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大人の本音、高校生に届け!

現役高校生たちの作った短歌を読んだ。

国語の授業では短歌も扱う。名作を鑑賞したのち、彼らも一首詠むことになったのだ。そしてそれを先生がまとめてプリントにしたものを、息子が持ち帰った。

1クラス分の短歌たちは、氏名はもちろん性別でさえも不明。「あの人の短歌である」という背景(あるいは裏設定)なしに読み解かねばならない。分かるのは、息子と同じく「現役高校生である」ということだけ。

いつも短歌を読むときは、少しとはいえ、その短歌の作者に関する背景を知っていることが多い。この作者は『防人で、九州に向かうところなのだ』とか『かの有名な長編物語の作者である』とか『男の子の母親である』とか『学校の先生をしている』とか。(それぞれ特定の歌人を思い浮かべてみた…)

背景を知らずにどこまで味わえるのかちょっと心配だったのだが、読んでみると意外なことに作者の性格が見えてくるような気がした。

まず短歌たちは3種類に大別された。ひとつめは、昔の短歌、すなわち、和歌と呼ばれていた頃の短歌を必死に真似たもの。ふたつめは、五七五七七に合わせることに力を注いだもの。みっつめは、(私の目には)立派な現代短歌(にみえるもの)。

詳しくいこう。

ひとつめは、古語を使ったり、枕詞を使ったりしていることが特徴。そして教科書だけでなく、ある程度、国語便覧(国語の資料集)やネットなどで勉強して知識を増やし、そのカタチを踏襲しつつ美しくカッコよくおさめようと努力していることが分かる。

「真似」要素が多すぎて、オリジナリティがあまりない作品もあったが、べつに盗作ではないし、まったく問題ない。素人の高校生が、授業の課題に提出しただけだ。そんなことより人間たるもの、最初は「真似る」ところから始まるのだ。いつか興味が出て、機会があったら、さらにオリジナリティを付け加えていっていただけたら。それで十分。

そしてふたつめは五七五七七に力を注ぎまくったことが特徴。短歌は、時に「みそひともじ(三十一文字)」と言われたりもする。俳句と違って季語はいらない。短歌のルールは文字数(音数)だけ。それを守った。真面目に守り通した。

忠実に文字数を守ることに集中したため、情景とか情感とかはどこかに落っことしてきてしまった。ややもすれば、夏休みの宿題で制作したポスターの標語のようになってしまったことは否めない。しかし、かまわないよ。何も間違っちゃいない。もし次回があったら、音数の次はリズムや韻を検討してみたらどうだろう。ラップのように。

みっつめ。現代短歌。こんなにエラソーに語っている私は、短歌が好きになって数年のド素人。そんな私の目には立派な現代短歌に映る短歌たち。現実的な空気感があるのだ。

時に美しい景色だったり。時に美味しいものだったり。あるいは悩み迷う心だったり。作者のその時のなにかが、プリントの短歌の文字から浮かび上がってくる。すごいな、と思う。

具体的にどんな短歌だったか、作者に断りもなく掲載することはできない。それがとても残念。ほとんどの生徒は、持ち帰ったプリントを親に見せないだろうし。

素敵な短歌を作った子には、私は声をかけたい。心が揺さぶられたよ、って。でも、ただの一保護者ではそういう機会はない。

先生方がそういう時、声をかけてあげて欲しい。建前じゃない、大人の本音は、高校生にもまっすぐに届くから。そして大人になってもずっと支えになるから。

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