私とゾンビと彼の三角関係

 理由は分かりませんがゾンビに恋を壊されました。
 ゾンビに噛まれた人はゾンビになります。
 噛まれたゾンビが人を噛むと、その人もゾンビになります。
 なんか偉い国の偉い人が、なんか知らない薬か兵器かを作って、なんかやらかしたんでしょうか。
 迷惑な話。楽しみにしていた修学旅行は中止になった。一緒に東京を観光する予定だった友達もゾンビになった。多分。原宿はオシャレよりも死の香りが立ち込める街になっている。
 修学旅行で、とびきり素敵な告白をしようと企てていた。ホテルで、外に呼び出して、「星、あまり見えないね。」とか、「東京の空気は冷たいね。」とか、起こりうる会話を予行練習して、その後に「私のこと、どう思ってる?」って聞きたかった。「私は、好き。ちょっと毎日の生活に支障が出るくらい。好き。」と言うつもりでいたのに、全部無駄。楽しみすぎて微熱だった私は一体なんなんだろうね。
 私の住む大阪の南の方は初期段階での被害が少なくて、パニックに流されていたら隔離施設に入ることができた。
 普通に広いし暮らせる。私たちの隔離施設には一万人ぐらいの人がいて、犬や猫はみんな殺されちゃった。人が生き残るだけで精一杯なのに他の種族を世話する余裕がなかったらしい。
 まったく、嫌な話だぜ。
 YouTubeだって取り上げられちゃって、犬も猫も消えた。
 私たちの生きる目的は、勉強でも就職でも暇潰しでもなく、「人類の生存」に変わったらしい。辛い人もいるだろうな。私は恋してるからいいけどさ。
 隔離施設はでっかい檻で閉ざされていて、ゾンビが入ることはないっぽい。四ヶ月も暮らすと緊張感は解けて、労働の忙しさの方が苦しくなってくる。畑仕事に就職なんて、私の描いた夢はこんなんじゃなかった。絶対ナイスなシティガールになるって思ってたのに。そうは言っても、自分で育てたお野菜は美味しいんだろうな。
 ここには私みたいな若者がたくさんいて、その次になんだか頭の良さそうなジジイたちもいっぱいいる。
 それ以外にあんまり人はいない。全員覚えているわけじゃないけど、作為的に選ばれているよな。と考えれば気持ち悪い。
 生殖能力。労働力。権力。
 先生!私たちは人の皮を被った家畜なんでしょうか!
 答えてくれる人はいない。
「お疲れ様。はい。コーヒー。盗んできてやった。甘いのはないけど。一緒に飲も。」
「いいよ。俺は。」
「そんなこと言わんとさ。遠慮しやんでいいのに。あ、私?私は正直、苦いの好きじゃないからさ。このまま私が飲んでもたら、もったいないっていうか。だから。」
 祐介くんが私のコーヒーが入ったコップに口をつける。それだけで生きていける気がした。
「どう?」
「何が。」
「味とか。」
「苦い。」
「そっか。ごめんね。」
「謝られても困る。」
「ごめん。」
「それ。」
「あ。そっか。コーヒー、好きじゃない?」
「考えたことない。」
「考えてみてや。」
「好きではないかな。少なくとも。」
「苦いから?」
「どうだろ。」
 話している時は祐介くんの目を見られる。祐介くんは、私の目を見ていない。
「好きなものが少ない人生って悲しくならない?」
「俺には好きなものが多い方が辛そうに見える。」
「なんで?」
「喪失が増える。」
「私は、パンダ好きやけど、別にパンダに会えなくても喪失だなんて思わんで。」
「そうなんだ。」
「多分そういうところが鈍感にできてるんやと思う。それか、好きなものが多いからこそ、一つぐらい失ってもいいって思えてるんかも。だったら薄情なやつやな。でもその方がいいかもよ。」
「耐えられない喪失ばかりだよ。俺にとってはどれもそうだ。」
「祐介くんは、失くしたものばっかり見ないでよ。」
「難しい。」
「それでも。私ができることって多くないし、また祐介くんが好きになってくれそうなもんでも持ってくるわ。元気出して。」
「どうでもいい。」
 私は笑って「ひど。」と言う。
「君の自由意志だし、勝手にすればいい。俺は別に、そういうことを望んでいないということは伝えるけど、俺には君に俺の意思がどう伝わっているか知らないし、知りようもないし。結局君の感情は君のものだから。俺にはどうしようもない。だからこそ、君も、俺の意思を勝手に決めつけるなよ。」
 祐介くんが言った。
「分かった。」
「ならいいよ。」
 祐介くんはちっとも優しくないし、私のことを好きじゃない。
「次は甘いもの、持ってくるわ。」
 だからなんだ。私は恋をしている。

 祐介くんは、授業中のざわめきとふざけ出した先生の、収集がつかなくなる騒がしさの中で、単語帳を開いていた。祐介くんは英語の勉強にだけは熱心で、それがバンドの曲の詩に英語を入れたいからであることを私は知ってる。
 祐介くんはたまに、ノートに詩を書き留めている。
 移動授業をサボってノートを覗こうとしたけど、見当たらなかった。祐介くんはノートを持ち歩いていた。
 体育では持ち歩けないだろうと思って、生理だったしちょうどいいかと思ってサボった授業の合間に、教室に立ち寄ってノートを盗み見た。

All You Need Is Ramen and Sushi
君が好きさ。愛してるの意味はまだ知らないけどね。

 その詩を見て確信した。
 私、祐介くんと結婚する。
 祐介くんは大学に行ってバンドを組む。そこで変な女の相手なんかせずに真面目に曲と詩に向き合って、嫌われる。そして、そのバンドは十年は売れないだろう。でも癖になるメロディとか詩がTikTokでバズって変な売れ方しちゃうんだ。それまでの十年を私が支える。
 もうその未来以外見えないな。だから高校生が終わる前に付き合わないといけない。少なくとも私の存在を知ってもらわなければならない。
 私たちはまだ、出会ってすらいなかった。
 祐介くんの好きな音楽を知りたいし、それはきっと私の好きな音楽になる。
スマホを盗み見てやろうと思ったけど、カバンの中には無かった。祐介くんは学校にスマホを持ってきていなかった。
 祐介くんはペットボトルをラベルとで分別してゴミに捨てるし、そういう、世界と祐介くんとの境界線がきちんと見えるところが好きだった。みんなが許しているからという理由で分別をサボらないし、みんなが持ってきてるからという理由でスマホを学校には持ち歩かない。
 私も真似したかったけど無理だった。だってスマホと私は一心同体だし。
 挨拶をしてみた。朝、遅刻ギリギリの校門で見かけた時だ。祐介くんは小さく「おはよう。」と言った。祐介くんの世界に私は正しく存在していた。つまりそれは、存在していないことと同じだった。

 祐介くんは今日もコンクリートの倉庫で、憂鬱そうにうずくまる。三角座りがよく似合う。
 何にもならないのに、生きていくしかないのに。
「せめて日には当たりなよ。あったかいで。」
 私が言う。
「当たりたくない。」
 祐介くんは言う。
「えー、必要なんやで。日。太陽。」
「なくても生きていける。」
「どうやろなぁ。私は大事やと思うで。太陽がないと人類はすぐ滅亡するらしい。なんか模試の評論で読んだことある。寝ること、食べること。それと同じくらいには、日の光を浴びることが必要って。」
「食べること、寝ること。それと日に当たれば生きていけるってこと?そんなわけない。」
「寝て食べてれば結構生きていけるくない?」
「どうだろう。もっと複雑だと思う。人間は。」
「それはそう思うで。」
 倉庫の窓を開ける。ガチガチと、噛み合ってない古ぼけた窓は埃まみれで灰色だった。そんな窓でも開けると気分は良くて、感じてもいないのに「暖かい。」と私は言った。「暖かいね。」と、祐介くんとのコミュニケーションを求めた。祐介くんは「分からない。」と言った。
「あ。やっぱ食料足りてないらしいで。私らめっちゃ我慢してんのにさ、おかしくない?」
「仕方ないよ。」
「でもさ、もうちょっと食べたい。成長期やで。まだ。」
 私は別の窓を探して歩いた。
「まだ大きくなるの。」
「うん。」
「俺はもういいや。しんどい。」
「楽しくない?成長。」
「意味のなさの方が先に目につく。」
 開ける窓が無くなったので、祐介くんの隣に座る。光が入ってきている。影が目立つ。
「多分食べ物だけじゃなくて水も足りなくなる。みんなまともじゃいられないよ。一度持ってたものを手放すのってほんとに難しい。」
 祐介くんが言う。
「気付いてるんだ。そして目を背けてる。もうどうにもならないのに、畑なんか育てたって。俺たちが大きくなるとか。」
「うん。」
「いや、ごめん。」
「いいよ。謝らないでよ。」
「俺もまた、意味のないことを言っていた。」
「あるよ。意味。私、祐介くんが何考えてるか知りたいし。」
 それに、私が生きてることまで、無意味になってしまう。言おうとしてやめた。
「何考えてるか、か。どう思う?」
「どう思うって?」
「いや、俺が何考えてるって、思ってる?」
「そんなん分からんよ。私、エスパーじゃない。ごめん。」
「俺が何考えてるかなんて、考えなくていい。」
 不慣れに息を吸う祐介くん。光の方に向かって歩き始める。灰色になる私。
「それでも知りたい。」
 祐介くんは独り言みたいに話し始めた。
「リコと一緒に死ねないから死にたい。リコのいるところに行きたい。でももう存在しない。リコに食われたい。リコの存在を感じたまま死ねれば、それは幸せ。」
 祐介くんは三角座りのまま、自分の足の中に顔を埋めたまま言った。
 唾、いっぱい飛んだだろうな。祐介くんの体、ベトベトだ。マスクの中でくしゃみしちゃった時みたいに。
 可哀想な祐介くん。
「私は悲しいで。祐介くんがゾンビになると。」
「どうせすぐ忘れる。」
「すぐっていつ?」
「知らない。一年とか。」
「一年って長いで。そこまで生きてるかどうかも分からんし。」
「時間の長さは重要じゃない。」
「そうかな。うまく忘れられるもんと、そうじゃないもんがある。私は祐介くんのこと、多分結構忘れへん自信あるよ。」
「じゃあ尚更、死ねる。」
「でも、私はリコさんのことはあんま知らんから。それはごめん。」
 風が吹いた。冷たい風だった。祐介くんの瞳の中に小さな光が宿ったことを、私は見逃さなかった。
「リコさんのことまでは覚えられへんよ。」
「だから何。」
「祐介くんが覚えていることでしか、リコさんがリコさんだった証ってないんじゃない?ただの、有害なゾンビAになっちゃうで。」
「死んだら誰でもそうだよ。」
「いや、祐介くんが死んで、ゾンビになっても、私が覚えている限りそれは祐介くんだったゾンビやろ。だから多分私はそのゾンビのことを、祐介くんのことを、この世にまだ留めておけるねん。」
「留められたとして、何。」
「記憶の中でだけでも存在しているのと、誰の記憶の中にも存在しなくなることは、違うと思う。ねえ。歩かん?」
「歩く気分じゃない。」
「悲しいね。」
 私は無理やり祐介くんの手を掴み、上に持ち上げた。祐介くんは私にされるがままに立ち上がった。
「立ち上がるんやね。」
「君がそうするから。」
「拒めるのに。」
「その方がめんどくさそうだった。」
「正解。絶対起き上がるまで引っ張ってたわ。」
「君は変わってる。」
「祐介くんの方が。ね、歩こう。気分じゃない時ほどそうした方がいいと思うから。」
「分かった。」
 歩き始めると私はスキップしたくなったけど、祐介くんにスキップまで強要するのは恥ずかしくてやめた。
 太陽は夕日に変わろうとしていた。昼は透明な色をしているのに夕方に近づくと赤くなっていく理由が、私には分からない。祐介くんは知ってるかもしれない。聞きたかったけど、聞けなかった。祐介くんにとってはつまらないことだと思った。
「さっきの話。俺はまだ、生きていた方がいいってこと?」
「そう思うなら、生きていた方がいいかもやなって。」
「神様がいたらいいのに。全部決めてくれれば。」
 呟いた祐介くんの腹が鳴る。
 惨めだなぁ。祐介くんは空腹にも逆らえない。
 牛乳は美味しい。
 朝ご飯が好き。
 ガラスを通して光は緑色になる。
 祐介くんが食べるご飯を作る。
 ジジイへ納めなければいけないご飯は無視している。無視しても許されるためにジジイとセックスをしようとしたけどどうしても無理だったから、ゾンビがいる柵の向こう側に閉じ込めた。
 祐介くんは私に、食事を喉に通す作業は見せてくれないけど、生きてるしトイレにも行くから、私が離れてから食べてくれているんだと思ってる。
 祐介くん以外はどうでもいい。

「お前さ、あいつのこと好きなん?」
 同じクラスだった桐島。
 斜めの前に現れた、と思って、それがゲームの敵キャラが登場する時のテキストみたいだなと、一人で面白くなった。
「何?」
「いや、祐介のこと。やたら構うやん。好きなん?」
「うん。」
「うわ。まじか。めっちゃあっさり認めるやん。」
「は?」
「怒んなよ。」
「怒ってないけど。」
「いやいや。」
 桐島が私の隣に座る。仕事は休憩の時間だったから、逃げ場がない。
「飲む?」
 缶コーヒーを差し出される。甘いものだったから私は受け取る。後で祐介くんにあげよう。
「甘いもんは夜派。」
「コーヒーやで?眠れんくなるやろ。カフェイン入ってるし。」
「関係ない。甘みしか信じてない。」
「もっとあるやろ。」
「ない。」
 桐島は自分の分の缶コーヒーを開けて口に運ぶ。
「コーヒー、好きなん?」
「え、俺?」
「お前以外に誰がおるん。」
「いや、うん。コーヒーは好きやで。これも盗んできた。」
「盗むなよ。みんなのもんやろ。」
「どうせ誰も見てへんやろ。」
 桐島が吐き捨てる。
「そうなんや、じゃあさ、あれも盗んできてよ。ポテチ。私食べたい。」
 嘘。祐介くんにあげたいだけ。
「やれたらやっとくわ。」
「やらんやつやん。死ねよ。」
「お前な、こんな時に死ねとか気軽に言うなよ。」
「でもそう思ったんやから。ポテチ持ってくるか死ぬか選んで?」
「分かった。今度な。」
「あと栄養あるもんも頼むわ。元気出るやつ。」
「そんなんなくても元気やん。あ、あいつのため?」
「いやいや、ニキビできたんよ。ほら。見える?見やんでいいけど。こんな風になっちゃってさ、どんだけ好きでも人のことなんか構ってられんって。」
「俺やったらニキビにも構ってられんけどな。」
 祐介くんに喜んでもらうためなら、ペラペラ嘘が出てくる。自分でも驚く。人だって殺したし別に今更嘘なんかで驚いているなんて、とても不謹慎だ。ごめんなさい。
「恋はしてるから。」
「じゃあ間接的にはあいつのためやん。」
「恋するのって自分のためやで。そんなことも知らんの?」
「悪かったな。」
「別に悪いことじゃないけど、桐島は恋したことないん?」
「なんやねんそれ。」
 桐島は目を逸らした。
「お前ってそんなやつやったか?」
 桐島は言う。
「どんなやつ。」
「羞恥心とか弱めやったかって。」
「あー、ちんことかうんことかセックスとか言えるタイプやで。私は。それが何?だからビッチで、だからすぐにヤれそうって?男って自分でもヤれそうな女のことはとことん見下すもんな。桐島もそういうタイプ?」
「いや、そういうことじゃなくて、なんていうか、ムカついたらごめん。」
「ムカついてないと思う?」
「いや。」
「じゃあ、ムカついてたらって、そういう仮定で話すのダサいと思わん?思わんのやったら教えてあげてもいいけど。」
「すまん。ポテチ絶対盗んでくるから。」
「約束な。」
 私はピースをして、桐島を見た。桐島は私を見た。ピース。桐島はそう言った。桐島。祐介くんが好きになるかもしれないものをくれる人。いい人。ごめんなさい。

 雨が降ると不気味で憂鬱。
 ゾンビの呻き声は私に死を突きつける。
 祐介くんとはまたねって言える距離にいたいから傘なんて要らない。
 雨に打たれる理由なら私にもある。
「風邪引くで。」
「どうでもいい。」
「じゃあ、風邪引いちゃうな。」
 私たちは長い間雨に打たれた。前髪がまとまって、可愛くなくなってしまった。それでも私は祐介くんの隣にいたし、祐介くんは私をいないものとしてうずくまっていた。
 雨は止まない。水はどこかへ流れていく。
 私たちはこれからどうなっていくんだろう。
 春はとっくに溶けていて、私はそれに気付いているのに終わらせられない。
 祐介くん、私の傘になってくれないかな。王子様じゃないから無理だね。ならせめて、私が傘になりたい。なれないなら一緒に濡れたい。
 私の欲望が現実と祐介くんで濾過されていく。最後には何が残るんだろう。祐介くんを見つめる。見つめ返されない。
 愛してるの意味は知らないけどね。
 音楽、聴かせてよ。
 その日の夜、生存者が私たちの暮らす柵の内側に入ってきた。若い女一人と若い男四人、その中の一人、若い女は祐介くんの妹だった。
 凛花ちゃん、祐介くんの妹の名前は祐介くんの妹らしい名前をしていた。私の「多恵」なんて芋くさい泥くさい古くさい名前とは真反対のキラキラと白さを孕んでいて、私は少し吐き気がした。
 凛花ちゃんは漫画の中に出てくるお姫様の第一話みたいに汚れていて、綺麗だった。
 そりゃそうだ。祐介くんの妹なんだし。
 夜が怖くなった。夜は一人と孤独が結びつく。ベッドの中は冷たく、私は気がつくと祐介くんの元に向かっていた。
 祐介くんは凛花ちゃんの部屋で眠っていた。
 そうしていると二人は家族みたいだった。実際家族なんだけど。祐介くんは家族にでも優しくなさそうだから、少し意外だった。
 凛花ちゃんの手を、祐介くんの手が握りしめている。私はそれを見る。優しくなさそうなのに、私の予想なんか飛び越えて優しい祐介くんが好き。と思った。私には向けてくれないところも好きだ。祐介くんの優しさには制限がある。家族とリコさんだけ。私はその席に座れない。
「でも、私のあげた食料で生きてるし。祐介くんは。だから私はいいで。」
 私は呟く。祐介くんが知っておく必要なんて別にない。私がしたいからしていることだ。
 祐介くんが生きているという事実が、私と祐介くんを接続している。私と祐介くんはこの柵の中において、学校にいた頃なんかよりもよっぽど、人生同士が関係している。
 こんなもの、セックスよりセックスだろ。凛花ちゃんにはできないことを私はしてきた。
「そうして一生守られてろ。」
 凛花ちゃんと目が合った気がした。だからどうしたという話だ。
 私は舌を出す。
 眠れなくても、私は可愛い。そう思うことにした。

 私は私の持つ食料や水や衣服を凛花ちゃんにも分け与えた。
 凛花ちゃんは何も反応を示さなくて、祐介くんが代わりに受け取った。凛花ちゃんは祐介くんよりも悲壮感に満ちていて、隣に居られると、まるで祐介くんは生きているみたいだった。
 だけど祐介くんは労働をしない。労働をしない祐介くんと、世界(=人の集合体)は平等に同じ時間を過ごしている。
 つまり祐介くんはご飯を支給されなくなった。この柵の内側では働いてない男は生きている価値がないらしい。誰が決めたのか、クソ気持ち悪いジジイだ。
 私は祐介くんには生きていてほしいと願っているし思っているし、だから私の食べ物を分けている。ダイエットもできて、お得な気分。これで祐介くんが私に感謝して私を好きだと思ってくれたら幸せなんだけど。

 私に食料をよこすジジイが、私の身体に触れる回数が増えた。私は愛想笑いが上手くなった。
「ハハハ、こんなところでやめてくださいよ!」ハハハ。ハハハ。私は、私が祐介くんにしていることと、ジジイが私にしていることの区別がつかない。疲れた。
「痩せすぎじゃない?」
 桐島が私に声をかける。
「ありがと。」
「褒めてへんわ。ちゃんと食ってんのか。」
「食えてるよ。」
「嘘つけ。」
「嘘ちゃうわ。」
「じゃあなんでそっち向かってんねん。仕事場やぞ。」
「食器洗いは女でもできるから。」
「あれやってんの、働けやんくなった男ばっかやぞ。」
「だから私がやっちゃダメとかないやろ。てか付いてこんくていいんやけど。」
「俺もこっちに用あんねん。」
 桐島と並んで歩く。祐介くんには見られたくないと、祐介くんに、桐島と二人でいるところを見つかりたいが同時に存在している。
「食器洗い?」
 桐島は少し苦い顔をして、「そう。」と答えた。
「畑やらんの?」
「そやな。やらなあかんわ。まあ、それはお前もやろ。」
「うん。」
 桐島は私の隣を歩いた。私は自分が少し早足になっていることに気がついていたから、何も言わなかった。
「汚れ全然落ちてない。こんなんじゃ食いもん上げられへんぞ。」
 今日の担当のジジイは機嫌が悪かった。私は運が悪くてそいつに目をつけられた。
「仕事舐めてんのか〜。」
「…。」
「おい。」
「はい。」
 食器に泡立ったスポンジを擦る。こんな世の中で必要以上の清潔感求められても困るんですが。
「はぁ、もうほんっと全然ダメだな、お前。こういうのは笑った方がいいんやぞ。女は愛嬌。」
「すいません。」
「すいませんじゃねぇだろ。」
「あ、はい。」
「役立つことしろよ。せめて。」
 ジジイが私を食器から引き剥がそうとする。
 私は手を泡に包まれたまま、ジジイに肩を持たれ歩かされる。ここでも逃げられないのか。嫌だな。祐介くん以外の人に触られたくない。汚い。
「洗剤足したら、油汚れ結構取れるやろ。」
 桐島が現れた。桐島は私に言った。
「すいませんこいつ、あんまこういうの得意じゃなくて。俺が面倒見んとあかんのやけど。ほら。アレ、授かってるもんで、多めに見てやってください。」
「君が?」
 ジジイが言う。
「ああ、俺のんです。」
「はぁ?」
 私が言うと、桐島は私の言葉を遮るように、ベラベラと喋った。
「なんだよ。」
 ジジイが去る。
「お前、気ぃ付けろよ。」
「私は桐島のんじゃないけど。」
「いや、まあそやけど。」
「あと、お前って言うのやめて。私と桐島、そんな関係性じゃないし。」
「なんやねん。」
「なんもない。」
「なんもなくないやろ。」
「どっちでもいい。どっちでもいいから。」
 桐島が優しかったから悔しい。
「分かった。でも、ああいうのホイホイついていくなよ。あのままあいつの言うこと聞いてたら、やることやられてたぞ。」
「それでも食い物貰えるんやったらいいし。」
「そやな。でも、あんなジジイの子供でもできたら、祐介悲しむやろ。」
「祐介くんを盾に使うなよ。」
 恋と、別の恋とを混ぜ合わせないでほしい。
 祐介くん、お腹空いてるかな。
「心配してんねん。」
 桐島が言う。
 私はなんて返すべきか、返したいのか分からなくて黙った。
「なんか言えや。」
「あ、ごめん。」
 桐島、私のこと好きなのかな。困るなぁ。少し嬉しくて、ちゃんと気持ち悪い。
「私は祐介くんが好き。」
 私が言う。
「知ってるわ。」
 桐島が言う。
「私と桐島の間には、何もないから言えてしまう。桐島にとってはそうでもない?」
 桐島は少し笑う。
「残酷やなぁ。」
 可愛いやつだと思うけど、心底興味が湧かない。恋とその他の事象の境界線を感じられて良かった。
「でも、俺はお前のこと応援してるで。」
「いいやつやな。」
「好きになってもいいけど。」
「絶対ならんけど。」
「分からんやろ。絶対って、この世には二つしかないんやで。絶対零度と、絶対なんてもんは絶対ないって。この二つだけ。」
「じゃあ三つ目やな。世界の法則変えて申し訳ない。」
「なんやねんそれ。」
 私は桐島と一緒に皿を洗った。
「まあどうでもよくて、お前にもチャンスあると思うで。」
「なんのこと。」
「祐介。俺、学校にいた頃そこそこ喋ってたんやけどな。体育でペアになる時とか余るから、あいつ。そん時俺誘ってたねん。そんでリコと付き合ってるん聞いてな。あいつ、あんま好きじゃなかったで。リコのこと。告白されたからとりあえず付き合ったって。やからそんな、結婚考えてたとかそんな関係ちゃうと思う。たかだか四ヶ月付き合ってやることやって、そんで価値観合わんくてそんで別れましょって感じのカップルやった。だから、いけるって。」
「そっか。」
死んで美化されたやつに勝てるわけないな。恋愛はどうせ全部比較だし、祐介くんの中でリコちゃんは最強で私はそれ以外の人間。私も祐介くんと、桐島や初めて好きになった塾の先生を比較している。その上で祐介くんが好きなことを選択している。
「応援してる。」
「何回も言うやん。」
「応援してるって言いたかっただけやから。」
「うるさい。」
「おう。」
 皿洗いを終えると食料を受け取った。桐島は私に少し分けてくれたので、それを祐介くんと凛花ちゃんに分けた。祐介くんは「ありがとう。」と小さく言った。私はその言葉と祐介くんの綺麗な手を思い出して、その夜オナニーをした。
 少しもささくれ立ってない指の先。日焼けなんてしていない肌。手の内側の控えめな黒子。私はそれだけで生きていける気がした。大袈裟だけど、本当のことだ。

 祐介くんが息を荒げて私の部屋に入ってきたから、私はそれを夢だと思ってしまい祐介くんにキスをした。しかもベロを入れるキスだ。祐介くんは数秒、私の舌を躊躇った後に重ねてくれた。
「ちょっと助けてほしい。」
 私のキスから逃れた祐介くんが、私の目を見て言った。
「凛花が、ご飯食べなくて、食べても吐いて。どうしたらいいか分からなくて。」
「え。」
「お願い。」
「じゃあ、どこ。」
 歩いていると足元から現実が追いついてきて、キスしたことが恥ずかしくなったし嬉しくなった。
 祐介くんの背中が見える。伸びた襟足が好き。口の中に入れたくなる。私は大人だからそんなことしないけど。
 祐介くんの部屋に入ると、凛花ちゃんは怯えた目をした。まあそりゃ、兄が知らん女を連れてきたら怯えるよな。私は「急にごめん。」と言って立ち去ろうとしたら、祐介くんが私の腕を触った。
「俺一人でも、ああいう様子。だから。」
 祐介くんに触られたところがジンと熱くなった。なんだか頭がボーッとしている。祐介くんの話している内容があんまり入ってこない。
「ごめん。人、呼んだけど悪い人じゃないから。いつもご飯とかくれる、親切なんだ。」
「親切。」
 祐介くんが私のことをそう言った。悪い人じゃないとも言った。私、かなり悪い人だけどなぁ。だけど、私が思う私より祐介くんが思う私の方が大事だから、それでいい。
 祐介くんが凛花ちゃんの隣に座る。凛花ちゃんは何も言わずにうずくまっていた。そうしていると、祐介くんにとても似ている。
 祐介くんは困ったように凛花ちゃんの肩に手を置く。凛花ちゃんはそれを拒絶した。まるでジリジリに熱された鉄を当てられたみたいに、反射的に。
 目の前の景色が私の認識にはうまく入ってこなかった。祐介くんを拒絶する人がいることを信じられなかったし、ウザいと思った。祐介くんの制限ある優しさを捨てるなんて。
 家族ってそういうものなのかな。拒絶も含めて愛情で、受け止めてくれる安心感があるから暴力性が露呈するのかもしれない。私には兄も弟も、姉も妹もいないから、想像できなかった。
「ずっとこういう感じで。」
 祐介くんが眉を八の字にして私を見た。犬みたいで可愛くて撫でたくなったけど、いきなりそんなことすると祐介くんは多分もっと困るから我慢した。私は恋のために我慢するのが得意だった。
「助けてっていうのもおかしいと思うんだけど、どうしたらいいか分からなくて、相談できる人も、他にいなくて。」
「いいで。なんでもする。祐介くんの頼みやったら。私。」
「ごめん。」
「謝らんくていい。祐介くんは、本当に。」
「うん。」
 私は凛花ちゃんの方に向けて歩いた。そうは言っても何をすれば?という感じである。私は祐介くんから何を託されたのかがイマイチ分かっていなかったので、祐介くんがしたように凛花ちゃんの隣に座った。凛花ちゃんは変わらず顔を埋めていたけど、近くに寄ると凛花ちゃんが泣いているのが分かった。そういえば肩を震わせていた気がする。祐介くんのことばかり見ていたから、凛花ちゃんの行動を意味として捉えていなかった。
 とりあえず歌でも歌うか。
 私は私の好きなスピッツのスパイダーを口ずさんだ。可愛い君が好きなもの、ちょっと老いぼれてるピアノ。寂しい僕は地下室の隅っこでうずくまるスパイダー。
 だからもっと遠くまで君を奪って逃げる。ラララ千の夜を飛び越えて。
 久しぶりに歌ったけど案外覚えているもんだ。いつか忘れるんだろうな。悲しい。記憶は都合よく、生きていくことにさほど必要ないものを忘れていく。だからこそ歌は忘れないでいたいけど。
「スピッツ、知ってる?」
 凛花ちゃんに聞くと凛花ちゃんはこくんと、小さく(震えているのと差がわからないほど小さく)頷いた。
「スピッツってさ、セックスと死についてしか歌ってないんやって。なんかで読んだ。ほんまかどうかも知らんけど。私、それでなんか、めちゃくちゃ惨めになるんよな。セックスと死でしか感動できない生き物なんや。私って。でも、みんながその惨めさを持ってるって、それを共有できてるって思えるから、スピッツが好きなんよ。」
「うん。」
 凛花ちゃんが頷いた。
「ハチミツってアルバム、愛のことばって曲でな、限りある未来を、なんやっけな。抜け出そうと誘った君の目に映る海、みたいな歌詞から始まるんやけど、なんか、私って存在が溶ける感じがするねん。エヴァの人類補完計画みたいな。あの感覚。死ぬのってあんなんやろなって思うんよ。肉体が消えちゃって、魂だけになったらさ、魂同士で結ばれる、みたいな。」
「うん。」
「それはとても怖いこと。私が私じゃなくなってしまう。」
「うん。」
「って、誰かの受け売りなんやけどね。まあ、なんか、学校とか無くなっても、恋とか消えても、セックスと死だけは私らを見てるわけやし、キモいからさ。食べて忘れよ。」
 自分でも驚くほど薄っぺらな言葉が浮かび上がっては、私という肉体を通して凛花ちゃんに放たれた。祐介くんの前で、祐介くんのためになら私、本当になんでもできてしまうんだと、改めて思った。
「ハチミツ、俺も好き。」
 祐介くんが言った。
 知ってるよ。ノートに書いてたし、スピッツの歌詞の好きなフレーズでびっしり埋めていたこと。
「え、ほんまに?」
「うん。」
「じゃあさ、後で話、しよ。なんか、音楽も聴けやんくなって悲しいし。」
 私がそう言うと祐介くんは何かを考え込むようにじっとしていた。
「話さなくてもいい。歌うよ、ハチミツ、全部覚えてる。ギターはないけど。」
 祐介くんは本当にハチミツを、涙がキラリ☆を歌い始めた。祐介くんの声は、私の心の隙間に入り込んで、透明な水みたいに柔らかくて細くて、自然だった。
 朝にも聴きたいと思った。それで起きて、シャワーを浴びながらコーヒーを飲めたら、それが幸せだろう。
 夜にも聴きたいと思った。一人であることをありありと見せつけてくる夜の暗闇も、この歌声と一緒なら寂しくないはず。歌は私を私たちという共同体にしてくれる。私はそれらを聴きながら、凛花ちゃんの隣にいた。そのうち夕日が私たちを赤く染めて、お腹が空いた。凛花ちゃんは眠りについた。
「仕事、紹介してよ。」
 ハチミツを歌い切った祐介くんが言った。
「めんどくさー。」
 私はわざとおどけてみせた。
「そうだよな。ごめん。」
 下を見る祐介くん。そんなところには何もないよ。
 夜に、暗闇で、祐介くんには私のことを(私を通してどのように労働に、食事にありつけるかを)考えて欲しくて、何も言わずに帰った。
 祐介くんは困っていたような顔をしたから、私はにやける顔を抑えることが少し難しかった。視力が良いおかげで祐介くんの顔を鮮明に見ることができた。遺伝に特大の感謝だ。もうゾンビになってるかもしれないお母さんとお父さん。ありがとう。おかげで私は夜にスキップができています。
 次の日もその次の日も私は凛花ちゃんの側にいて、手を握ったり簡単な会話(今日は少し涼しいとか、施設内のムカつくやつの話とか、意味のない会話)をしたり。そうしているうちに凛花ちゃんは私の作ったご飯を食べてくれるようになった。
「美味しい?」
「今まで食べたものの中で一番。」
「ありがとう。」
「本当だよ。」
「空腹が一番のスパイスやもんなぁ。」
「そういうんじゃなくて。ちゃんと。多恵ちゃん、ありがとう。」
「えぇ〜〜。」
「何それ。」
「分からん。」
「変なの。」
「みんな変だよ。」
「そうだよね。」
 祐介くんは私の紹介で、桐島と一緒に畑仕事をするようになった。だから昼間は、祐介くんは部屋にいない。
 その間だけ、凛花ちゃんは可愛い女の子だった。笑って食べて寝る、そういう人間だった。
 祐介くんが部屋に帰ってくると凛花ちゃんは私の手を強く握り何も喋れなくなる。何も食べられなくなる。その時は人間でなくなる。ゾンビみたいになる。不謹慎だけど、何もできない凛花ちゃんは私よりゾンビとの方が、境目がないような気がした。
 祐介くんは、何もできない人が好き。何もされない人が好き。
「祐介くんって、いつから音楽やってるの。」
 祐介くんがいなくなって、私は凛花ちゃんに聞く。
「知らない。」
 凛花ちゃんが答える。
「そっか。」
 外ではびゅうびゅうと、強い風が吹いていた。
 だからか、私たちはベッドで横になっても眠れずにいた。
「おやすみ。」
 眠れない夜は眠ろうとするしかなかった。
 どんな時間を過ごしても平等に朝は来る。起きて、最初に考えるのは祐介くんのことだ。私より先に起きているか、ちゃんとご飯を食べたか。歌を歌ったか。私のことを少しでも考えていたか。
 その次に、太陽が心臓を動かす。当たり前に、祐介くんは太陽より眩しい。
 ベッドに凛花ちゃんはいなかった。よくあることだ。きっとトイレで吐いてる。凛花ちゃんはよく吐く。食べても食べていなくても、すぐに吐く。「大丈夫?」声に出してみようと思ったけど、めんどくさくなったからやめた。大丈夫じゃないもんな。確認作業って会話じゃないからいらない。
 私はもう一度眠りについた。そのうち凛花ちゃんは私の隣に潜ってきた。鬱陶しい。なぜか、桐島の匂いがした。
「小さい命やね。」
「多恵ちゃんもそうだよ。」
「そうかな。そっか。」
「もう一回寝ようよ。」
「いつまで?」
「夜が来るまで。」
「もっと早く起きんと。みんな見てるで。私たちのこと。」
「だったらなんとかしてよ。」
 凛花ちゃんは泣いて、私は私の小さな胸で凛花ちゃんを包み込んで、眠らせた。
 外に出ると、私は祐介くんを探していた。祐介くんは、私に凛花ちゃんの世話を頼んでいるから、私が凛花ちゃんを置いて祐介くんに会おうとすることを望んでいなかった。私のことなんて望んでいなかった。
 物置に祐介くんはいなかった。私の部屋に祐介くんはいなかった。浴槽に祐介くんはいなかった。灰色の倉庫に祐介くんはいなかった。畑に祐介くんはいた。
 日に焼けた祐介くんは、祐介くんじゃないみたいだった。私は目眩がして桐島のいる畑に行った。
「ねえ桐島。来て。」
「あ?あぁ、いいけど。」
 桐島は仕事の手を止めてくれた。私の部屋に来てくれた。
「土塗れで汚いな。」
「仕事の勲章やで。俺は嫌いじゃない。」
「服従の証明でもあるやろ。ダサいわ。土落として。入って。」
「視点次第や。それでいいと思うで。俺も。」
 桐島はドアの外側で自分の服を叩く。土は桐島と重力には逆らえずに落ちていく。舞う、細かい砂もいたが、そいつもすぐに重力に負ける。
「早く入って。」
「はいはい。言う通りにしますよ。」
「ねぇ桐島。好きな人のリコーダーとか、舐めたことある?小学生の時でも。」
「めっちゃ急やな。とりあえず座っていい?」
「いいで。許可なんか取らんでも。」
 桐島が私より先に座る。私も座る。桐島と私しかいない、私の部屋。
「うん。リコーダー?リコーダーはないけど。自転車のハンドルに唾つけたことやったらあるで。いやこれ秘密な?友達が塾行ってて、俺と遊べるんその時間までやって。だから塾の前まで俺も一緒に行って。で、その塾に好きな子通ってたねん。それで。塾の、駐輪場みたいなとこ行って、ハンドルと、あとサドルにも塗ったかな。その子は先に塾の中おったから、外には俺しかおらんくて。」
「完全犯罪や。」
「そうやな。」
「でもさ。自転車はいっぱい置かれてたんやろ?その、桐島が好きやった子の自転車以外にも。なんでその子のって分かったん?」
「それは、まあ、なんとなくやな。俺の好きな子やったら、こんな自転車乗るかなって想像できた。」
「きも。」
「ガキやったからな。」
「それが初恋?」
「どうやろ。恋って呼んでいいかも分からんし、それと似たような感情やったらその前にもある。なんていうか、恋とはまた別の、興味。自分とは違う人間への。」
「恋って呼んでいいと思うよ。」
 桐島は私を見ていた。
「興味が恋やと思う。そんでもって、自分以外に興味を持てるっていいことよな。」
「どうやろ。俺はその子に告白しようと思って手紙書いて机の中に入れたら、次の日の朝に晒されてたで。俺の名前で呼び出した変態がいるって雰囲気になってたけど、どう見ても俺の字やし。」
「それで嬉しかったんや。」
「あほか。嬉しいわけないやろ。」
「そっか。」
 よく覚えているな。最低な経験なのに。私は桐島のことを、ほとんど知らない。
「てか、こんな話するために呼んだん?」
「そうやで。」
「俺仕事中やぞ。」
「知ってる。けど来るやろ?こんな話するためでも。」
「まあ、来たな。」
「祐介くんさ、最近どう?」
「どうって。」
「変わったよな。」
「変わったな。よう働いてるで。真面目に、文句も言わんと。ジジイの寒いノリにも付き合ってるで。愛想笑いうまいんやな。あいつ。意外やったわ。」
「青空が似合う?」
「少なくとも夜とか曇り空よりは。」
「私とは違うな。」
「そりゃ違うやろ。別人なんやし。」
 私はなんだか涙が出てきた。なぜかは分からなかった。
「大丈夫か?」とか言って、桐島が私の肩を触った。一瞬躊躇ったのが呼吸で分かった。そういう桐島の優しさとか、めちゃくちゃにしたい。
「ねえ桐島。キスしてあげよか?」
「はぁ?」
「パンツ見せてあげよか?」
「お前何言ってんの?」
「私のこと好きなんやろ?キスしたくないん?」
「なんか、どうしたん?」
「うるさいな。したいん?したくないん?」
「そんなん分からんわ。」
「ねえ。私がパンツ見せてあげるからさ。オナニーしてよ。私の前でさ。」
「なんでやねん。せんわ。」
「お願い。桐島。」
「いやいや、おかしいやろ。」
「お願い。」
 そして私はキスをした。男の子とする、初めてのキスだった。私は目を瞑って、祐介くんの顔を思い浮かべた。
「お願い。」
 唇が離れたらまたくっつけた。舌を絡めさせたら、桐島もそれに応えた。
 変わらないでほしい。変わってほしい。私を好きになってほしい。私を好きになる祐介くんなんか、私は好きにならない。
 一人になりたかった。孤独にはなりたくなかった。世界に祐介くんが存在するせいだ。私には祐介くんが掴めない。私の世界は、こんなにも祐介くんを中心に回っている。
 死にたい気持ちが私を王様にさせる。私がスカートを捲ると、桐島は自分のズボンの手を突っ込んだ。ズボンの中で手をゴソゴソと動かした。
「下脱がな意味ないやろ。」
 桐島は私の言う通りにする。そしてオナニーをする。どんどん手を動かす速度が上がっていく。息が荒くなっていく。私はそれが嬉しかった。
「触って。」
「嫌。汚いから。」
「お願い。」
「嫌やって。」
「じゃあ舐めて。」
「もっと嫌やけど。」
 私は机の上に座って、足を組んで、桐島にパンツを見せた。
 桐島は息を荒くしたまま。
「上も見せて。」
 桐島が言った。
「男の子はおっぱい好きやもんな。でも私、大きくないからあんま見せたくない。」
「大きくなくても可愛いから。」
「でも、おっぱい見たらすぐイっちゃうんじゃない?」
「うん。だから。」
「仕方ないなぁ。」
 私は上に着ていた服を脱いで、ブラジャーとスカートだけの姿になった。恥ずかしかったから胸を隠したかったけど、恥ずかしがってると思われたくなかったから桐島を睨んだ。
「何か言ってよ。」
「可愛い。」
 桐島が言う。「可愛い。」
「可愛い?」
「うん。」
「ほんまに?」
「可愛い。」
「リコちゃんより?」
「うん。」
「リコちゃんは死んでるのに?」
「うん。」
「なんで?」
「多恵は可愛いから。」
「どこが。」
「魂の形が。」
「可愛いって見た目だけでしょ。」
「違う。」
「やったらなんでそんなに興奮してんの?見た目やん。結局。」
「ごめん。」
「祐介くんは私より、死んだ人の方が可愛いと思ってる。」
「今は、祐介の話すんなよ。」
 桐島は息を荒くしながら、必死に話す。可愛いと思った。これが母性かとも。私の内側に潜むそれがとても気持ち悪かった。
「何それ。」
「多恵は生きてる。多恵の方が好き。」
「桐島がそう思ってるだけで、祐介くんは違う。」
「多恵の中の祐介や。それは。死んだやつの方が可愛いって思ってるって決めつけてる。それに俺は、俺の考えてることしか分からん。でも、多恵のこと、分かりたいと思う。」
「どうせなんも分からんくせに。」
「分かりたい心はある。肉体がないと心は存在できない。存在してても認識されないから、存在してないのと同じ。」
「何言ってるか分からん」
「そうやって逃げんなよ。多恵の中の俺はちゃんと生きてる?」
「生きてるやろ。」
「そうか。」
 桐島が弱々しく頷く。
 人形みたいに私の言うことだけ聞いてればいいのに。
「ねぇ。抱きしめてほしい?」
「もちろん。」
「嫌やけど。」
 桐島は乾いた笑いを私に向けた。空気が冷たかった。肉体の匂いがした。
 そのまま5分が経った。もしかするともっと時間は経っているかもしれない。桐島はずっと手を擦っている。可哀想になってきたから、少し触ってあげた。熱くて硬くて、怖かった。
 桐島と手を重ねて同じ動きをした。桐島はドキドキすると思う。だって好きな人と一緒に手を重ねて、自分の一番弱いところを触り合っているんだ。私が祐介くんとそうなれるなら、私はきっと心臓の速度に耐えられなくなって、寿命が縮んでしまう。
 なのに、桐島のそれは、硬さを失っていった。
「ごめん。虚しいわ。」
「…。」
「ごめん。」
 私はまとまってない言葉を、いっぱいぶつけた。
 桐島は謝っていた。
「キス、初めてやったのに。最低。」
 私はひとりぼっち。誰も私のことを愛してくれてはいない。それがなぜなのか。私には分からない。
「多恵は、学校とか家のこととか、めちゃくちゃになっても恋してるから羨ましかった。近づけると思ってもうた。俺も恋ができるって。ごめん。おかしいな。おかしいのは、俺の方なんかな。」
「そんなん聞かんといてよ。私のこと、好きじゃないんやな。なんかもういいわ。全部最低。」
 家に帰ると凛花ちゃんがご飯を作っていた。「おかえり。」と言われたから「ただいま。」と言った。
 私は凛花ちゃんをしばらく見つめていた。凛花ちゃんは不思議そうな顔をして、でも嬉しそうだった。愛されてる女の子は無敵。私はまた泣きたくなったけど、泣くと余計に惨めだし、惨めだということを世の中に見せつけてしまって事実になるから我慢した。やっぱり私は、我慢が得意だった。

 私たちはきっと家族みたいだった。
 私たちの中で最も可哀想な凛花ちゃんがいて、見守る私がいて、働くことで守る祐介くんがいる。
 それだけで良くて、それが全てだった。
 これが恋じゃなかったら、この世界に恋なんて存在しない。
 帰り道にゴキブリを踏んだ。靴が汚れた。
 私たちは隔離施設から追い出されることに決まった。


 雨が降るのにも理由があるように、夜と朝が分かれているのにも意味があるように、私たちがゾンビのいるところに向かって、歩くことにも意味がある。
「学校で、帰り道とかも一緒に歩きたかったな。」
 私が言った。
「帰る時間が違うじゃん。俺帰宅部だし。」
「部活なんか、サボれるよ。」
「そんなこと続けたら学校で居場所無くなる。」
「祐介くんの近くに居場所があればそれだけでいい。そこが一番温かい。」
「俺は多分、近くにいる人を大切にできない。」
「リコさんが死んだみたいに?」
 私は水たまりを踏んだ。泥色の水は撥ねて、祐介くんの足を汚した。
「うん。そうだね。自分の命と引き換えでも、リコを助けることができなかった。」
「それは二人で死ぬより勇気のいることやと思う。」
 私と祐介くんは歩く。凛花ちゃんはいない。
「リコさんになりたかった。」
「なれないよ。」
「だとしても、祐介くんに愛されたかった。」
「愛って何?」
「一人でいても寂しくないこと。暗闇でも存在を感じられること。一緒に海を見てくれること。」
「神様かよ。」
「そうだよ。」
「そういう関係を祐介くんと持ちたかった。」
「君はいつも願望ばかり口にして行動しない。言えば叶うなんて嘘だよ。傷つくことを覚悟の上で、何かしないと。それは、俺もそうなんだけど。じゃないと全部悪い方向に、勝手に運ばれていく。俺たちの無意識の生存は誰かの意識で成り立っている。どこから来てどこへ行くのか、ずっと考えていたけど、最初から決まってた。俺たちみたいな弱い奴らは、どこにも行けない。目が覚めない。優しい場所で、優しい死に包まれる。やっぱり人生に意味なんてなかった。」
「これから先どうなるんだろうね。死に近づいてるの自覚してる?」
「死に近づいてない瞬間なんてないよ。いつだって俺たちは細胞を消費している。だから大丈夫。常に自覚している。」
「嘘やで。そんなわけない。そんなんじゃ生きていけない。」
「そうかもしれない。多分、リコといた時は忘れられていた。」
「私が、死を忘れさせてくれる存在になれなくてごめん。」
「どうせ死んだら全部消えるから、もういいよ。俺たちの虚しさも全部。消える。」
私たちは指示されたのと同じように、ただ真っ直ぐ歩く。もっと行くと施設の外側に出られるらしい。
「凛花ちゃんを残して?」
「そうなってしまうね。」
「ねえ。私たち家族みたいだった。」
「俺はそんな風には思えなかったけど。」
「祐介くん。祐介くんのことは多分もう無理やけど、凛花ちゃんなら、私が守ってあげる。私だったらできる。」
「どうして?」
「私、あのジジイ達に抱かれる。それで生きていく。祐介くんは働かなかった時間が多いし嫌われてるからもう無理やと思う。でも、私だけでもまた戻してもらえるかもしれない。あいつらの子孫を残す役割として。あの中にいていい理由ができる。でも、それだけやと死んだ方がマシやからさ。祐介くんと一緒やったら死ぬのも怖くないし。だから、祐介くん、私としてよ。祐介くんの子供が産みたい。その後なら何されても耐えられる。」
「なんて言ったらいいか分からない。」
「歩くの、止めてよ。」
「止められないよ。」
「行かないでよ。」
「君はそこまでして俺としたいの?」
「うん。そうだけど、それだけじゃない。」
 祐介くんは歩くペースを少し緩めた。振り返ると、遠くの煙突から煙が上がっていた。真っ赤な空に向かって緩やかに、吸い込まれていった。
「祐介くんのこと、永遠に覚えておきたい。でも多分、祐介くんが私のこと微塵も興味なくて何もしてくれなかったら、覚えてられないと思う。独りよがりって辛すぎるから。」
「俺が何かしたところで、独りよがりなのは変わらないんじゃないかな。勘違いだよ。両思いなんて。」
「なんでそう思うの?」
「リコが俺を残して死んだから。リコは最後の最後まで痛がるばかりで俺を見ていなかった。俺たちは付き合っていたしセックスもしていたし、およそ愛し合ってると言っていいと思っていたけど、死の際でリコは、俺のことなんてどうでもよくなったんだ。愛とか全部勘違いだよ。」
「勘違いできればいい。リコさんは幸せだったと思う。きっと。死んでもこんなに覚えてもらってる。それが勘違いでも愛でも、名前はなんでもいいやろ。」
 祐介くんは永遠そのものに恋をしている。だって祐介くんとリコさんの間には最初から愛なんて発生していなかった。後付けの勘違いは祐介くんも同じだ。
 私は祐介くんの永遠にはなれない。なれたとしてもそれは一瞬、想像力が私を永遠に仕立て上げただけで、そんなものは時間の方が速く、祐介くんは私の前を通り過ぎていく。
 ゾンビになったリコさんが、私たちを見ていた。
「ざまあみろ。」私はリコさんに向けてそう呟いた。
 身体を重ねても、私がどんなに祐介くんの名前を呼んでも、祐介くんは私の名前なんて、一回も呼んでくれないんだもんね。

君が好きさ。
愛してるの意味は分からないけどね。

 頭の中で、聴いたことのない祐介くんの詩が音楽になった。
 優しい歌声。この歌をいつか聴くために、私は産まれてくる子供の名前を「祐介」にしようと決めた。

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