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少年の日の思い出

いつかの記憶

 誰しも少年の時の記憶が少しだとしてもあると思います。それはかけがえのない友達との思い出だったり、何気ない日常の中での思い出だったり、少し辛い思い出でも、美しい思い出でも。

 少年時代を今は儚く見えても、あの時は壮大で、ワクワクの止まらない瞬間だった気がしています。少し危険な山の頂上まで走って登ってみたり、山奥の川で遊んだり、虫や何か新しいものを見つけに遠くまで行ってみたり。(海のない県なので冒険譚はほとんど山です)

歳を重ねること

 人は誰しも歳をとります。私も7月11日で21歳となりますし、皆さんにも同じ現象が起きます。そして一年経つと面白いことに周囲の環境はガラッと変わります。

 誰かは中学校を卒業して高校に進学します。他の誰かは受験期とも呼ばれる年代に入り余暇や今したいことを溜め込んで勉強に勤しんだり。また他の誰かは新しい部下や新しいリーダーのもとで働くことになったり。

 様々な変化の中で悲しくも、人は何かを忘れて生きます。大切な記憶も例外ではないのでしょう。

 少年の頃に「ずっとこの友達といたいな」と思ったことや、共に交わした「一緒の進路に進もう」「いつかまた会おう」などの言葉の未来はどうしても徐々に希釈してしまい、ふとそれを感じると儚くて虚しい気持ちになります。

 そしてそれらを「大人になったんだからしょうがないな」と我慢しようと、気にしないとしてしまう自分に口を噤んでしまいます。

自分はどこに

 新しい環境に身を置くことは、「適応」というどこかポジティブな印象とは裏腹に「過去の自分を透けさせてしまう」という危なさが内包されている気がします。それは必ずしも悪いことではないんですが。

 もちろん誰かの新しい居場所になったり、隠れ家になったりもします。でも誰かにとっては幽閉されてしまうような、閉じ込められてしまったような。

 無意識下だとしても、実はそうなっていた。なんて気付かされることばかりです。年齢、時代、精神の変化でどうにでも変わってしまうのが人なんだと思います。

 正直、私にはわかりません。
 あの時なんと言っていても、距離が離れてしまえば彼/彼女の思いは希薄します。日々変わりゆく違う何かに気を遣わなければいけないからです。
 あの時どう言っていても、まるで人が変わったかのように、都合のいいように彼/彼女は大人になってしまいます。(ここでいう大人は年齢的なものではなく精神的なもの)

 そんな中、大人になれずに恥を忍びながらいつまでも空振りしている人も、大人になった方が悲しまずにいられるのでしょうか。

 もう一回、あの思い出がたくさん散らばっている場所を練り歩いて、今の自分が何を感じるのか試してみたいです。
また、そんな今の自分を感じながらも、自分の思う自分になっていく歳にしたいです。

 皆さんにとっても良い歳になりますように!

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