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もう、「デジタルネイティブ」とか言ってられない

「オレ、いつか日本に行ったらここに行きたい・・・!」

6歳の息子がiPadのGoogle mapで、彼の憧れの場所を興奮した様子で見せてくれた。最近、息子はYouTubeの視聴制限時間が過ぎた後、こっそりとそのまま親のiPadで遊んでいる。そして私も息子がどんなことができるのか見てみたくて、好奇心でしばらくは放置していることがある。
どれどれ。どんな素敵な場所なんだい?と、見てみると、地味な感じな街の一角に位置する「小諸そば」とある。かけそば一杯370円、「誠実」「信頼」「努力」を社是に掲げ、庶民に寄り添って71年になる、あの小諸そばである。

行ってみたいなー!食べてみたいなぁ・・・

再び、しみじみとつぶやく息子の様子は、まるでネットフリックスでChef’s Tableを見ながら世界各国のレストランをうっとりと見ていた土曜日の夜の私と夫のよう。
小諸そば。私も起業したばかりの月給8万円時代には、今はなき本郷三丁目の小諸そばには毎日大変お世話になりました。
でもそれは9,346km離れた異国の地から、ため息混じりに行ってみたいなーというほどの場所では、多分、ない。

その後、息子はGoogleマップで日本旅行を楽しみ続け、ポケモンカフェに行ったらおれ、これ食べたいんだーとカビゴンのまんぷくお昼寝ランチプレートを見せてくれる。そして京都の街中をGoogleマップ上で散歩して、オレ日本大好きなんだよなーと日出る国、ニッポンに思いを馳せていた。

誰が教えたわけでもないGoogleマップの使い方を勝手に覚えて、キーボードで自分の行きたい場所をタイプしてデジタル散歩をする6歳男子。

「デジタルネイティブ」という言葉を使う時に、親としての判断責任を放棄して、子どものデジタル世界での生き方を全てまるっと許容することに繋がってしまうとしたら、それはそれで違うのだろうなとよく考えている。
それは「ポリティカリーコレクト」と表現したら、そこから先は思考停止になってしまうのが危ういように。
それでも私は子どもたちが自ら色々なアプリの使い方を誰に教わるでもなくサクサク使いこなしていく様子を見ていると、これがデジタルネイティブだ・・・と呟かずにはいられない。

先日、いつもより早く眠くなった娘を寝かしつけながらうとうとしていると、寝室のドア越しに聞き覚えのない音楽が聞こえてきた。
音楽というには随分荒削りというか、ドラムやらビートの音が強調されていて、ガチャガチャしている。けれど限りなく音楽っぽい。

一体なんだろう。と思いながら、ようやくあたたかい布団を抜け出て、廊下に出ると、息子が満面の笑みでiPadを持って駆け寄ってきた。
「オレ、音楽作っちゃった!!」と。

音楽??

iPadに目をやると、ガレージバンドのアプリが開かれ、何やらそこに色々と入力されている。そして息子が得意気にスタートボタンを押すとさっきの「音楽」が奏でられた。
私も夫も、長年マックユーザーだが、このガレージバンドアプリが当たり前のようにデフォルトで入ってくるのか理解できず、何も触ったことがなかった。

そんなアラフォーの両親には理解不明だった音楽制作アプリを使って、わずか6歳の子どもが自分で勝手に音楽を作れてしまうとは。
息子のガレージバンドの使い方は日に日にうまくなり、既存のメロディテンプレートを使ってそれっぽく聞こえる音楽を作ったり、拍手をいい感じのタイミングで入れたりできるようにまでなってきた。
前に懇願されてチャリティーショップで買ったドラムのおもちゃなんかより、ずっとガレージバンドの方が面白い模様。なんてったって、指を動かすだけでプロみたいにドラム演奏ができちゃうんだし。

小さい時から当たり前のようにデジタル機器に囲まれて過ごしてきた子どもたち。
へーこんなことも出来るんだーと親を驚かせているうちは、まだ楽なのだろう。
これが子どもの年齢が上がれば上がるほど、「わーお!デジタルネイティブー!」とミーハーな感じでコメントできなくなるくらい、親として色々な葛藤に直面することになるようだ。それは、ニュージーランドという自然豊かな環境にいても同様に。

最近、中学生の年頃の女の子がいるママ友のおうちに遊びにいった時のこと。
14歳の女の子が大きなヘッドフォンをしたまま、リビングにお菓子をつまみにきた。彼女は私ににっこりと笑顔を見せたあと、そのまま誰とも話さずに自室に戻っていった。
その後ろ姿をみながらママ友は
「あの子は、学校が終わると、お友達とチャットしたり、一緒にオンラインでつながりながら、それぞれやりたいことをやっているみたいなのよ。」
とため息まじりに教えてくれた。
よくニュース記事でみる、「常時つながっている」というデジタル世代の子どもたちの話が目の前で繰り広げられていてびっくりした。

他のある日、ニュージーランドで子育てをするママの先輩と話していた時も、同じような話を聞いた。
彼女のお子さんが中学校に入学するときに、PC購入をしなければいけなくて、購入したが最後。
常にお子さんが自分の部屋にパソコンを持ち込んで、ずっと夜中までネットで遊んでいて寝不足状態だという。
友達とチャットしたり、動画を見たり、もう止まらないみたいで・・・
家族でお出かけに行っても、常にスマホで写真をとったり、友達とチャットをしていて、目の前にいる私と全然目を合わせてくれてないし。何より、娘がヘッドフォンをつけて自分の世界に入っているから、なんか話もちゃんと聞いてくれてる感じがしないのよ。

先輩ママの悩みに驚きすぎて、ただただ「えー!」「うそー!」「しんじられなーい!」と中身のない相槌をうつことしか私はできなかった。

いつまでニュージーランドで子育てをするか分からない私たちではあるものの、きっとこういう「年頃の子どものデジタル世界での生き方」は世界どこでもある程度のグラデーションはありながらも、同じような感じなのだろうと思うと、今から戦々恐々としてくる。
あー・・・できれば息子と娘が「年頃」になるまでに、スマホはアルコールやタバコと同じくらい危険だから、未成年の子どもに絶対に持たせてはいけません。という法律が世界的にできないかなー
もしくはありとあらゆるSNSをイーロンさんが買い占めて彼の独裁国家をさらに押し広げ、結果としてそれに辟易したユーザーが大量離脱してくれてSNSなんて過去のこと、みたいになってくれないだろうか。

親として難しい判断を強いられるようになる前に、なんとか状況がガラガラぽん!と音を立てて変わってくれればいいのに。そんな風に期待せずにはいられない。
でもそんな大きな変化を願うよりも、半径五メートル以内でもう少し手に届きそうなくらいの現実的なことを願うとするならば・・・

子どもたちが孤独を恐れて人と繋がるのではなく、自分と他者への信頼感を持った上で前向きに人と繋がれるようになってほしいのだ。
「いいね!」がほしくて、外から切り集めてそれっぽく発信するのではなく、自分の中から溢れ出る美しさを表現できるようになってほしい。

でも、そのために、一体私は何ができるのだろうか。
親として子どもとの信頼関係をしっかりと築き上げるとか。
彼らの自己肯定感が健全に育つように接していくとか。
リアルな世界で「タイパ」が悪い経験をすることが、どんなに楽しいことかを一緒に共有していくとか。
そもそも親の私たちが子どもの前でスマホに没頭しないとか。
きっとそういう日常の中における一つ一つの在り方を積み上げていくしか出来ないのだろう。

とりあえず、今週末は家族みんなで、人の手が奏でる音楽を聴きに行こうと思う。
ガレージバンドで一人で作るデジタルな音楽もいいかもしれないけど、たくさんの人が集まって、みんなの心を一つにして作品を作り上げるというのがどういうものなのか、6歳の息子の心に響くといいなと願いながら。

【ニュージーランドで○○○大作戦】
ニュージーランドの生活の中でいくつか恋しくなるものがあります。
日本だったら当たり前のように手に入ったものが、はるか遠くに・・・
でもそれも海外暮らしの定め・・・と諦めていたら、ところがどっこい!
こっちのスーパーでも手に入るという噂を聞きつけ・・・
探し続けること、3ヶ月くらい。
お友達に「最近、入ったらしいよ!」という貴重な情報をいただき、息子と二人でワクワクドキドキの大冒険。
あるか・・・・あるか・・・・
本当にあるか・・・・・

夢は強く願えば叶う!と誰かがいったのは、本当なのでしょうか・・・?

https://youtu.be/nt1-aEBEtI8

https://youtu.be/nt1-aEBEtI8

 


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