見出し画像

夜の彼岸


「水族館、行きたかったね」
「うん」
「そのまま中華街行くつもりだったんだ」
「そっか」
「『goat letters』の新譜も一緒に聞きたかった」
「そうだね」
「ライブも————」
「じゃあなんでっ、今こんなことになってるの!」
「仕方なかったんだ。
 ついてなかったとしか————。
 それは、ユキも知ってるだろ」

————————————

頬を伝う涙で、私は目を覚ます。
 またあの夢を見ていた。
 カーテンの裏からタッタッタッというバイクの排気音が聞こえる。
 時計の針はちょうど5時をまわったところだった。
 もう一度寝ようかと思ったけど夢の続きになりそうな気がして渋々体を起した。
 袖で涙を拭いてしばらくぼうっとする。
 スマホを覗いてみても、「おはよう」の通知は画面にはなかった。
 それは早すぎる朝のせいではなくて、彼はもうその言葉をくれないのだと私は知っている。
 この夢は続いている。
 先の読めない連続ドラマみたいにもう少しというところで途切れて、けれど着実にストーリーは終わりへと進んでいく。
 彼とは結局付き合わなかったので、この夢は私の願望の補完だと思っていた。
 ところが夢の中の彼は、私の思うよりどこかだらしなく尊大で、私の理想とは違っていた。
 夢ならもっと美しく、都合の良い夢であってほしかった。
 夢の中の私は、そしてなぜかいつも怒っていた。

始まる前に終わってしまった恋愛が、どこか腑に落ちないまま日々を過ごし、消えないわだかまりを胸に宿して、何事もないように今日もバイト先に顔を出す。
 学校は休んでもバイトはしないと生活ができない。
 私の思い描いていたキャンパスライフは、もっと華やかなはずだった。勉強もサークルも楽しんで、大勢の友達に囲まれて、その中からきっと特別な人と出会う。そのうち同棲して、一緒に家具を選び、観葉植物を育てたりする。同じアパートから登校して、たまにケンカしたりセックスしたりして束の間のモラトリアムを楽しむはずだった。
 ところが現実の私は東京の高い家賃を払うため、バイトを掛け持ちして大学も休みがち。いい感じになったユウとも付き合う前に終わってしまった。
 悲しむ余裕もなく、私は客の飲み残したドリンクと皿を片し、テーブルを整える日々を過ごしている。

「ユキさん、大丈夫ですか?」
 顔を上げると、岡くんがいた。
 岡くんとは休憩時間がよく被る。
「なんで?大丈夫だよ」
「いや、どう見ても元気ないですよ」
 岡くんは同じファミレスで働いている一つ下の後輩で、甲子園にも出場したという元高校球児の好青年だ。短く刈り込んだ黒髪と、大きくて力のある瞳がはつらつとしていて傷心の私には少し眩しかった。
 バイト掛け持ちがしんどくなったと、嘘にならない程度の言い訳をして誤魔化した。
「そうなんですね。ちょっと休んだ方がいいんじゃないですか?」
「ううん、平気。この店人手不足だし、店長にはちょっと言いにくいから」
「そしたらシフト変わりましょうか?俺もう少し入れそうだし、店長にも相談してきます」
 いや————、と止める間もなく岡くんは休憩室を出て行った。
 岡くんは誰にでも優しいし、まっすぐだ。
 恋愛絡みで腑抜けた私を気遣われるのは気が引けたけれど、彼のその優しさが今はありがたく、頼もしかった。

————2————

「でもさ、バイトで知り合ってっていうのもなんていうかちょっとダサいよな、俺たち」
「なんで?」
「んー、なんていうか普通っていうか」
「普通じゃダメなの?」
「もうちょっと別の形で出会いたかった」
「ユウのいう別の形って何?」
「いや特別これっていうのはないけどさ、困ってるところを助けたりとか?」
「出会いに運命を求める方がダサくない?」
「ユキってさ、いつもそうやって冷めててさ、本当は俺のことだって別に好きじゃなかったんじゃない?」
「そっちこそどうなの?別に私ユウから好きって言われたわけでもないし」
「そういうのってさ、お互いが感じとって少しずつ距離を縮めていくものじゃないの?」
「そっちが先に聞いてきたんだよね?」

話がこじれてきたところで目が覚めると胸糞が悪い。ユウは話に行き詰まると逃げるように夢から消えた。
 私の夢だから、実際ユウを消したのは私だろうか————。
 枕元のスマホに手を伸ばす。
 通知のない待ち受けを見る癖がなおらない。

ユウとはライブのイベントスタッフのバイトで知り合った。半年先に入っていたユウは先輩風を吹かしながらチケットのもぎり方とか、会場ごとの案内の違いや接客について教えてくれた。
 会うたびに次いつ入るのか聞いてきたり、仕事を楽するコツを教えるから今度食事でも行こうか、なんてわかりやすくアプローチしてくるのが無邪気でかえって好感が持てた。
 連絡先を交換すると毎朝決まって「おはよう」のメッセージが届いた。毎日もらってもなんて返したからいいかわからないと言うと、送りたいだけだから返さなくていいと笑った。
 何も返さないのも悪くて、最初はまめに返信していたけれど、特に会話が続かず、本当に気にしていないようだと知って、そのまま放置するようになった。
 毎日欠かさずあったものは、多少煩わしいと思ってたものでも、無くなると心の重心が乱れて不安になる。だから時々、指先でユウとの会話の履歴を遡って、ぼやけつつあるユウの輪郭をなぞっている。

「それ、カッコいいですね」
 岡くんは私の水色のトートバッグにぶら下げたキーホルダーをまじまじと見ている。
 アルバイトの男女比をなるべく固定するために男女でシフトを交換したりするのは避けたいと、先日の岡くんの申し出は店長に断られたそうだ。勢いこんで交渉に行った手前、少しバツが悪そうな後輩は私の機嫌をとるように笑いかけた。
「これ、ギターのピックですよね。どこで売ってるんですか?」
「売ってないよ、ピックに穴開けてボールチェーンに付けただけ」
「へぇ、オシャレ。器用すね」
 岡くんの目は屈託がなく、それが男からもらったものだと言いそびれた。
 『goat letters』というマイナーなロックバンドは私とユウの唯一共通の趣味だった。それがなかったら私はユウにそれほど魅力を感じていなかったかもしれない。その「マイナーな」という点で私たちはお互いの一部を許し合えた気がしたのだ。
 ユウは私をそのライブに誘ったが今はまだ生活に余裕がなくて断った。じゃあ一緒にバイトで入ろうということになり、私たちはgoat lettersのライブにイベントスタッフとして参加した。
 バイト終わりにバックヤードで私を見つけたユウは興奮気味に近づいてくると私の手を取って外へ連れ出した。
 初めて繋いだユウの手はとても熱くて、じっとりと汗ばんでいた。
「ステージを掃除してたらこれ見つけた」
 ユウはポケットからピックを出して私に見せた。黒くマットな質感のピックには手紙をくわえたヤギのマークが刻まれていた。
 さっきの演奏で使ってたやつだよと言って、まるでプロポーズするみたいにそれを私の手に握らせた。
 いいの?と聞くと、彼は満面の笑みで頷いた。
「いつか一緒に、今度は客として行こうな」

——————3——————

「あのバイクで後ろに乗ってた女の人、誰?」
「あれは前の女」
「なんで前の彼女が乗ってるわけ?」
「あーあれは終電逃して帰れないって電話で泣きつかれてさ、しかたなく。それにさ、俺たちまだ付き合ってなかっただろ?それくらい別に悪くなくない?」
「そうだけど————。でも前にユウはまだ誰とも付き合ったことないって言ってたじゃん」
「あー、彼女はノーカンで。ほら、なんていうかまだシないまま別れたからさ」
「シてないって。したら彼女なの?そんなふうに思ってたの?」
「いやいや、今のは違う。ごめん。ちゃんと付き合ったかどうか曖昧だったんだよ。」
「私みたいに?」
「ユキとは付き合うつもりだったよ。ユキだってそのつもりだっただろ?」
「今の話を聞いてたら分かんなかった」
「いや死んでなかったらその辺ちゃんとケジメをつけたよ。俺だって死にたくなかった。童貞のまま死ぬなんてサイテーだろ?」
「シたかった?」
「当たり前だろ。ずっとシたいって思ってたよ。ほら、渋谷行った時とかあったろ?あのままホテル行きたかった。言えなかったけど」
「サイテーだ」
「いやほら、それとなくサイン出してたじゃん。気づいてたでしょ」
「まあね、でもまだ告白もされてなかったし」
「だよなぁ————。
 でも俺はユキのこと、好きだったよ」
「そんなのもう遅い。死んじゃったら意味ないじゃん!」
「死んじゃったら意味ないのかな」
「意味ないよ、私たちもう付き合えないんだよ」
「きっとあるよ。意味」

起きるのはいつも決まって5時を過ぎたあたりだった。それが日の出の時刻だと気づいたのはつい最近のことだ。夜明けとともに彼は消える。ベッドに残された私は窓の外に広がる紫色の空に「生」を実感する。
 ユウはバイクで事故って死んだ。
 深夜、人気の少ない交差点で、青信号を確認して直進したユウのバイクに横から猛スピードでシルバーのワゴンが追突した。後ろには長い黒髪の女を乗せていた。女は奇跡的に一命を取り留めたが、ユウは追突した車と地面に頭を強く叩きつけられて即死だったという。
 私とユウは4回もデートをしたけれど結局進展しなかった。お互いの気持ちが固まりつつあるのを感じていたし、私はもう心の準備はできていた。そろそろユウの方から告白してくるだろうと期待していた矢先のことだった。
 彼の死と、バイクの後ろに乗せていた女のことで私の頭はいっぱいになった。
 何かが始まる予感がして、始まる前に最悪の形で終わりを告げられる。その悲しみとも憎しみとも違う感情に心を侵され堕ちていく。
 死後半月たって夢の中で真相を知った。
 いや、これはただの夢だ。
 私はユウの死を、まだ許せていないのだ。

タイムカードを押して店を出ると、外はもう薄暗く、西の空に小さな星がひとつ瞬いている。   
 家までは1駅だけど、駅までが遠かった。
 私はイヤホンをして茜色の空が宇宙に呑まれていく様を見ながら歩いていく。
 ふと隣に自転車がゆっくりと並走していることに気づいた。
 顔を向けると岡くんが横で何か叫んでいた。
 イヤホンを取って笑いかける。
「何度も呼んだんですよ」
「あーごめん、ちょっと音大きかったかも」
「ユキさん一駅でしたよね。途中まで送りましょうか」
 そう言って岡くんは自転車の荷台に指をさした。
 少し考えて、
 まああいつもバイクの後ろに女を乗せてたわけだし————。と心の中でよくわからない言い訳をして荷台にまたがった。
「何聞いてたんすか」
「『goat letters』って知ってる?」
 その名を聞いて岡くんは目を輝かせた。
「知ってますよ!ユキさんマニアックですね」
「そうだね」
「ああいうオルタナ系って最近流行らないけど俺は好きなんですよね」
「わかる」
「流行らないものを好きなもの同士って特別な感情って生まれますよね」
「かもね」
「『goat letters』ってバンド名の由来知ってます?」
「知らない」
「ほら、ヤギが手紙食べちゃうって童謡あるじゃないすか」
「あーあるね」
「黒ヤギさんも白ヤギさんももらった手紙食べちゃうからいつまでたっても気持ちが伝わらないって話」
「あるある」
「それを代わりに自分たちが届けようって意味らしいですよ」
「へーそうなんだ」
 好きなバンドの名前の由来を知らないものなどこの世にいるのだろうか。
 それでも、知らないと言うと男は得意げに語り出す。精一杯熱っぽく話す姿がなんだかいじらしくて、だから私は知らないと言う。
 私が知らないとうそぶくのはこれで2度目だ。

「あの……」
「何?」
「ちょっとこの坂道、急なんで」
「うん」
「ちゃんと捕まってください」
「おう」
 私は岡くんの腰に手を回す。
 元高校球児だけあって岡くんのお腹は丸太みたいにがっしりと引き締まっていた。
 シャーっと音を立てて自転車は坂を下っていく。道の左右に並ぶ街灯が私たちの横を流れていく。夜道を照らす光のアーチを猛スピードで潜っていると、まるでタイムマシンに乗ってるような気分になる。
 波打つ時空の狭間で、「いつ」にでも「どこ」にでも行けるよと言われてるみたいで、それが私を不安にさせる。
 私はユウの生きる過去に戻りたいのだろうか、それとも————。

————4————

「俺は髪はロングの子の方が好みなんだよね。洋服とかも、もう少し女の子っぽい方が好きかな」
「髪型褒めてくれたじゃん」
「いや、それはそれでいいんだけどさ、ボーイッシュだとそそらないっていうか」
「だったらなんで私なの?」
「ぶっちゃけさ、俺たち付き合ってもいつか別れたと思うんだよね」
「なんでそんなこと言うの?」
「だってまだ大学生だし。それでさ、就職して結婚するまで付き合うなんてめったにないと思うんだよね。そんなものじゃない?めちゃくちゃ好きでもさ、いつかは冷めて別れて、それを繰り返すんだよ。適齢期になったら好きかどうかよりも将来性とか経済的なところで過不足のない相手を見つけて結婚するんだよ。だから学生時代の恋愛なんてそもそも刹那的で場当たり的なものなんだよ」
「遊びってこと?」
「厳密に言うと違うけど、まあそういうこと。ユキは俺と結婚したかった?」
「付き合ってもいないのに考えたことない」
「それってつまりさ、結婚がどうとかじゃなくてさ、そのとき好きかどうかってことでしょ?それと同じさ」
 そうかもしれない————。
 私はユウに何を求めていたのだろうか。
「それにさ、もしかしたらユキにももう新しい人とかいるんじゃない?」
「…………」
「いるんだ……。やっぱり」
「それこそユウにはもう関係なくない?」
「そうだね」
 けれど本当に関係なかったら、私はきっとこんな夢など見ないだろう。
 でもなんで————。
「前から思ってたんだけど、何でわざと、そんな嫌な事ばかり言うの?前はそんなこと一言だって言わなかった」
「手紙だよ」
「手紙?」
「手紙だと言いにくいことも言えたりするだろ?」
「手紙でもそんな酷いこと言わないけどね」
「人の夢なら言える気がしたんだ」
「知ってたの?」
「俺が君に見せてたんだよ」
「だからなんで」
「わかって欲しかったから。俺のこと」
「わかってたよ」
「知らなかっただろ。こんなやつだとは思わなかったんじゃない?」
「…………」
「人間なんてさ、ホントの部分はみんな隠してるんだよ。心の中にあるえげつない部分に蓋してさ、私は普通ですみたいな顔で生きてるんだよ。でもそれでいいと思うんだ。だってさ、全部出しちゃったら人付き合いなんてできないじゃん。綺麗な部分と汚い部分が入り交じって人の形を成してるんだよ。どっちも嘘じゃないから知って欲しかった。生きてたら見せられないけど死んじゃったら汚い部分が分からないだろ。夢の中なら汚い部分も見せていいかと思ったんだ。
 でもさ、俺の中の綺麗な部分も汚い部分も、君の事が好きだった。
 付き合っても結婚しなかったかもしれないけどさ、その時俺はちゃんと君が好きだったよ。
 つまり死ぬまで君が好きだったんだよ。あ、今すごいかっこいいこと言った、俺」
「あはははっ」
 私は初めて夢の中で笑った。
 腹を抱え、笑いながら泣いた。
「それが言いたかったのかな、俺」
 ユキか死んだら俺にユキの汚い部分見せて————。
 そう言って笑うユウを見届けて、私は目を覚ます。
 私はまだ笑っていた。
 なんだあいつ。馬鹿みたいだ。
 バイクの女を見つけて聞かせてやろうか。
 童貞のまま死んだあいつは結構どうしようもないやつだったよ、別れて正解だったね、とか。
 目尻に溜まった涙の温もりが心地よかった。
 カーテンの隙間から差し込む光をぼんやりと眺める。
 これはハッピーエンドなのだろうか。
 あいつのろくでもない部分を知って何もかもを許せるようになって、いつか笑い話にでもなれば私は救われるのか。
 だからあいつは道化になって、この先を生きていく私を後押ししてくれたのだろうか。
 違う————。
 これはユウが見せた夢じゃない。
 私が見た夢だ。
 宙ぶらりんになった恋を終わらせるために、私は夢の中で送り火を灯したんだ。
 ユウの想いを都合のいい解釈で私の中から消し去ろうとして。

ユウは死んだ————。
 私はもうユウのことは好きじゃない。
 夢に見ることもないだろう。
 けれどユウ、私もあのとき、ちゃんとユウのこと好きだったよ。
 中途半端な恋だったけど、私の中に確かにユウがいたよ。
 それだけ————。
 私はこの先、また別の人を好きになる。
 そうしていくつもの出会いと別れを繰り返し、その消えない傷をひとつひとつを胸に刻み、過ぎていく日々をあの夜の向こう側に置いてくるのだ。

カーテンを開けると部屋いっぱいに黄金色の光が差す。
 バッグに下げたキーホルダーが紫色の朝を静かに反射していた。
 スマホの待ち受け画面に、新しい通知が一件表示されていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?