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壁と卵

作家の村上春樹氏が、2009年にイスラエルでの最高の文学賞であるエルサレム賞の授賞式に参加しました。70年以上も続く中東戦争の当事国であるイスラエルからの招待でした。村上氏は受賞の演説で、下記のように演説しました。

「受賞の知らせを受けた後、私は何度も自問しました。このような時にイスラエルに行き、文学賞をもらうのは正しいことなのだろうかと。紛争当事者の片方を支持する印象を与え、圧倒的な軍事力を行使する選択をした国の政策を支持することになるのではないかと。もちろん私はそのような印象を与えたくはありません。私はどんな戦争も支持せず、どんな国も支持しません。もちろん本の不買運動も望みません。

熟慮の末、私はここに来ると決めました。見ないよりも見ることを選びました。黙っているより、皆さんに語りかけることを選びました。とても個人的なメッセージを伝えさせてください。私が小説を書く時にいつも、心にとめているものです。紙に書いて壁に貼るようなことはしていません。むしろ心の壁に刻まれているもので、次のようなメッセージです。

高く強固な壁とそれに打ち砕かれる卵があるなら、私は常に卵の側に立つ

壁がどれだけ正しく、卵がどれだけ間違っていたとしても、私は卵の側に立ちます。何が正しく間違っているかは他の誰かが決めるでしょう。おそらく時間や歴史が決めることでしょう。もしも、何らかの理由で壁の側に立つ小説家がいたとしたら、その作品にどんな価値があるといえるでしょうか?
このメタファーは何を意味するでしょうか?とても単純で明確な時もあります。高く強固な壁は爆撃機や戦車、ロケット、白リン弾です。卵はそれらに押しつぶされ、焼かれ、撃たれる、武器を持たない市民です。それがこのメタファーが持つ意味の1つです。

しかしもっと深い意味もあります。こう考えてみてください。私たちそれぞれが、多かれ少なかれ卵なのだと。私たちそれぞれが、壊れやすい殻に閉じ込められた、ユニークでかけがえのない魂なのだと。私もそうですし、みなさんもそうです。そして私たちそれぞれが、程度の差はあれ大きな壁に直面しています。

その壁には名前があります。「体制(システム)」です。体制は本来私たちを守るためのものですが、時に独り歩きして私たちを殺し始め、私たちに人を殺すよう仕向けます。冷酷に、効率よく、システマチックに。

私が小説を書く理由は1つしかありません。個々の魂の尊厳を浮かび上がらせ、光を当てることです。警告を発し、体制に対して常に光を当て続け、その網が私たちの魂を絡みとって貶めるのを防ぐ。それが物語の目的です。
小説家の仕事というのは、生と死の物語、愛の物語、人々が泣き、恐怖で怯え、笑いで体を震わせる物語を書くことで、個々の魂のかけがえのなさを明確にし続けることだと、私は強く信じています。それこそが、私たちが日々真剣に虚構を作り続ける理由なのです。

今日、私が皆さんにお伝えしたいことはたった一つです。私たちは皆、国籍や人種、宗教を超えた個々の人間です。体制と呼ばれる強固な壁に向かい合う、壊れやすい卵です。どう見ても、私たちに勝ち目はありません。壁は高すぎ、強すぎ、そして冷たすぎます。

もしわずかでも勝つ希望があるとすれば、それは私たちが自分やお互いの魂の絶対的な唯一性とかけがえのなさを信じ、魂を寄せ合わせることで得られる暖かさから生まれるものでしかありません。

少し考えてみてください。私たち一人一人は、触れられる生きた魂を持っています。しかし体制にはそのようなものはありません。体制に私たちを搾取させてはなりません。体制に独り歩きをさせてはなりません。体制が私たちを作ったのではありません。私たちが体制を作ったのです。」

(一部省略)『村上春樹 雑文集』(新潮社)


話された瞬間には理解ができないほどに美しく見事な例えで、圧倒的な軍事力のイスラエルと、壁に囲まれた天井のない監獄であるガザ地区に住む人々の現状に対する自分の考えを表明しました。政治的な思惑と、宗教的な争いに翻弄されるエルサレムで、イスラエル批判のような発言をする事が、世界を少しでも良くするために考え抜いた作家としての行動ではなかったかと思います。


アフガニスタンで銃撃に倒れた中村哲医師(1946-2019)が遺したのは、こんな言葉でした。中村医師の言葉にこそ、真理があります。

「正義・不正義とは明確な二分法で分けられるものではない。敢えて、変わらぬ大義と呼べるものがあるとすれば、それは弱いものを助け、命を尊重する事である」

中村哲『医者、用水路を拓く』


イランで戦争孤児となった経験を持つサヘル・ローズさんは、下記のようにつぶやいて、イスラエル戦争の勃発を嘆きました。

「どんなに願っても平和はもうこの地球には存在していない。利権がある限り、お金をうみだす、経済を動かす戦争によって、破壊され、虐殺がくり返され、粉々になっていく世界…」

https://twitter.com/21Sahel/status/1711198827296993323

ソ連の映画監督であったアンドレイ・タルコフスキー(1932-1986)
は、下記のように言って人間の本質を伝えました。

「人間は人間をコントロールできないのである。できるのは、破壊することだけだ。そしてきちがいじみた恥知らずの物質主義が、この破壊の総仕上げをする。個人の心のなかに神が存在し、永遠なるもの、善きものを受容する能力があるにもかかわらず、相対としての人間は、破壊することしかできない。人々を結びつけたものが、理想ではなく、物質的理念だったからだ。」

そして、NYで銃弾に倒れたジョン・レノン(1940-1980)は、下記のように、平和を作るのは物質的な要求を自分から無くすことで簡単に実現するのだという思いのこもった言葉を遺しています。

「もしみんなが新しいTVセットのかわりに『平和』をもとめれば、
 それで平和は実現する。
“If everyone demanded peace instead of another television set,
 then there'd be peace.”


どのような時代でも、政治体制でも、戦争をしたいと思う指導者はいません。土地や財産の取り合いで自分をコントロールできなくなった指導者が、武力を使って現状の破壊を試みるのです。戦争当事国を支持し、武器は送ると言う国もありますが、強引な武力解決を試みれば、被害を受けた家族や友人を失った恨みは何世代にも引き継がれて、分断の火種を残してしまうでしょう。戦争状態にある側のどちらかの国を支持すると宣言するのは、平和には無関心な指導者の言葉だと思います。


第一次世界大戦以前、パレスチナの地でアラブ人とユダヤ人は平和に暮らしていました。たとえ宗教や文化、歴史や価値観が違っていたとしても、同じ土地で平和に暮らしていくことはできるはずです。

人類には、どうしたら平和になるのかを考え続けるミッションがあるのだと思います。そう、「平和」の反対は「戦争」ではなく、「無関心」なのですから。


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