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今までのサッカー人生(前編)

Hola!スペイン、バスク州のビルバオでサッカー留学をしている浅野峻輔です。今回は自分自身について細かく紹介していきます。かなり長くなってしまったので前編、中編、後編で分けて記載します。

サッカーとの出会い

2001年5月に産まれてから2年して、父と運動をするようになったのを覚えています。その半年後には祖父に自転車に乗れるようになれと言われ、1日びっしり特訓したのも覚えています。はじめは若干強引ではあるものの徐々に運動することが楽しくなりました。なので自然と友達と遊ぶ時も室内ではなく外で遊んでいて、ほとんどはサッカーをして遊んでいました。しかし、当時住んでいた行方市には習い事をできる場所もなく、遊びだけで運動をしていました。そんななか6歳の時、県内ではありましたが土浦市に引っ越すことになり、近くにサッカー少年団があったのでそこに入りました。そこからが僕のサッカー人生スタートになりました。


小学校低学年

小学生になり、所属していたサッカーチームが幼稚園生だけのチームだったので違うチームを探しました。父が鹿島アントラーズの熱狂的なファンであったため、鹿島アントラーズスクールのつくば校に通うことにしました。そこから父と僕はプロを目指すことをきめ、より熱心に練習をするようになりました。父は元スポーツマンでボクシングをやっていたため、とても熱い人で厳しくサッカーを教えられました。朝5時半からリフティングの練習を父として登下校をする他の小学生を横目にボールを蹴っていました。登校は車でサッカーの指導を父から受けながらでしたね。スクールが平日3回で、土日はスクールがないので土日だけ活動している守谷にある郷州FCに入り、それだけではなく、平日2回は水戸にあるフットサルスクール マルバ水戸に通っていました。本当にサッカー漬けでしたね笑


サッカーセレクション

小学生4年生にあがるころ、多くのJチームの下部組織がセレクションを行いました。その中でやはり僕が参加したのは鹿島アントラーズつくばでした。しかし最終選考で落ちてしまい、酷く落ち込みました。その後父にもう1つセレクションがあると伝えられもう1チーム受けました。そこが柏レイソルです。当時の僕はサッカーを観ることを全くしていなかったので何のチームかも分からないまま受けました。しかしセレクション当日、アントラーズの2倍近くのセレクション生がいてその凄さを感じました。1次試験と2次試験は同日の午前と午後で行うのですが、1次試験の出来が悪く、昼休憩では父と練習をしました。なんとか最終試験までいき、あとは結果を待つだけ。しかし全くドキドキがありませんでした。なぜなら受かると思っていないからです。ある日学校から帰ると父と母がそわそわした様子でリビングにいて、テーブルには1つの封筒が。父に開けてみろと言われ見てみましたが漢字が読めず母親にパスしました(笑)母が読み上げると父は大喜び。書いてある意味が初めてわかりました。アントラーズのセレクションに落ちた時は僕よりも落ち込み、今回は僕より喜ぶ父の姿。今思うと父が泣いている姿を見たのはあれだけでした。普段厳しい、いや厳しすぎる父の褒め言葉と涙ほど嬉しいものはありません。(当時厳しすぎてあんまりすきじゃなかったです笑)


柏レイソルu12

小学4年生の春。いよいよ活動がスタートです。レイソルに入り初めてちゃんとしたポジションにつきました。それまでは色んなところをやりながらでしたし、決まったポジションがありませんでした。そして僕はボランチを希望し、ボランチとしてプレーしました。僕達はキーパーがいなく、そしてセンターバックも1人だけで、順番で回していたのですが、4年生の冬のある日、当時のu10の監督の前嶋さんにセンターバックに向いている。と伝えられコンバートしました。

その後卒団までほとんどセンターバックとしてプレーしましたが、小学6年生ではほとんど試合に出れなくなりました。自分でも気づいていましたが、チームで1番下になっていました。背も大きくなければ強い訳でもない。そうは感じていましたがへこたれることなく練習に励みました。

小学6年生の秋の大会の後にジュニアユースに上がれるか上がれないか、全員の前で打診される時間がありました。〇(合格)△(希望あり)✕(不合格)の3つで言われるのですが、やっぱり✕でした。その時、よし次の進路を探そうと父と探し始めました。その後進路希望シートが配られ、第1希望から第3希望まで書く欄があり、もちろんレイソルを第1希望に書き、その後アントラーズ、ドラゴンズと書きました。しかし、✕申告を受けた選手の中で1人だけ第1希望から第3希望まで柏レイソルと書いた熱い選手がいました。その後彼はジュニアユースにあがり、素晴らしい活躍を見せました。彼のようにクラブを心から愛し、貢献できる選手を見て尊敬しました。

柏レイソルというクラブはとても素晴らしいです。毎年のようにユースからプロへ行く選手がいて、レイソル出身の選手がプロで活躍している姿は何度もみています。練習後には食事がありトップチームからジュニア年代までの選手が同じ場所でご飯を食べ、食事の質も高く非常に素晴らしい環境でした。にも関わらず自分が今トップの選手ではないということは、紛れもなく自分のせいであり、環境のせいには決してできないものです。このクラブに入団できたことは今でもなお自分自身の誇りですが、今はクラブにいたことを声を大にして言えません。

''あのクラブにいたのにあの実力かよ''

こんな風に裏で言われていたのを覚えています。しかしいつか認められるくらいの実力をつけ、自分の経歴を堂々と言える日が来るよう成長します。


次回

今回のnoteは長くなってしまったので、次回は中学校のセレクションから現在までを書いていきます。前編だけでも長かったですが、読んでいただきありがとうございます。中編、後編も読んでいただけると嬉しいです。



中編はこちらから

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