用紙をもらってこようとしたが、書き直しとなれば、保証人にも再び手間をかけさせることになる。それは申し訳ないので、試しにそのまま役所に提出してみたところ、あっさり受理された。
 帰るころにはもう笑い話だった。食事をする間もげらげらと笑いが止まらず、へべれけになるまで飲んで、ふたりでもたれ合うようにして帰った。だから僕ら夫婦の初日は、後半の記憶があまり残っていない。それももう五年前の話だ。
 外で食事をするとついつい酒がすすみがちなふたりだが、今日は一滴も飲んでいない。妊娠中の妻に合わせてのことだ。
 だからこれが、ふたりでする最後のデート。
 テーブルの向かいに座る妻が言った。
「ねえ。誕生日なのに、こんな普通でよかったの?」
「いつも通りがいいんだよ」
 誕生日にどこへ行きたいか聞かれた僕は、つき合いたてのころによく行っていた、商店街にある小さな洋食屋を指定した。ビーフシチューやオムライスといった気取らないメニューが好きで、一緒に出かけた日はいつもここで夕食を食べてから帰った。
「そう。ならいつも通り、ひと口ちょうだい」
「はいはい」
 妻が差しだした小皿に、僕は自分のビーフシチューを少しよそって渡す。妻はバゲットでシチューをすくって口に運ぶと、幸せそうに目を細めた。
 僕らは初めて会ったときから相性抜群だった。食の好みも、趣味も、体の相性だってよかったし、合わない部分は尊重し合うことができた。彼女以上の人なんか、この先見つかりっこない。そう確信した。
 けれど、実際に結婚してみたら、ケンカばかりだった。
 家に対する価値観。
 その一点だけが、どうしても合わなかったのだ。
 僕にとって家は、寝るだけの場所だ。帰宅したらすぐにシャワーを浴びて寝る。起きたら手短に朝食を済ませて外出。家の中にはあまりものを置きたくないし、レンタルで済むのならそれに越したことはない。
 一方、妻は家にいる時間を大事にする。インテリアにこだわり、お皿とか花瓶とか絵とかいろいろ集めて飾る。休日にはお菓子作り、夜は食事やまったりした時間を一緒にすごしたがった。
 この違いは結婚する前から薄々わかっていた。でも、まあ、僕らならなんとかなるだろう、と入籍と同時に同居を始めたのだった。考えが甘かったことは、すぐに思い知らされた。自分のこだわりを貫くと、相手のこだわりを否定することになる。必然的に、家にいる間は常にどちらかが我慢している状態になった。それまで一度もケンカしたことがなかった僕らが「ここにものを置くな」といったささいなことで怒鳴り合いになる。それは耐え難いほどのストレスだった。
「もういっそ別々に住む?」
 それはいらだち紛れに放った、悪い冗談のつもりだった。
「いいかも」
 彼女は真顔でうなづいた。
 そして試しに別々に生活してみたら、これが存外、よかった。
 それまでは家の中で顔を見るだけでいらいらしていたのに、離れたおかげで、お互いに優しくなれた。楽しい時間だけを一緒にすごせるし、その時間を大事にしようと思えるようになった。
 お試しで一週間のつもりがどんどん伸びていき、結局僕らは別々に暮らすようになった。
 ほぼ毎晩電話で話しをして、週末にはデートをした。夫婦から恋人に戻ったみたいで、会える日が楽しみだった。
 ときどき、同僚から「そろそろ次の相手を見つけたら?」と言われることがあった。そのたびに僕らは離婚していないのだと説明するが、みんな、いまひとつ理解できないようだ。
「だって、子どもできたらどうすんの?」
「今んとこ、欲しいとは思ってないから」
 当面は仕事や、自分たちの時間を大切にしたい。そこでもふたりの意見は一致していた。
 だから僕らはこれでいい。
 そう思っていた。
 食事を終えて、ふたりで駅まで歩く。アーケードの下なので風はないが、年末の夜の空気はキンと冷えていた。
「それ、まだ持ってたんだね」
 妻の手はコートのポケットに入っていたけど、それ、が何を指すのかはすぐにわかった。僕がコートの下に着ているセーターだ。僕が初めてもらった誕生日プレゼントだ。
「そりゃあ、大事にしますよ」
「結構いい値段したからね」
「別に、高けりゃいいってもんでもないでしょ」
 僕の答えに、妻は「そっか」と微笑んだ。僕はその横顔を、今この瞬間の情景を決して忘れまいと、記憶に焼きつける。
 直後、その笑顔がさっと影がさしてしまう。
「ごめんね。今日はなにも用意してこなかったんだ。その……」
 言葉を探すような間が空いた。
「変な感じになるかな、って思って」
「うん。わかるよ」
 妻の言わんとすることはわかった。僕も期待しないようにしていたから。でも、ほんのちょっとだけ、もしかしたらと思う気持ちがなかったと言えば、嘘になる。やっぱりね、という寂しさがチクリと胸を突いた。
 それきりなんとなく会話は途切れ、ふたりで黙って歩いた。
 駅前に着くと、ロータリーに停まっていた車から男が降りてきた。男に気づいた妻が手を振る。
「わざわざよかったのに」
「今日は冷えるからさ。寒くない?」
「うん、平気」
 男はさっと妻のカバンを取り、車に積みこむ。
 その途中で一瞬、男と目が合った。
 そうか、この男が。
 この日がいつか来るかもしれないと覚悟してはいたけれど、想像していたよりずっと、僕の胸は穏やかだった。物腰の柔らかさや、妻の体を気づかうその姿に、安心に似たものを覚えてすらいる。
「あなたのことは今でも好きだけど、恋人じゃなく、夫婦や親として生きていきたい」
 妻からそう言われたときは、驚いた。いつの間に心変わりしたのか、僕にはまったくわからなかったから。
 けれど同時に、一緒に暮らすことがままならない僕には相談できなかったのだろう、と納得している自分もいた。
 だから妻を責めることはできなかった。
 彼女の望むものは、僕にはあげられない。それなら、引き止める権利はない。
 妻の新しい夫となる男は、カバンを積んだあとそのまま車に乗りこんだ。どうやら気をつかってくれたらしい。
 妻と向き合った僕は、いつも通りに別れを告げた。改まった感じにはしたくない。
「今日はありがとう。楽しかった」
 それから僕は、茶封筒を差しだす。中身がなんなのか、妻にはわかったのだろう。少し神妙な面持ちで封筒を受け取り、中を確認する。折りたたまれていた紙を広げるなり、妻の口からふわっと白い吐息がこぼれた。
「青じゃん」
 歯を見せて笑う妻の顔を見た僕は、ああ、今まで幸せだったな、と急に切なくなってしまう。
 僕の記入欄だけ青で書かれた離婚届を、妻は大切そうに畳み直して封筒に戻した。
「今までほんとにありがとう」
「こっちこそ」
「元気でね」
 妻が乗りこんだ車が走りだして、急に寂しさが胸を突いた。これでもう、完全に妻は僕の手から離れる。 
 胸のあたりからなにかが抜け落ちたような感じがした。すきま風が抜けていくような、軽くなったような、不思議な感じだ。
 車はロータリーの出口で信号に捕まり、いったん停止した。今なら、まだ追いかけられるかな。そんなことを思いつつ、車のテールランプをぼんやりと見つめていた。
 やがて信号が青になり、車が再び走りだす。
 車が見えなくなるまで、僕はそこに立っていた。

〈了〉

Photo by すしぱく
Edited by 朝矢たかみ


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