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ハイサイメンソーレ

6月から『三線』をやることになりました🥳✨
仕事先のレンタル楽器なので1ヶ月限定ですが初めて弾くので楽しみ~!!

今朝から早速さわってみてわかったことは、
チューニングが繊細!

三本弦で、やる曲によって調子(チューニング)を変えるのですが少しの巻きかた?ですぐ半音くらいピョーと変わってしまう。


逆に言えばギターやヴァイオリンなどのように固定チューニングでないために変えやすくなっているんでしょうけど、長時間の演奏には耐えられなさそう…曲間でしょっちゅう整えなくては…


以前、西洋音楽史中心に「楽譜の変遷」というレクチャーをオンライン視聴したのですが、諸民族音楽を西洋の''ドレミ''に当てはめることは植民地的とのこと。

それまで私は、五線譜に当てはめることで各民族的音階がわかりやすくまとまり (沖縄音階、スコットランド音階などなど…) 理解が深まるという利点しか見ていませんでしたが、この視点を聞いてなるほどと思いました。

ドレミの平均律に合わない音を「ずれている」と神経質に嫌悪し、味わいに気が付かなくなってしまう可能性もあるなと。

ずれているけれど、居心地は悪くはない。でもずれていることにばかり意識が向いて、音の存在としての心地良さに目を向けていたんだろうか。


植民地的、などというと強い言葉になってしまうのでドキッとしちゃいますが(笑)

自分の知っているルールからはみ出ているものの、相対的ではなくそれそのものの姿を見なくては、

自分の知っているルールが世間一般大勢のルールであったとして、「ずれている」と感じるものにやりにくさみたいなものを意識の中にいれちゃっていないだろうかなんて考えてしまいました。

最近読んだ、千葉雅也さんの『現代思想入門』にも''存在の偏り''という言葉が出ていて、平均化された人たちで進む社会じゃなくて、デコボコしていてもなんとか回る社会という話が印象に残っています。


そうだった、西洋音楽をやっている私たちも根っこは「それ、なんかかっこいい!イイ!」という音を追求する気持ちがあったのだ、と、民族楽器に触れることで思い出したのでした。カッコよければアリなのだ!



さて話は三線に戻しますが、高校生の教科書に載っている『海の声』のサビを弾けるようになりましたよ!

あんまり爪 (ギターのピックみたいなもの) を動かさないんですね。動きが遊ぶと隣の絃に触って雑音が出てしまう。

三線の良さや味わいを引き出すにはまだまだ時間がかかりそうです。

それにしても、手に触れる素材が自然のものな楽器はまた良いですね。

私は金属バリバリのサックスか、英知の結晶ピアノか、歌なので、三線の素材感と軽さや身体への優しい馴染み感は新しい経験でした!

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