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あやちゃんと物々交換した話

私にはあやちゃんという友達がいる。
中学の頃からの同級生で、ほとんど幼馴染だ。
お互いにずっと東京で育って、共有するものもなんとなく似ている。

あやちゃんは、アーティストだ。
大学院まで建築を勉強していて、普段は建築事務所で働いている。
だけど、建築は嫌いなんだという。
口数は少なくて、変わっていて、でも彼女は昔からいつも、たくさんの人に囲まれている子だった。

そんなあやちゃんが
「まあ、新しい生活様式」都市鉱山の調理法
という展示で作品を発表した。
数人のアーティストが参加して、生活の中から生まれたものづくりをテーマに作品を展示していた。

あやちゃんは玉ねぎの皮で染めたハギレや、拾ってきた枝を使って、クリスマスのリースやツリーを作っていた。
玉ねぎの皮で染められた布の色は、驚くほど鮮やかなレモンイエローだった。
クリスマスのオブジェたちは、どこかの民族の宗教みたいな雰囲気があった。大草原で、ほっぺを真っ赤にした女の子がはにかんで立っているようなイメージが湧いた。

他にも、電子レンジで使った陶器や、その陶器を乗せるための卵の殻と米ぬかでつくった細長い台が展示されていた。
台は芋虫がモチーフになっていてとても細長くで、大きかった。
近寄ると、ぬかの香りがふんわりと漂った。
隣に置かれた手記にはあやちゃんが、材料である卵の殻をどんな風に手に入れようかと走り回っている様子が記されていた。
結果、あやちゃんは、近くのケーキ屋さんから卵の殻をもらうことに成功していた。

今まで私は「あるもの」を生かす、「あるもの」でつくる、と考える前に、使えないから捨てちゃおう、面倒だから買っちゃおうと考えていた。
玉ねぎの皮でハギレの色を染めるとか、廃棄される卵の殻をもらいに行こうとか、一つも思いつかないことだった。その前に、仕込んだり、やりとりしたりする面倒くささが勝ってしまって、お金で解決しようと思っていたのかもしれない。

展示場所では、米ぬかでつくったクッキーや、ドリップのコーヒーもいただくことができた。
それらは「物々交換」で手に入れることができた。

現金でも電子マネーでもなくて、「物々交換」。
私はその日持ち物が全然なくて、泣く泣くお金で購入をした。
なんだか自分は何にも持っていないような気持ちになってしまった。

後日、私はあやちゃんと念願の「物々交換」をした。
あやちゃんは、展示に飾られていたリースをくれた。
作品をもらうことに躊躇があったけれど、あやちゃんは「もらってくれて嬉しい」と言った。
作品の最後を「誰かの所に届くこと」だと考えられるのは、当たり前のことなんだけど、なかなかできないことだ。
ものを作る人ってどうしても望むような形で、望むような人に届いて欲しいと願ってしまう。自分がつくったものをなかなか「手放す」事ができない人もいる。

私に「あるもの」って実は、もっともっと他の人の「あるもの」と交換して、世界の中に循環させるべきものなのかもしれないと思った。
あやちゃんの周りにいつも人がいるのは、自分の持っているものを誰かと交換していくことに躊躇がないからなのかもしれない。

自分に「あるもの」を、使い、作りかえ、更新して、交換して、流していく……
私は、あやちゃんの展示で初めて、玉ねぎの皮がレモンイエローになるってことを知った。
きっと誰のところにも、玉ねぎの皮みたいに、気づかないで持っている宝物みたいなものがあるんだろうな。
それをあやちゃんのように生かすか、それとも、ゴミ箱にいれちゃうかはその人次第で。

ああ、もっと自分の「あるもの」をみつけていきたいなぁ、と思った。

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