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夏目漱石『それから』を読んで

夏目漱石
それから
明治42年
新潮文庫


 恥ずかしいことだが、私は夏目漱石をあまり読んだことがない。
 中学生の時と数年前に『こころ』読み返し、『吾輩は猫である』は始めくらいを読んだくらいだ。『こころ』については違う機会に述べたいと思う。
 この度、『それから』を初めて読んでみた。

『三四郎』、『それから』と『門』はいわゆる三部作と言われているが、一作一作は独立されているらしい。それでも『三四郎』から読めばよかったのかなと、読み終えた後に少し思ったりもしている。
 よく、漱石の文学は”無意識の偽善”(アイコンシアス・ヒポクリシイ)が主題と言われている。編集者として有名な松岡正剛氏も漱石の中で”無意識の偽善”は『三四郎』で芽生え、『それから』で抱き込み、『こころ』では主題となった。と唱えている。いったい”無意識の偽善”とはなんであろうか? 私は『それから』から”無意識の偽善”を読み解いてみようと思う。

 『それから』のエピソードなかでの”無意識の偽善”とは、三年前に主人公である代助が恋心を抱いていた三千代を親友の平岡に”自然”に譲った事と読めば解る。なぜ代助は三千代を平岡に譲ったのであろうか? 一言で言うと前述の”自然”だったからということに尽きる。代助の中で”自然”という作用はどのような意味を持つのだろう。
 代助は三十を過ぎても働いたことがない。いまでいうとニートである。私も同世代で失業中なので耳が痛い話であるが、代助の働かない理由もまた彼の持論である”自由”に他ならない。
「パンに関係した経験は切実かもしれないが、要するに劣等だよ。パンを離れ水を離れた贅沢な経験をしなくちゃ人間の甲斐はない」と言っているし、「生活上世渡りの経験よりも、復活祭当夜(以前ニコライ堂で見た祭りのこと)の方が、人生に於いて有意義なものと考えている」とも述べている。
遊んで暮らしている代助は”自然”と言い、働いて苦労している友人の平岡は”不自然”と切り捨てる。代助のパトロンであり、日露戦争のドサクサで成金となった実業家の父から、代助は仕事をしないのに、友人である平岡は仕事をしている。お前も平岡を見習え。と言われるが、平岡は「失敗して帰って来ました」と父に言う。その理由を「つまり食う為に働くからでしょう」と言い放ち、「誠実と熱心があるために、却って遣り損なうこともあるでしょう」とも言う。代助は自分のことを「ただ職業の為に汚されない内容の多い時間を有する、上等人種」と考えている。

 ここでいわゆる”自然”一旦を置いて代助、三千代、平岡の関係を洗ってみる。

 三千代は代助と平岡の共通の友人である菅沼の妹であり、菅沼はチフスで死んでいる。三年前に代助が取り持って三千代と平岡は結婚し、夫婦は仕事の都合で大阪に越した。当地で子ができたが、生まれてまもなく死に、三千代も心臓に病を持った。
平岡は仕事上で借金を作り、放蕩を繰り返した挙句、職を辞め東京に戻ってきた。
 三千代はある日代助を訪ね、金を貸して欲しいとたのむ。親の脛をかじって生きている代助は貸したくても貸せる金がないため、兄に借用を頼むが断られる。平岡の職の斡旋も頼むがこちらも断られた。この件に関して代助は特に兄を不人情だとは思わず、むしろ当然だと思っている。
 平岡は自分は一度実業に失敗したが、これからも働かなければならない。しかし代助は何もしていないと非難をする。なぜ働かないかは、「僕が悪いのではなく、無理に一等国になろうとして借金漬けになった日本が悪い」と代助は平岡に言い放つ。「日本が健全なら、僕は依然として有意多忙」とまで言う。平岡は「生活に困らないから、働く気にならないんだ」と言うが、代助は「生活のための労力は、労力の為の労力でしかない。食うための職業は、誠実にはできない」と言う。
 後日、三千代から頼まれた金は、満額ではないが兄嫁から借りることができるが、金額が中途半端なので三千代に持ってゆくか迷う。迷った挙句、平岡の家に向かうが、「煙突から出る汚い煙を見て、貧弱な工業が、生存の為に無理に吐く呼吸を見苦しい」と代助は思い、その近くに住む平岡と煙突を連想し、同情よりも美醜の念が先に立つ。
 三千代に金を渡した後、代助は三千代に頻繁に会うようになる。どうやら平岡との家庭は上手くいっていないようだ。代助と平岡の関係も離れている。代助は文明が人を孤立させると考える。また、「平岡とは隔離の感よりも、嫌悪の念を催す。そして向こうも同感の念がきざしている」と判じる。
ここで代助は平岡との間に横たわる一種の独特な事情を自覚する。それは三千代の結婚だった。
 代助は今までの信条である”自然”を疑い始める。”自然”なままに一気に随行する勇気と興味に乏しいから、自らその行動の意義を中途に疑うようになる。彼はこれを”アンニュイ”と名付ける。
”アンニュイ”に罹ると、論理の迷乱を引き起こす。代助はその”アンニュイ”に罹っている中である選択を迷う。それは”自然”の子になるか、”意思”の人になるかを……。
 後日、三千代を家へ呼び出す。
「雨は依然として、長く、蜜に、物に音を立てて降った。これは雨の為に、雨の持ち来す音の為に、世間から切り離された」と漱石は書いている。
代助は三千代に「僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ」と告白をする。
三千代は「あんまりだわ」を言う。
代助は解っていた。「僕は三四年前に、貴方にそう打ち明けなければならなかったのです」と。

代助は偽善者だった。
”自然”と”無意識の偽善”を履き間違えていたという事だろう。

この後、代助と三千代、そして平岡は大きな局面へ向かって行く。
漱石の主題である”無意識の偽善”、『門』によって、どのように変化していくのか、興味が湧いてくる。

#読書感想文 #書評 #夏目漱石 #それから

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