【短編小説】僕はただ君と(『聖なる海とサンシャイン』トリビュート小説)
大丈夫。すぐに忘れるから。
◼あらすじ
徐々に他人の記憶から消えていく僕。
それゆえ、彼女との結婚もなかなか踏み切れない。
そこで僕は、彼女とある約束をする。
彼女が忘れずに待ち合わせ場所に来てくれたら、プロポーズをすると。
THE YELLOW MONKEY『聖なる海とサンシャイン』
から着想を得た短編小説。
「プロポーズしたいから旅行に行かない?」
行き先は、海辺の街。僕らが出会った海水浴場。
当日は、現地集合。
彼女が約束通りに来てくれたら、僕は彼女にプロポーズする。
でも彼女には、僕がやろうとしていることがわかったみたいだ。神妙な顔でうなずいた彼女は「いつにする?」とスマートフォンのカレンダーアプリを開いた。なんで冬に海? とか、どうせならもっと観光地っぽいとこにしようとか言われたらどうしようと密かに恐れていた僕は、ホッと息をつく。
他人が聞いたら、なんてまどろっこしいことをしているのかと思うだろう。
でもこれは、必要なことなのだ。
僕と結婚すれば、彼女の人生には、ほぼ確実に、ある程度の狂いが生じる。
だから彼女を僕の人生に巻きこむ前に、確かめておく必要がある。
僕らの関係が、僕の症状を乗り越えられるのかどうかを。
以前の僕なら、そんなことは考えもしなかっただろう。
彼女と出会ったのは、僕が海水浴場でライフセーバーのアルバイトをしていた時。クラゲに足を刺された彼女を、僕がおぶって救護室まで運んだのだ。僕はすぐに彼女が大好きになって、彼女も同じだったと思う。
僕も彼女も泳ぐのが好きだから、夏の旅行では、宿はいつも海のそば。サーフィンやダイビングを楽しみ、くたくたになった体をベッドに投げ出す。その日撮った写真をふたりで見返しながらとろとろと眠気に包まれていく時間が、何よりも幸せだった。
この先も彼女と一緒に人生を歩んでいきたいと思い始めた頃、僕が発症した。
これまで当たり前にできていたことが難しくなっていく僕を、彼女は常に支えて、励ましてくれた。不思議なことに、彼女だけは僕の症状の影響をあまり受けなかったのだ。だから、このままふたりで力を合わせれば乗り越えていけると信じていた。
今思えば、僕は自分の悲劇に酔っていたのかもしれない。物語の主人公が愛で困難を乗り越えていくみたいな。乗り越えた先では、より愛は深まり、幸せな未来が待っている、みたいなのを心のどこかで期待していた節すらあった。――去年までは。
去年の、彼女の誕生日までは。
僕は仕事帰りにケーキを買って、彼女のアパートへ行った。
合鍵でドアを開けたら、玄関に知らない靴があった。真っ白で大きな、男物のスニーカー。
胸騒ぎと動悸がした。
奥の部屋に入ると、男がいた。彼女のベッドに。裸で。
言葉が出てこなくて、僕と男はしばらく無言で視線をぶつけ合った。
その時、彼女がバスルームから出てきた。キャミソール一枚で、ぬれた髪を拭きながら。
僕を見た彼女は、とても驚いていた。まるで見ず知らずの人が勝手に部屋に入ってきたみたいに、動揺し、おびえていた。
でも次の瞬間には僕のことを思い出したのか、顔が青ざめた。ベッドにいる男の方を見ると、タオルでさっと体を隠す。それから彼女は、状況が理解できずうろたえる男を強引に追い出した。
玄関のドアを閉め、部屋に僕と彼女だけになると、耳が痛いくらいの沈黙が押し寄せてくる。
先に口を開いたのは、彼女だった。
「ごめん」
彼女は泣きながら、何度もそう繰り返した。
「あなたがいたこと、忘れてた」
答えはわかりきっていたはずなのに、僕はひどくショックを受けていた。
彼女だけは大丈夫だと思っていたのだ。彼女は特別だから、その他大勢の人みたいに僕のことを忘れたりしないって。
僕は黙って彼女を抱きしめた。肩をむき出しにしたまましゃくり上げる彼女をそのままにしておけなかったのもあるけれど、どんな顔をすればいいのかわからなかったことの方が大きい。
あの男はなんでもない。あなたがいたら必要のない存在。彼女は涙に震える声で必死に説明した。
嘘じゃない。彼女自身、自分のしたことに驚き、傷ついている。
彼女に責任はない。僕の症状がそうさせたのだから。
でも、どうしようもなく、胸が痛かった。
本当になんとも想っていない相手なら、家に上げたりしないよね? よりによって、自分の誕生日に。
それって、もしも出会う順番が違っていたら、隣にいたのは僕じゃなくあの男だったかもしれないってこと?
タラレバの話に意味はない。わかっている。でも、次々に頭に浮かび上がってくる「もしも」を止められなかった。
心の底に引っかかった疑心暗鬼は、それからずっと取り除けていない。
その夜以来、僕と彼女は、何かが決定的に変わってしまった。
彼女はたびたび、僕を忘れるようになった。時として、僕を忘れたことすら忘れてしまう。ついさっきまで罪悪感で小さくなっていた彼女が、突然ケロッとした顔で夕食をどこで食べようかなどと言い始めるのだ。置いてけぼりにされた僕の感情は行き場を失い、つい彼女にキツく当たってしまう。けれど身に覚えのない苦情に彼女は困惑し「そんな言い方しなくてもいいじゃない」と逆に怒りだす。どちらも悪くないのにお互いを責め合って、それなのに、わだかまりが残るのは僕だけ。だから、僕は彼女が忘れてもそのままにするようになった。どうせむなしい思いをするのだから、ふたりでいられる時間は穏やかにすごした方がいい。
それとほぼ時を同じくして、僕の症状が一気に進行した。
スマートフォンの顔認証が、僕の顔を認識してくれない。仕方がないからパスコード認証に切り替えたけど、最近では画面をタッチした時の反応も悪くなってきた。
仕事にも支障が出てきた。
僕はスポーツクラブで水泳のインストラクターをしている。電車が止まってしまい、僕が受け持っているクラスには間に合いそうもないので、会社に電話した。電話を受けた上司は「今日のクラスは代理のインストラクターで対応するから。あせらず来な」と言ってくれた。
ところが僕がようやく職場にたどり着くと、僕のクラスにはだれもいなかった。
どうやら生徒さんたちは何も聞かされず、ずっと僕が来るのを待っていたらしい。そして怒って帰ってしまった。
そのクレームの対応を終えて事務所に戻ってきた上司は、僕を見つけるなりにらみつけた。
「何考えてんだ。遅刻するなら電話くらいしろ」
むなしくて、反論もできなかった。ひとしきり上司のお説教を浴びた僕は「すみません」と大人しく頭を下げる。
短い間に僕は、不条理を飲みこんでその場をやりすごすことに、すっかり慣れてしまっていた。
はじめのうちは、僕も治そうと必死に病院を探した。でも何科を受診すればいいか聞くために病院に電話すれば、どこも「うちではそういうのは診てないですね」と言われてしまう。
唯一見つかった自称専門家に会いに、大学病院まで足を運んでみた。悪い人ではなかったけど、やっぱり治し方は知らなかった。いつもより念入りな健康診断みたいなものを受けて、山ほど質問されて、おしまい。対処療法でもいいから症状を和らげる方法はないか聞いても、申し訳なさそうに「わからない」と首を振るだけだった。でも専門家の方は、僕という症例を記録できて喜んでいたみたいだ。帰り際に「これまでと違う症状が出たら教えて」と連絡先を渡されたけど、それ以来、一度も連絡していない。
数年前に有名人が発症したことで、この病気の存在は世間に認知された。けれどまだ医師の間でも、これが本当に病気なのか集団妄想なのか、意見が割れている。そんな段階。症例が少ないから研究も進まない、専門家も増えない。治療法なんて、夢のまた夢だ。
インターネットやSNSで検索しても、情報はあまり出てこない。ぽつりぽつりと、発症した人の体験談があるくらい。どの体験談も悪化する一方で、快方に向かったという話はひとつもない。
職場には僕の症状のことを黙っている。話したところで、理解を得られるとは思えないから。今のところ大きな問題はない。だってトラブルが起きたとしても、どうせみんなすぐに忘れてしまうんだから。
僕は発症してからの数年間、そうやって少しずつ色々なことを諦め続けてきた。だれかに話を聞いてもらうこととか。治療とか。職場での円満な人間関係とか。
そして僕は、もうひとつ選択する段階に来ている。
彼女との関係も、諦めるべきなのかどうかを。
そして、約束の当日。
僕は待ち合わせの時間の二時間前に、集合場所の駅に着いた。もしも彼女が早めに来ても、待っている間に僕のことを忘れて帰ってしまうかもしれない。そんなの悲しすぎる。そう思って。
小さな街だから、改札はひとつしかない。僕は駅舎にひとつだけあるベンチに座って、改札から出てくる人を注視した。海水浴場以外はこれといった観光スポットはないし、冬なので、電車を降りる人は毎回数人程度しかいない。
駅を利用する人も、駅員も、だれも僕を気にしなかった。僕の時間だけが止まっているみたいな、不思議な感覚だ。
いったい、何本の電車を見送ったかわからない。だんだんと日が傾いてきて、海から吹いてくる風は、ますます冷たくなってきた。
スマートフォンで時間を確認すると、午後四時をすぎていた。約束の時間は午前十一時だ。彼女から連絡はない。こちらからは連絡しないと、最初に約束していた。
次の電車で最後にしよう。そう決めた時には、もう半ば諦めていた。
数分後、ホームに電車が入って来た。
降りる人は、ひとりもいなかった。
なんとなく海が見たかった。
僕は駅を離れて、海水浴場へ向かって歩いた。駅から坂を下れば、どの道を通っても海にたどり着ける。
海水浴場には、犬の散歩をする人がいるだけだった。
冷たいと思っていた風は、海が近づくと少しだけ暖かくなったような気がした。しっとりとした風に乗った潮の香りが懐かしい。思えば、発症以降、海に来たのは初めてだ。
沖の方は少しだけ波が立っているけど、浜に届く波は穏やかだ。
太陽はもうすぐ水平線に触れそうなところまで落ちていた。空は橙色から藍色へとグラデーションになっている。
僕は、泳ぎながら空を見るのが好きだ。背泳ぎをすると視界のすべてが空で埋め尽くされて、まるで空を泳いでいるような感覚になる。海でもいつも背泳ぎなので、彼女には不思議がられた。
ここに限らず、海には思い出がたくさんある。だから、ふたりで一緒にここに来られたら、海が全部元に戻してくれるんじゃないかと期待していたのだ。
この状況でもまだ、僕は酔っていたのかもしれない。奇跡的な何かが起きて、僕と彼女を救ってくれるんじゃないかと。僕らが出会ったこの海ならばもしかして、と。そんな幻想にしがみついていた。
波が靴先をぬらした。波は僕の足に沿って形を変えて、泡を残して引いていく。染みこんだ水で靴下がぬれて、冷たい。でも、この世にまだ僕を認識してくれるものが残っていたことに、ホッとする。
足がぬれるのも構わず、僕は波を蹴散らしながら歩いた。ぬれた砂をぎゅっと踏みしめ、一歩一歩、靴の跡を残していく。
冷たい空気を胸いっぱいに吸いこむと、少しだけ、すっきりした。
心のどこかでは、彼女が来ないと最初からわかっていたのかもしれない。もちろん来て欲しかったし、寂しさもある。けど、どこかで安堵している自分がいた。
僕の症状のせいで、彼女の人生を狂わせるかもしれない。確かにそれが現実になることを僕は恐れているけれど、一番はそこじゃない。
僕が、彼女と続けていける自信を失くしてしまったのだ。
今の僕は、彼女が僕を大切に想ってくれていると、胸をはって信じることができない。
徐々に僕を忘れる頻度が増えていく彼女を許せるだけの、心の広さがない。
僕が合鍵で部屋に入るたびに、強盗かストーカーかとおびえる彼女を見るのがつらい。
忘れられるたびに、実は忘れたふりをしているだけなんじゃないのか? と不安で頭がグラグラして眠れなくなる。傷つけられたと彼女を責めてしまう。
彼女への想いが歪んでしまうことが、何よりも苦しかった。
だったら、楽しかった思い出が嫉妬や後悔にぬり潰される前に、去った方がいい。でも自分から別れを切り出すことはできなかった。だから、運に――僕の症状に、決断を預けたのだ。
いつの間にか、太陽が水平線の向こう側に消えていた。空の大部分は藍色に覆われている。今日はこのまま、このへんに泊まってしまおうか。そのままここか、どこか知らない場所で新しい暮らしを始めてしまってもいい。
何も言わずに消えたら、彼女は傷つくかもしれない。でも大丈夫。それも、じきに忘れる。
その時、スマートフォンが鳴った。電話だ。
まさか。
僕はあたふたとコートのポケットからスマートフォンを取り出す。
画面に表示されている彼女の名前を見た時は、ちょっと涙が出た。
やった! 思い出してくれた!
数時間遅れだって構わない。もしも約束のことを完全に忘れて別件で電話してきたのだとしても、今なら許せる。今この時に、彼女が僕のことを考えていてくれる。その事実だけで、これから先にどんな困難があろうと乗り越えていける気がした。
興奮で指が震えた。おまけに指がかじかんで、うまく画面を操作できない。
通話ボタンをタップする。
タップする。
タップする。
タップする。タップする。タップする。
同じ動作を繰り返すたびに、血の気が引いていく。
スマートフォンが、反応しない。
袖で画面を拭いてみたり、操作する指をかえてみたりするけど、通話ボタンは微動だにしない。画面のあちこちをタップしたりスライドしたり試してみるけど、まったく無反応だ。力いっぱい指を押しつけても、叩いても、本体を振っても、ダメだ。
さっきとは違う涙があふれてきた。
なんでだよ。
どうして今なんだ。
せっかく彼女が思い出してくれたのに。
今なら、まだやり直せるかもしれないのに。
僕は必死に画面をこすり続ける。
着信音が、途切れた。
通話ボタンが消え、かわりに「不在着信一件」というテキストが現れて、やがてそれも消えた。
画面が真っ暗になったスマートフォンに指を置いたまま、僕はしばらく動けなかった。
僕はふと、自分が歩いてきた方向を振り向く。
波打ち際に僕がつけたはずの足跡は、ひとつも残っていなかった。
〈了〉
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