結局死ぬときは一人

前回の記事で「一人で死んで」発言について、改めて考えてみると、感情論から抜け出せない自分がいることに気づいた、ということを書いた。

「一人で死ぬ」以外に方法はないんじゃないか、と屁理屈をこねてみた。

たくさんの人がいる施設で事件を起こして、そこの人たちを巻き込んで死ぬ。

これは「死に方」として「一人じゃない」と言い切れるんだろうか。厳密に考えると、火傷・窒息・転落など死因もばらばらなら、死亡時刻も1分1秒違わない人っているんだろうか。一緒に三途の川を渡ることってあるんだろうか。

生きている人間は、「看取ること」はできても「死を体験すること」はできない。死ぬとき最後は孤独のうちに死ぬ。その証拠に、埋葬をし、死者の魂を弔おうとする。なんかの授業で習った気がする。

自殺するときは、一人で死ね!と衝撃的なことは、社会全体で実践しようとはなかなかならない。だけど、人を巻き添えにしてもしなくても、最後は一人で孤独にしんでいく。他者は、看取るということしかできない。そういう教育は、現在の現場でも行われていることだ。

ただし、大学の専門科目で。

この授業を義務教育過程でやったところでどこまで生徒がピンとくるかわからない。だから義務教育でやれとは思わないけれど、人間の死生観の語られ方に触れる機会が、各個人に与えられてもいいのかもしれないと思った。

僕がもし、どうしても自殺したくなって、憎しみや恨みから、周りを巻き添えにしたい、と考えたとしても、きっとどこかのタイミングで、「他人の死は経験できない」ということを思い出して、大事件を起こすことは思いとどまるように確信している。

なぜなら人を巻き添えにする無意味さを知っているから。というか人を巻き添えにするという論理をもちあわせていない、という方が正しいかもしれない。

人は学んでたくさんの知識を「構築」し「獲得」していく。

学びにはそういう側面とは、別の側面もあるように思う。今まで当たり前だと信じこんでいたものを、言語化させられることによって、その当たり前をが「破壊」される、「放棄」させられる、そういう感覚になるときもある。

受験戦争や就活第一主義みたいな現状の教育では、「構築」「獲得」ばかりがクローズアップされて、「破壊」「放棄」をする機会が十分じゃないような気がする。

実際僕も、この留学を通じて、今まで当たり前をぼろぼろに「破壊」させられ、当たり前なものを「放棄」させられる体験をしてきた。

自暴自棄になったときは自分の命は自分で断つという規範意識を造成するのではなく、人間は他者と一緒に死ぬことができるという意識を放棄させることを目指す道もあるのではなかろうか。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?