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鎌倉殿13-6 うちの父のどこが!?

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が、躍動感をもって動き出していますよ。

大河ドラマらしく合戦シーンが登場し、早くも三郎兄上(北条宗時)ロスが出たとか出ないとか。
ちなみに私はロスにはなりません。

兄上があっという間に退場するのはあらかじめ分かっていたので、むしろ初めからそういう目で見ていました。

おちゃらけた調子のいい兄を見て「後々小四郎がこの顔を思い返すんだろうな~」と思う。

珍しくカッコいいシーンでは「あぁこれは後々使われるな」と思う。

最後の会話とか…回想するためのやりとりとしか思えませんでしたね。
山の中だから兄上の背景は木々の深い緑だけで余計なものが一切なくて、なんとも美しいシーンでした。


さてまずは恒例の、鎌倉幕府編纂史書「吾妻鏡」とドラマを付き合わせて確認していくコーナーです。

世に言う「石橋山の戦い」。
治承四(1180)年の8月23日夜のことでした。

石橋山は現在の神奈川県小田原市です。

佐殿チームに加勢する予定の三浦義澄は大雨のなか、川を渡れずにいましたがその川は相模川。
相模川の河口付近は、現在の神奈川県茅ヶ崎市・平塚市に挟まれています。

ところでこの相模川と呼ばれる川ですが別名があり、馬入川(ばにゅうがわ)とも呼ばれます。

それで今回、三浦義澄の息子・義村が「小四郎、すまん!」とあっさり佐殿を切り捨てる姿勢を見せた当時、この川が何と呼ばれていたかを調べました。

読んでくださってる皆さん、すまん!

ちょっと調べた程度では正確なことが分かりませんでした。
もちろん分かったこともあるので、それを書いておきます。

ひとつめ。
相模川の名称は相模国に由来する。

ちなみに神奈川県が南側に抱え込んでいる海は現在、相模湾と呼ばれています。
そして相模川は相模湾に流れ込みます。

なんか相模だらけ。

そしてふたつめ。
鮎川と呼ばれていたことがある。
これは鮎がたくさんいたことに由来します。
現在でも「あつぎ鮎まつり」などが行われているようです。

さらに分かったことのみっつめ。
馬入川と呼ばれるようになったのは「小四郎、すまん!」よりも後。

しかもおそらく「鎌倉殿の13人」のなかでも扱うであろう、あの事件が原因!

あらあら、まあまあ。
この先に小さな楽しみ(?)が出来ましたね。
どこかで川の名前が変わる事件が起きますよ。

話を戻します。
石橋山の戦いの翌日、8月24日。

梶原景時が頼朝を発見したにも関わらず、どういうわけだか見逃しました。

ドラマでは絶妙のタイミングで雷が鳴り、頼朝を探しに来ていたふたりの大庭チームが引き返していきました。

まるで神のご加護!?

吾妻鏡には、梶原平三景時が「有情(うじょう)の慮(おもんぱかり)を存じ」て、この山に人がいる形跡はないと言って大庭景親をとなりの峰に誘導したことが書いてあります。

「情けのある配慮をして」という書き方ですね。

さて石橋山の戦いの後、相模川で大雨による足止めを食った三浦親子は地元に引き返す途中で畠山重忠と戦になりました。

場所は由比浦(ゆいのうら)。
あれ?それって今の由比ガ浜のことじゃないですか。
ちょうど鎌倉。
佐殿が熱望する鎌倉。

ドラマの中では草がボーボーに生い茂ってましたね。
田舎を通り越して、誰もいない感じでした。

佐殿が鎌倉に入る直前の鎌倉。
草ボーボー。
…とはいっても、この頃の鎌倉は何もなかったというわけではなさそうです。

なんと弥生時代にはすでに大規模な集落があったとか。

また奈良から平安時代にかけて、鎌倉の北部と南部にそれぞれ東西をつなぐ幹線道路ができたそう。
また二本の東西道路をつなぐ南北道路も同じ頃には出来ていたらしい。

なにこれ。
いわゆる交通の要所じゃないですか。
けっこう栄えてませんか?

…というわけで平安時代後期になると武士が進出してくるようになります。

初めは桓武平氏、のちには源氏。

ここで源氏が出てくるのです。
いろいろあったすえに、佐殿の父である源義朝が鎌倉を本拠としました。

ちなみにその館は、先ほどの北側の東西道路と南北道路が交わるあたりだったそうです。

ま、そんなわけで佐殿は父のいた鎌倉をめざしたいわけですね。

ところで由比ヶ浜あたりですが、当時は湿地帯だったらしいです。
草ボーボーはそういうことでしょうかね。

さあ、また話を戻します。

8月24日は梶原景時が佐殿を見逃したという話でした。
そして我らが兄上が殺られた日でもあります。

8月26日。
畠山は三浦を襲うことにしました。

吾妻鏡によればその理由は平氏の恩に報いるためと、由比ヶ浜での敗戦の雪辱を果たすため、だとか。

朝6時頃にその情報を受けた三浦は衣笠の城(神奈川県横須賀市)にこもり、8時頃には敵数千が攻めてきました。

三浦は前日の由比ヶ浜戦に続く戦いに力尽き、夜になってから城を捨てて逃れました。

その際、89歳(!)になる三浦義明(義澄の父)が城に残りました。

さて8月28日。
いよいよ佐殿登場です。

吾妻鏡によると「真名鶴崎(まなづるざき)」から船に乗り安房国に向かったと。

現在の神奈川県真鶴町。
真鶴町には真鶴半島があります。
海岸線がたくさんあれば、小舟を隠して待機することも可能だったのでしょう。

ちなみに佐殿チームが隠れたとされる「しとどの窟(いわや)」も、この真鶴町にあります。

ところが湯河原町にも「しとどの窟」があるんです。

どちらかが偽物なわけではなく、移動しながら複数の場所に隠れたのではないかと言われているそうです。

番組内では湯河原町のほうが映っていたように思います。
観光資源だけに、真鶴町のほうはちょっぴり悔しい思いをしてるかも!?

もし訪ねてみようと思われた方は、両方の「しとどの窟」を巡ってみるのも面白いかもしれません。
真鶴町と湯河原町は隣町ですしね。

さてこの佐殿が安房に向かった8月28日。
もうひとつ記述があり、佐殿は船に乗る前に政子に使者を使わして「別離以後の愁緒(しゅうしょ)を申さると云々」だそうで。

「別れてからの嘆き悲しむ心」を、この忙しいときにわざわざ?

無事である。案ずるな。お前たちは時期が来るのを待っていろ。
…とかじゃないのですかね。

今回のドラマの大泉洋が演じる源頼朝にはぴったりきます。
大泉洋さんの八の字眉顔が浮かぶレベル。

でも鎌倉幕府編纂史書の吾妻鏡の記述ですよ。
こんな書かなくてもいいことをわざわざ書いて、頼朝像をどういう方向に持っていきたいのか。
なんだか今後のドラマの行く末ともからんでくる予感です。

…とここまでが今回のストーリーにからむ吾妻鏡の記述、とその他もろもろでした。

最後に今回書き連ねた地名を整理します。
東から西へ、東京湾側から静岡県方向へ並べてみましょう。

安房国(千葉県南部)

東京湾

衣笠(横須賀市、三浦の居城)

由比浦(鎌倉市由比ガ浜、衣笠方面から相模国西部へ向かう交通の要所、石橋山から引き返す三浦が畠山と戦う)

相模川(茅ヶ崎市・平塚市、三浦が大雨で足止め)

石橋山(小田原市、石橋山の戦い)

真名鶴崎(真鶴町、頼朝が安房へ向かって船出、近くにしとどの窟)

もうひとつの、しとどの窟(湯河原町、石橋山からまずはこの窟がある椙山に逃れたらしい)

以上になります。


さてさて。
私が今回気になったのは、りく。
ドラマの中で政子に「うちの父のどこがよかったんですか?」と聞かれてました。

それよ、それ!

りくは何者なの?
時政が京にいるあいだはともかく、なぜついてきたの?
そもそも家族がよく許したわね。
もしや天涯孤独とか?それはないなー。

というわけで調べました。

その前にまず「うちの父」のほうから。
北条四郎時政。

時政の祖父にあたる北条時家はもともと京武者でした。
京武者は、京都で活動する軍事貴族を指します。
この時家がどういうわけか伊豆の北条に婿入りして土着しました。

しかも調べたところ「受領に任官可能な京武者の家を出自とする存在」という記述を見つけました。

これは京の軍事貴族であり、かつ地方に行って現地のお仕事を任されることがあるということです。

さて今度はりく。
この人は中級貴族の出身でした。

平清盛の義理の母、池禅尼(いけのぜんに)。
その兄弟・藤原宗親の娘がりく。

つまり平清盛とりくは、形式上いとこです。
そんな人が坂東の田舎武士についていく!?

これはやはり時政の一族がもともと京武者であったからこそ許されたのだと…。

なるほどねぇ。
調べれば調べるほど面白いことが出てきて深みにハマっていきます。

ちなみに池禅尼は十三歳だった頼朝の助命嘆願をした人として有名ですね。

ところで、りくはやっぱり何を考えてるのか分かりません。
時政が結婚する相手として問題なかったということは分かりました。

でもなんで?

ホレたから?

京から伊豆に向かうことを決めた時点では、北条が頼朝の後ろ楯になる予定はなかったはずです。

もちろん結果的に頼朝が鎌倉殿と呼ばれるようになることも、今はまだ誰も知らない…。

人生最大の賭け、みたいなことをしたんでしょうか。

はたまたしぃさま(時政)にホレただけ!?

うーん。分からない。
分からないけれど、これからドラマ内では三谷幸喜的結論が出てくるのでしょう。
それを楽しみにするとします。


参考文献
「吾妻鏡」角川ソフィア文庫 西田友広編
「武家の古都、鎌倉」山川出版社 高橋慎一朗
「史伝北条義時」小学館 山本みなみ

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