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”自信を持つ”ために教えてもらった大事なこと

”自信”って、おそらく生きていくために1番大事なことで。
自信がないと何も挑戦できなかったり、
人に何かしてもらっても疑心暗鬼になって自分をまた嫌いになったり。

私もずっと自分に自信のない人生を送っていた。

だけど、ある挑戦をした時に出会った人に言われた言葉を
ある日突然、なんの前触れもなく思い出した。

この時よりも、もっと前のお話。




私から自信を奪った一言


あれは、小学校2年生くらいだっただろうか。
顔の頬の部分にかなりの数のそばかすができた。

小学校高学年くらいになると
あいつがうざい、だとか、きもいとかの
悪口を言う人が増えてくる。

私も例外ではなく、人生で初めて
人間関係の拗れというものを体験したのだけれど
その時に言われた言葉がいまだにトラウマになっている。

”そばかすは顔の汚れ”

もちろんそんなことはなく
元々遺伝でできやすい体質だし、
色白なことから余計目立ったのだろう。

というか、あいつがこう言っていたと人伝えに聞いた話だし
その人が本当に言っていたことなのかはわからないけど、
コンプレックスを指摘されることは
まだ年齢が一桁の私にとっては、あまりにも鋭い言葉だった。

それから私はなるべく人に見られないよう常に俯くようになり
人前に出ることも苦手になった。

母に相談して、小学生から化粧品を使ってケアを始めたし
それからもう20年近く、日焼け止めを塗り忘れたのだって片手に収まるくらい、
紫外線対策だってしてきた。

社会人になってお金に余裕ができてからは
何度もレーザー治療もしたし
ビタミン剤だって飲んできた。

それでも私のことが大好きで
一向に私から離れようとしないそばかすを隠すために
カバー力の高いファンデーションを選ぶし
憧れのツヤ肌メイクはまだできそうもない。

あの有名なそばかすという曲は聞いたこともなければ、聞こうとも思わないし
そばかすメイクが流行ったときなんてどうしてわざわざ肌にそばかすを描くのか全く理解できず、そばかすあるの可愛いね〜!と言われたこともあったがそうは思えなかった。

そばかすがある子を見て、可愛いなと思ったことはあるが、
それは可愛いあの子にあるから可愛いのであって
私の顔にあるものが可愛いわけではない。
別にブスだと言われたわけではないが
コンプレックスをいじられただけで
私は可愛くないと思うようになってしまった。

そして可愛いと一度言われたくらいで
ずっと負の感情を向けていたものを
そんな簡単に好きになれやしない。

汚れと言われる前にたくさんの人が可愛いと言ってくれていたら
良い方に変わっていたのだろうか。

小学校4年生のあの子に言われた言葉は
間違いなく私の人生を変えた。


史上最高に自分のことが嫌いだった


そんなこんなで自分に自信がないまま
私は専門学校に入学し、CAになるための就職活動が始まった。

今まで挫折だと思っていたことが霞むくらい
就職活動は私の人生で最初の挫折だった。

航空業界を志し、オーストラリアに留学も行き、
就職活動のために面接練習が始まり
志望動機だとか、自己 PRを考え始めたとき
私は呆然とした。

自分のことが好きじゃないせいで
自分を売り込むことが全くできないのだ。
短所は永遠に思いつくのに長所は1個も思い浮かばない。

そして周りには美人な子が多くて
明らかにビジュアルで贔屓している先生もいた。
英語だけでなく韓国語、中国語、タイ語など
他の語学が堪能な子だっていた。
自信を失うのには最適な環境だった。

私だって高校の頃に部活で全国大会に行ったし
留学して英語だってかなり上達した。
けどどうしても、他の子と同じようにPRすることができない。

40人の前での公開面接練習は、終わった後にフィードバックがあり
そこでは良いことではなく、ダメなところを指摘するという先生の方針だった。

今思えば自信がなくなるのは当たり前のやり方だったが
当時はそれが当たり前で、”自信を持って!!”と書かれた付箋が
私のノートを埋め尽くした。

だったら誰か、自信の持ち方を教えてくれよ。


自信のなくなるようなことばかり言われて
自信を持てるはずなんてない。

面接の自信はなかったけど、
それでも文章はそこそこかけた方なので
エントリーシートが通過し面接に行く機会も何度かあった。

だけど、社会人や大学生と一緒に集団面接になると
どうしても自分の口から出る言葉が薄っぺらく
結果を待たずとも不合格だとわかるくらいの内容だった。

1社、また1社と御祈りメールが届き、
わかっていてもその度にまた自信が削られていく。

別に特別可愛いわけでもないのに、
自信に満ち溢れているあの子は
既に内定をいくつかもらっているそうだ。

逆にとても可愛いのに
あまり自信がない子の
就職活動は難航していた。

自分のことを好きで、自信がある人じゃないと
人は必要とされない現実を目の当たりにした。

私は日に日に自分のことがどうしようもなく嫌いになり
あまりにも辛くてついにメンタルクリニックに足を運んだ。

だけどそこの医者はヤブ医者か?と思うくらい酷い医者で、
私が一生懸命辛い気持ちを話しているところを遮り、こう言ってきた。

「就職活動してれば誰だってそうなります。
診断書が欲しければ3000円で出せますけど要りますか?
別に休学とか休職とか考えてないならお金の無駄になると思いますけど。」

ああよかった、私にもまだ怒る気力はあったようだ。

メンタルクリニックにも頼れなくなった私は
自分でどうにかするしかないと悟った。
怒りの感情が私を動かしてくれたので
ある意味あの医者には感謝している。

就職活動第二章


就活に関して、母は一才関与してこなかった。

学校で毎日面接練習をして
先生にはダメ出しをされ
父には息抜きの旅行も許されなかったので
息が詰まりそうな私にとってそれはありがたく、とても心地よかった。

だけど、もうCAの募集があと1社しかないとなった時
次がダメだったらもう航空業界はやめてブライダルに行きたいと相談した。
それから本人は良かれと思って色々アドバイスや求人情報を見つけては見せてきたが私にとってはただ口うるさいだけだった。

父も母も、やりたいことはやりなさいと言ってくれる人だった。
だから応援してくれるだろう、と考えだったが甘かったようだ。

ただでさえお金がかかる専門学校に通い
さらに大金を叩いて留学にも行かせてもらってる以上
航空業界に進んで欲しいという両親の気持ちは理解できる。

ただどうしても航空業界に行きたくなかった。
でも行きたくない理由を聞かれても答えられなかった。
好きなものをなんで好きなの?と聞かれると答えに困るように、
やりたくないことはやりたくないのだ。
頑張れないことを頑張れるほど私は強くはなかった。

私は学校の次に、家という居場所を失った。

私は就職活動が始まる直前にラーメン屋でバイトを始めていた。
年下が多い職場だったが、友達がたくさん増え
休みの日にアイスを食べながら就活の愚痴を聞いてもらったり
大好きなラーメンを賄いで食べれたり
そしてなんと彼氏もできたり、と、私の心の支えになっていた。

そして夏休みに入り、週7で出勤していた。

ある日バイトを終えて、家に帰った。
日付を越えるか超えないかというギリギリの時間に家に着き、父が言った。

「もうバイトは辞めろ。就活終わってないのにこんな時間に帰ってくるなんて何考えてるんだ」

だけど私に残された最後の居場所まで奪われるわけにはいかない。
生まれて初めて口答えをした。驚きながらも勝手にしろと言われた。
よし、私の勝利。

数日後、休憩中にふとスマホを見たら父からLINEが入っていた。

全文はもう覚えていないが
・3日以内にバイトを辞めること
・そうしないと学費、携帯代、お小遣いなどの金銭的援助を一才しない
こんな内容だったと思う。

だけど私は辞める気なんてさらさらなかった。
その日のバイトが終わった後も家に帰る気はせず、時間を潰して遅めに帰った。

月の半分くらいは単身赴任で家にいない父親の代わりに、母親が待っていた。

ちゃんと話そうと言われたけど
お互いどちらも譲らない。
話し合いがヒートアップし
我慢の限界を迎えた私は深夜に家を出た。

こんな時間にどこ行くの、と必死に母が引き留めた。

母は次の日筋肉痛になったと言っていたくらい
全力で私の腕とリュックを両手で掴み
着ていたカーディガンは破れ
私の腕には大きなあざができていた。
掴まれたリュックを捨て、
追いつかれないようにあてもなくとにかく全力で走った。

平成30年、胆振東部地震があった数週間後だった。
木が倒れ、立ち入り禁止のテープが貼られた
家の近くの防風林に逃げ込みベンチに寝転んだ。

財布の入った鞄を置いてきてしまったのでお金もなくどこにも行けない。
北海道の9月末は薄着では到底、夜は超えられそうになかった。
ラッキーなことに携帯だけは手に握りしめていた。
ラーメン屋でできた彼氏に連絡をするとチャリで1時間かけて来てくれた。
慰められ深夜の3時に一旦家に帰り、朝は母と顔を合わせないまま家を出て
そこから2日間家に帰らず、友達の家に泊めさせてもらった。

そうした乱闘を繰り広げた挙句、
ようやく私はブライダル業界を目指すことができるようになった。

ブライダル業界を目指すと決めてから
再び紆余曲折があったものの、
ウェディングプランナーという夢を叶えることができた。

ついに地獄の就職活動に幕が閉じた。


少しだけ、自分に自信が持てた時


ようやく就職できた会社に勤めて半年が経った頃
私は初めて式の受注をし、そしてその3ヶ月後に施行をした。

式を施行するという経験値が増えた私は勢いに乗り
新規接客に出れば成約を取って帰るので
”エース齊藤”と呼ばれるようになった。
成約率が200%の月もあった。

クレームを受けたことももちろんあったが、
「齊藤さんが担当してくれるならここで決めます!」
「齊藤さんが担当で良かったです!」
「結婚式なんてやらなくていいと思ってたけどやって良かった!」
「結婚式に関わる仕事をしたいと思うようになりました!」

と、こういった嬉しい言葉を直接くれたり、
感謝の気持ちを綴った手紙をくれた新郎新婦のおかげで、
21年間自分嫌いだった私が
仕事を通して少しだけ自信を持てるようになった。

ウェディングプランナーという職業が、まさに天職だと思った。
忙しいことすらも非常に楽しくやりがいを感じ
毎日仕事に行くのが楽しみで、
一生この仕事をして生きていきたいと思った。
なんなら結婚しても私がこの仕事で家族を養っていこうくらいの覚悟もあった。

家出してまでこの仕事を選んで良かった。
あの時の選択は間違ってなかったよって過去の自分に伝えた。


そしてやってきたアイツ


1月〜3月は、1年の中で結婚式場を探す人が1番多い。
そして4月から徐々に結婚式の施行が増えていくため
新規接客が多い時期と、施行の打ち合わせ開始時期が重なる。

朝出勤してすぐに接客に入ると
お昼ご飯を食べる時間も十分にないまま
接客が終わった時には既に定時になっていて
残業しないと処理が追いつかないような、
そんな日々が目まぐるしく過ぎていた。
それでも相変わらず、忙しいことは楽しかった。

だけどついに、アイツがやって来たのだ。


”新型コロナウイルス”


招待状は、延期や中止のお知らせへと変わり
笑顔が溢れていた打ち合わせは涙が流れるようになり
演出の相談でかかってきていた電話は、コロナ対策の相談に変わり
そしてキャンセル料で揉めるようにもなった。

心は折れかけていたが、そんな状況であっても、
「延期しても引き続き齊藤さんに担当お願いできますか?」
「状況が落ち着いてまた結婚式を考える時は齊藤さんを指名します」
とお客さんが言ってくれた。だから、頑張ろうと思っていた。


取引先への延期・キャンセル連絡や、
内部処理で変わらず忙しい日が続いた。
通常、年に1回あるかないかのキャンセル処理は
先輩に聞きながらしどろもどろやっていたのに
何も聞かなくてもできるようになった。

そしてキャンセル処理も終わると
びっくりするくらいやることがなく
”張り詰めていた糸がプツンとキレる”という現象を初めて実感した。

コロナウイルスが猛威を振るっても
式を決行する人ももちろんいた。

だけど新郎新婦に直接延期しろと言えない参列者が
会場に文句の電話をかけてくる。

式場見学に来る人がいても、
話す内容はコロナ対策の話ばかりで
どーせまた延期か中止になるんだからと
接客も身に入らず、ついにモチベーションも底が尽きた。

もう、全てがうんざりだった。

そんな時に出会った人が言った


コロナ禍で月の半分が休みになった私は
暇さえあればNintendo Switchを使い
自分の部屋でカラオケをしていた。

学生時代、学校終わりに毎日友人とカラオケに行くくらい歌が好きだった。
そしてあの地獄の就職活動中も何度も歌に励ましてもらっていた。

仕事のやる気もなく、プライベートも張り合いがなく
人生の路頭に迷った私は何を血迷ったのか、
それとも、なったばかりの”風の時代”に背中を押されたのか、
とある歌のオーディションに参加し、合格したのだ。

オーディションの面接でディレクターさんとたくさんお話をした。

その時私は趣味でギターを習っていたのだけれど
弾き語りの動画とかあげてないんですか?と聞かれ、
まだ上手に弾けないし、もう少し自信がついてからにしようと思ってますと答えた。

するとディレクターさんは言った。

”自信はつけるものじゃなくて、つけてもらうものですよ”


今まで自分の中になかった考えで、それはそれは衝撃的だった。

そして続けて言った。

”自信がついてから始めようなんて思ってたら一生始められない、まずは行動すること”


私がウェディングプランナーとして自信がついたのも、
自分がやったことをお客様が認め、喜んでくれたから。
そして、回数を重ねることで自信になったと。

今活躍しているYouTuberも、アーティストも、
動画を撮って投稿するという行動から始まって
それを見た人たちが認めて
それが自信に繋がってるんだよ、
だからまず行動を起こすことが必要だと。

私がひっそりとギターの練習や家でカラオケをしていたところで
たいして自信はつかないようだ。

自信があれば、人を傷つけなくて済んだのに。


この記事を書くにあたり、数年前の記憶を掘りに掘り返した。

就職活動第二章を書いている時は
家を飛び出して母に腕を掴まれた時の痛みや
ベンチに寝転んでいる時の寒さなど
当時の記憶が鮮明に甦り、涙が流れた。

私がもっと自信に満ちた人間だったら
就職活動はうまくいき
両親とぶつからず
母を泣かせることも
友人に迷惑をかけることもなく
過ごせていたかもしれない。

今となってはその経験も私を作っているから
経験できて良かったと思っているけど
自信のなさが誰かを傷つけ、
迷惑をかけてしまったことに初めて気づいた。

結局色々あってあのプロジェクトは辞退することになり、
ディレクターさんとももうあれっきり会っていない。
言われた言葉を常に胸に刻んで生きているわけではない。
むしろ、ここ最近はずっと忘れかけていた。

だけど、文章を書くことでご飯を食べれるようになりたいと思った時に
この言葉が急にふと降りてきた。

そうだ、あのオーディションのことを書いてみよう。と思ってパソコンに向かうと
小学生時代から書き始めないといけなかった。
ふと軽い気持ちで移した行動は、気づけば6000字越えの自分的超大作を作り上げていた。

もしこの記事が伸びて
読んでくれた方々が私に自信をつけてくれて
夢が叶ったなら
オーディションに参加したという自分と
文章を書く、という行動を起こした自分に拍手を送りたいと思う。



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