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第一章 背後にいるもの


「ふぁあ…」

あくびをして、スマートフォンの時刻を確認する。九時ジャスト。
布団から体を起こして、枕元に置いてあった煙草の箱とライターを握りしめて立ち上がる。

四畳半の和室から短い廊下に出ると、窓の向こうに広がる雲ひとつない青空をぼんやり眺めながら煙草に火をつけた。有毒な煙が肺を満たし、ふぅ、と息を吐く。

東京で働いていた出口春でぐちはるが仕事を辞めて、愛媛県の内子町に移住し早三ヶ月が経った。

独身の一人暮らしに選んだのは、木造平屋建。
築年数不明の月二万五千円。トイレや浴室、洗面台などの水回りは改修済み。二台分の駐車場あり。内子町の中心地からは離れているが、徒歩でいける範囲に小さなスーパーがある。
無職の自由気ままな田舎暮らしに、今のところ不満はない。

「…寒っ」

窓の隙間から流れる風がカタカタと小さな音を立てた。
出口は身震いすると、煙草を咥えて廊下の突き当たりにある洗面台に向かいながら、頭の中で今日は何をして過ごそうか考えた。


顔を洗ったあと、すぐ真横にある洗濯機の電源を入れた。
時間は腐るほどある。今日は天気もいいし、掃除洗濯を済ませたら遠出のドライブでもしよう、そう考えた。

掃除洗濯を済ませたあと寝室に戻り、着替えを始めた。
最後に忘れないように、左手首に漆黒の数珠をつける。これは亡き祖母がくれた、霊障から身を守ってくれる御守りだ。

母方の血筋の影響で霊感が強い出口は、幼少期の頃から霊の影響を受けてよく体調を崩していた。この数珠は霊的傷害から身を守ってくれるだけでなく、日頃から見たくないものが見えてしまう厄介な力も抑えてくれた。



午前中から数時間車を走らせて、ところどころ紅葉し始めた山々を景色にドライブを楽しんでいると、いつのまにか昼を過ぎていた。

朝から何も口にしていない胃が空腹を訴えている。
適当な店を見かけたら入ろうと思ったが、急カーブが続く国道沿いで見かけるのは、すでに閉店して長いこと放置されたドライブイン、レストランの建物だった。

「はー、どうすっかなぁ」

やれやれと呟いた出口は、路肩にある広いスペースに車を停めた。
スマートフォンを取り出して、ついでに煙草に火を付ける。

この辺りの地域で食事ができそうな店を検索すると、古民家カフェ巡りを趣味とする一般のブログサイトがヒットした。

『深ヶ集落–––内子町出身の若夫婦が営む古民家カフェ』という見出しが目に留まる。

深ヶふかが集落か…」

そのカフェは偶然にも、この先をもう少し行った山村集落にあった。
山菜料理を楽しめるランチメニューに惹かれた出口は、カーナビに片手を伸ばして住所を打ち込んだ。


車は山間路を進んでいく。
カーブがきつい道を慎重に走らせていくと、その集落は忽然と現れた。

水車小屋がある広い駐車スペースに車を停めて、集落へと足を踏み入れる。
深い山々に囲まれた土地には畑や田んぼ、そして昭和の古い民家がぽつりぽつりと建っていた。懐かしい、そんな日本の原風景が残る集落だ。

店を探して人気のない道を歩いていると、小川に架かる短い橋に設置された店の案内看板が目に留まった。

案内通りに橋を渡って道順を進むと目的地に到着する。一見普通の古民家に見えるが、玄関にはカフェメニューの看板が出ていた。

扉を開けるとベルが鳴り響く。
お洒落にリノベーションされた店内は座敷とテーブル席、そして奥に囲炉裏が見えた。店内に他の客の姿はない。

「いらっしゃいませー」

テーブルの上の食器を片付けていた三十代くらいの若い女性が、にこやかな笑顔を出口に向ける。

「おひとり様ですか?」

「はい。ランチメニューはまだ間に合いますか?」

「もちろん大丈夫ですよ。では席に案内しますね」

外の景色が見えるテーブル席を選んで座った出口は、メニュー表から季節の山菜料理と珈琲を注文した。

「うちのカフェは、SNSか何かを見て知ったんですか?」

女性は注文をとった後に、嬉しそうに話しかけてきた。

「ええまぁ。近くをドライブしていた時に偶然見つけたんです」

出口はサラリーマン時代に培ってきた他所行きの笑顔を浮かべた。もう癖になっている。

「私たち夫婦は内子町出身なんです。夫婦で古民家カフェを開業するのがずっと夢で、地域おこしのコミュニティを利用してこの集落に移住したんです。このカフェも今年オープンしたばかりなんですよ」

「そうなんですか。俺は東京出身で、数ヶ月前に内子町へ移住したんです」

「東京から!内子町の暮らしには慣れましたか?」

「ええ。住みやすくていい町です。移住してよかったと思いますよ」

「ふふ、ありがとうございます。地元を気に入ってくれて嬉しいです」

するとカウンターの奥から女性と同じく三十代くらいの男性が顔を出して「注文はまだかー?」と声をかけてきた。彼が夫なんだろう。

「いけない私ったら、またお喋りに夢中になってたわ」と女性はてれると、ごゆっくりどうぞと言って席を離れた。

顔から笑みを消し去った出口はふぅと小さく息を吐き、頬杖をつくと、窓の外に目を向けた。

手持ち無沙汰になると煙草を吸いたくなるが、こういう雰囲気を大事にした店では当然禁煙だろう。東京でも喫煙者は肩身が狭い思いをしたが、田舎もそう変わらない。

そんなことを思いながらぼんやりしていると–––


キーン…


「っ、?」

急に強い耳鳴りがした。
出口が眉を歪めたその時、バラバラバラッと軽い音がテーブルを弾く音が響いた。
頬杖をついていた手首を見ると、切れた数珠の玉がテーブルの上を転がっている。

(な、……)

驚いて目を見開いた。
そして「まずい」という危機感が生まれる。

中途半端に腰を浮かせて椅子を引いた
瞬間、空気が変わった。
ずっしりと重く淀んだ空気が、どこからかすーっと流れてくる。

その空気が流れてくる方向へと…出口の視線が、カウンターの方へと向いた。

カウンター内で作業をしている夫婦の上半身が、黒いマーブル模様に染まっている。濃い色をしたマーブル模様が、泥々とした渦を巻くように二人の姿を染め上げていた。

見えたものは、それだけではなかった。
並んで作業をしている夫婦の真後ろにピッタリとつくようにして、黒いモヤがゆらゆらと揺れている。

(……!)

出口はぎょっとして固まった。
そのモヤから目が離せずにいると、次第にモヤは人間の姿へと形を変えて、その姿を、色を、ハッキリとさせていく。
白い着物姿の女だ。
長い黒髪に、しゅっとした細長い狐顔。その顔色は蒼白に染まっている。年若い女は細長い目で瞬きすることなく、無表情にただ夫婦の真後ろにぴったりと突っ立っていた。

どくん、と心臓が跳ね上がる。
ここに居てはいけない。
そう思った出口は、テーブルの上に散らばった数珠を掻き集めて上着のポケットに突っ込むと席を離れた。

「どうかしましたか?」

俯いたままカウンターの前を通り過ぎた出口に、女性が少し戸惑い気味に声をかけてきた。慌ててカウンターから出て来た女性の頭から足元まで、その全身がマーブル模様に染まっている。

「すみません、急に、具合が悪くなってしまって…」

本当に申し訳ないです、と早口に謝りながら、なるべく夫婦の姿を視界に入れないように店から出ると、出口は急いで車まで戻った。




なんとか自宅に帰り着いたが、もう限界だった。
寝室に直行してロングコートを脱いだ出口は畳の上に倒れ込むと、それを掛け布団がわりにして気絶するかのように眠りについた。

次に目を覚ますと、夜の十時をとっくに過ぎていた。
霊の影響をまともに受けたのは久しぶりだ。小さい頃にそれで高熱を出して寝込んで入院までした時以来だろう。

「っ……」

重い上体を起こすと頭がガンガン痛む。真っ暗な室内は凍えるような寒さで、汗をかいた体から容赦なく体温を奪った。

「さいあくだ……」

そんなこんなで体調を崩した出口は、次の日からしばらく寝込んでしまった。



早朝に目を覚ました出口は、台所にあるコーヒーメーカーのスイッチを入れた。

ようやく体調が回復し、今朝はすんなりと起きれた。久しぶりに口にするコーヒーが空っぽの胃に染み渡る。

カップに口をつけながら客間に向かい、テレビのスイッチを入れた。
立ったままニュース番組を眺めていると、画面に映った『深ヶ集落で建物火災』という文字が飛び込んでくる。

『昨夜午後十一時ごろ、深ヶ集落の店舗付き住宅で火災が発生しました。消防によりますと、この家に住む夫婦2人の死亡がその場で確認されたということです』

報道局の男性が淡々と情報を読み上げる中、画面に犠牲者の写真が映し出された。

「な…」

あの古民家カフェを経営していた若夫婦だった。
出口は目を見張った。手に持つカップを危うく落としそうになる。

(まさか…な)

出口の脳裏に、あの日見た光景が浮かび上がる。夫婦の全身を染め上げるマーブル模様と、背後の女…。

『警察と消防によりますと、火はカフェの厨房から燃え広がったと見られています。この火災による近隣への被害はないということです』

出口が見たアレは、夫婦の死に関係があるのだろうか。
あの泥々とした渦を巻くマーブル模様が、頭から離れない。

「くそ、…」

一気に気分が悪くなる。酔いそうな吐き気を感じて口もとを抑えた。

テレビを消し、飲みかけのコーヒーに口をつける気にもなれず、出口は口もとを抑えたまま、カップを洗うために台所へと戻って行った。



午後に車を走らせた出口は、内子町にある道の駅に来ていた。
紅葉シーズンということもあり、道の駅は親子連れやバイクツーリングの団体で賑わいを見せている。

久しぶりに外出できた出口は、外の空気を思いっきり吸った。ずっと薄暗い家でひとり寝込んでいたせいか、今日は人で賑わう場所でリフレッシュがしたい気分だった。

直売所には、旬の野菜や果物が多く並んでいる。出口はカゴの中を眺めながらふと思った。

(あいつ、こういうとこの野菜を見るのが好きだったな)

脳裏に、妻の出口日和ひよりの姿が浮かぶ。
日和は明るい性格で、健康意識が高く料理好きだった。2人で遠出や旅行をする時は、必ず道の駅の直売所や朝市を訪れて買い物をした。珍しい野菜やその地域の食文化などを知れることが楽しいと妻は言っていた。

食への関心が薄かった出口にとって日和の存在は大きかった。彼女と一緒に食材を見て買い物をし、料理をして、一緒に食事をする楽しさを知った。

妻との結婚生活は幸せな思い出にあふれていた。だが、辛い思い出も一緒によみがえってしまう。
仕事を辞め、東京を離れて早数ヶ月。妻を失った傷は…まだ癒えそうにない。

「……!」

ぞわっ、と鳥肌がたった。
空気がひやりと冷えて、そしてどんよりと澱むのを感じる。
この感覚は…

(くそっ…またか……!)

何も目にせず、今すぐこの場から立ち去りたいと思った。
しかし足が動かず、視線が惹きつけられるように横を見る。

陳列台を挟んだ向こう側の通路に、お年寄りの女性がいた。1人で買い物をしている様子の女性は、商品を見ながらゆっくりと歩みを進めている。

その全身が、黒いマーブル模様に染まっていた。
女性の身体を泥々とした渦を巻くマーブル模様。そしてやはり、見えたものはそれだけではなかった。

女性の真後ろに、人の形をした黒いモヤがゆらゆらと揺れている。
出口はまるで金縛りにあったかのように硬直して、女性を、そのモヤを凝視した。

次第にモヤは人間の姿へと形を変える。やはり、白い着物姿の女だ。
古民家カフェで見た狐顔の女が、買い物を楽しむ女性の真後ろにぴったりと突っ立っている。

狐顔の女は青白い顔をやや伏せていたが、その顔がすっと上がった。
女性の背中を真っ直ぐ見ていたその顔が、ゆっくりとこちらに向く。その動きが、まるでスローモーションのように感じた。

見るな、見るな、見るな見るな見るなッ

こっちを、見–––


「ねぇ」

ぽんぽん、と後ろから軽く背中を叩かれた。大袈裟にビクッと肩を跳ねさせた出口は慌てて後ろを見る。

背筋がすっと伸びたお年寄りの女性が立っていた。小綺麗な容姿と、大らかで優しげな雰囲気をしている。

狭い通路を塞いでずっと突っ立っていたせいで、買い物の邪魔になっていたのだろう。そう判断した出口は慌てて道を空ける。

「すみません…どうぞ」

しかし女性は軽く首を振ると、出口に向かって内緒話をするように顔を寄せて小声で言った。

「貴方にも、アレが見えているの?」

「え…?」

「あそこにいる女の人を、驚いた顔でずっと見てたでしょう。あのマーブル模様が、貴方にも見えているのかしらって」

出口は驚いて目を見開いた。

「いや、俺は…」

「隠さなくてもいいのよ。私もね、貴方と同じものが見えてるから」

「…!」

ふふ、と困ったように笑う女性に、出口は困惑気味な視線を送る。

「ねぇ良かったら、このあと少しお話しできないかしら?座って、お茶でも飲みながら」

「……」

「急にごめんなさいね。でも、同じものが見えている人に、初めて出会ったものだから。話したいこともあってねぇ…」

女性はシワの目立つ目尻を下げて出口を見つめる。子供が縋るように親を見るような目だ。
出口はしばし悩んだ後に、小さく首を縦に振った。


外に設置された自販機で紙コップの飲み物を購入した二人は、野外のイートインスペースになっているデッキに向かった。
その女性と向かい合って座った出口は、最初にホットコーヒーに口をつける。軽く啜っていると、女性が先に口を開いた。

「若いわねぇ。大学生?」

「え?」

視線を上げた出口は、目の前でニコニコしている女性に苦笑いする。三十歳をすぎても周りから二十代後半に見られることは良くあるが、大学生は少し言い過ぎだろうと思う。

「いや、こう見えて三十三歳です」

「あらぁそうだったの。でも、若く見られるっていいことよね」

女性は口を閉じると、柔和な笑顔で出口を見つめる。まるで息子を見るような微笑みを向けられて、出口は何とも言えない居心地の悪さを感じた。

女性はマイペースなのか、紙コップに口をつけてのんびりと中身を飲み始めてしまう。「今日は涼しくていい天気ねぇ」などと言ってなかなか本題に入らない為、出口から積極的に口を開いた。

「申し遅れましたが、俺は出口といいます」

「あらあら、そういえばまだ自己紹介していなかったわね、ごめんなさいねぇ。私は香山。香山織絵かやまおりえよ」

「香山さん。あの、俺に話したいことと言うのは…」

「貴方が見ていたあの女性ね、私の知り合いで尾形さんっていうの。といっても、ここ数年の付き合いはなかったんだけど…」

織絵は眉を下げて暗い表情になる。

「かわいそうだけど彼女は、呪い殺されてしまうわ…」

織絵のその言葉に、出口は困惑する。

「呪いって…、どういうことです?」

すると織絵は、周りの人に気を遣ってか、声をひそめる。

「私、子供の頃に、アレと同じ光景を見たことがあるのよ。小学校の校長先生の体に」

そう言うと、織絵はその時のことを語り始めた–––。


横田織絵が小学三年生のあの日。
校庭に並んだ花壇の手入れをする校長先生の姿があった。生徒が下校する時刻によく見かける光景だ。

「校長先生さようならー」と言う子ども達に「さようなら。寄り道せずに気をつけて帰りなさい」と優しく声をかけて手を振る校長先生。

昨日も見た変わらない光景。
けれど、この日は違った。
織絵は門の前に突っ立ったまま、その光景に釘付けになる。
校長先生の全身が、黒い模様に染まっていた。

あの模様は、なに?
気持ち悪い…なんだかとても嫌な感じがする…。

織絵は不安にかられながら、花壇に水をやる校長先生を見つめる、すると、校長先生の背後に黒いモヤが現れた。そのモヤは次第に人の姿へと形を変えていく。

あっ、と声が漏れた。頭の中で警告が鳴る。
見ちゃダメ。あの姿を、ハッキリと見ちゃダメだ。

その時、少し先を歩いていた友達に名前を呼ばれた。ハッと金縛りが解けた織絵は、パタパタと走って友達に追いつく。

「どうしたの?忘れ物でもした?」
「ううん大丈夫、はやく帰ろ!」

織絵は友達の手を引いて、決して振り返らずにその場を離れた。


そんな出来事があった数日後に、校長先生が車の事故で亡くなった……。



「あのマーブル模様は、人を死に至らしめる呪いなのよ」

と、織絵は表情を引き締めて言った。
話を聞いた出口は、俯いて紙コップの中身を見つめる。

マーブル模様の…
呪い…

「だとして、どこからそんな呪いが…」

出口の口から無意識のうちに、困惑気味な言葉が漏れていた。
すると織絵は「今からする話が、呪いの原因に直接関係するかはわからないけれど…」と前置きする。

阿墨竹あずみだけって、聞いたことあるかしら?」

出口は顔を上げ、軽く眉を寄せて首を振る。

「いえ…知りません」

「竹の表面にマーブル模様が出来るのよ。阿墨竹は、深ヶ集落にある阿墨山あずみやまの竹林でしか育たない、とても貴重な竹と言われているわ」

「深ヶ集落…」出口は目を見開く。「最近、その集落に行ったことがあります」

「私はその集落出身なのよ。さっきの尾形さんも同じで、たぶん今もそこで暮らしていると思うわ。私は二十代で結婚したのを機に引っ越したから、ずいぶん前に集落を出たの」

織絵は、両手に持つ紙コップに視線を落として続ける。

「阿墨竹ができる阿墨山を所有しているのが、阿墨一族よ。阿墨家は阿墨竹を使用した竹製品の製造を生業としていて、深ヶ集落には阿墨竹工株式会社という工場があるのよ」

話しながら、紙コップの表面を指先でゆっくり撫でる。

「その会社の社長を勤めている女性が小中学校の同級生なの。名前は阿墨竹子あずみたけこ。私は彼女とあまり親しくなくて、殆ど口を利かないような間柄だったわ。けれど、小学生の時に一度だけ、初めて彼女の方から私に声をかけてきたことがあったの」

動かしていた指先を止めた織絵は、視線を上げて出口を見つめる。

「その時の彼女が、呪いという言葉を口にしたのよ」

織絵は再び、過去にあった出来事を話し始めた–––。




横田織絵が阿墨竹子と二人きりで初めて会話を交わしたのは、マーブリングの授業があった日の放課後のことだ。

織絵は生徒玄関にいた。他に誰もいない静かな空間で靴を履き替えて、さぁ帰ろうと立ち上がる。
ランドセルの持ち手をきゅっと握りしめて、足を踏み出したその時。

「ねぇ、待って」

織絵は足を止めた。
背後からかけられた声に驚きを隠せない。

「…竹子ちゃん」

「うん」

振り返って、名前を呼んだ。
織絵と同じようにランドセルを背負った竹子が、にこりともせずに立っている。

「えっと、…なに、かな?」

織絵は緊張気味に声を出して、ぎこちない笑みを浮かべた。竹子とは、初めてちゃんと話をする気さえする。

「うん。これ、あげる」

「え?」

竹子は近寄ってくると、右手を差し出してきた。織絵は視線を落とし、竹子の手のひらに収まった、竹で作られた兎彫りのキーホルダーを見つめる。

「これって…」

「うん。阿墨竹で作ったキーホルダーよ」

兎の形をした竹の表面には、黒いマーブル模様ができている。
このキーホルダーは、竹子の両親が経営する会社で作られている商品なんだろう。

「あ、ありがとう。…でも貰えないよ。だってこれって商品でしょ?お金払わなきゃ」

「いらないわ。これは私のだから、売り物じゃないの」

「でも…」

「私、織絵ちゃんと友達になりたいの」

織絵は驚いて竹子を見た。
竹子の口元はうっすらと笑っている。しかし織絵を真っ直ぐ見つめる目は冷たい。声もどこか事務的だ。

「そのためのプレゼントよ」

「嬉しいけど…やっぱり貰えないよ。ごめんね」

「……そう」

竹子は少し声のトーンを低くして呟くと、キーホルダーを黒のスカートのポケットに突っ込んだ。

「織絵ちゃんには、アレが見えてたの?」

「?」

唐突な質問に、織絵はきょとんとする。

「あ…あれって?」

「マーブル模様よ。織絵ちゃんには、校長先生の体がマーブル模様に染まって見えてたんでしょう?」

心臓がドキリとした。
無表情の竹子に、織絵は困惑の表情のまま、わずかに身を引いた。

すると竹子は、薄暗く笑う。

「あれ、呪いなのよ。あの模様に染まっている人は呪われていて、そのうち死んでしまうの」

「……!」

呪い…
死ぬ…
ああやっぱり、校長先生は…

目の前の竹子に、恐怖心が渦巻いた。

「私、帰るねっ、バイバイ!」

織絵は走って逃げた。
後ろから呼び止められることもなく、追いかけられることもなかった。

次の日から、織絵は竹子を徹底的に避けるようになった。
挨拶も、会話も、目を合わせることもなく。そうして年月は過ぎて行った……。




「…………」

出口は、気圧されたような顔で黙っていた。

織絵は、ゆっくりとした動作で紙コップに口をつける。
近くに座っていた若い男女が椅子から立ち上がってイートインスペースから離れて行く。観光客らしく、これから行く道後温泉の話で盛り上がっていた。

「今、何時かしら?」

ふと思い出したように織絵が聞いてきた。出口は腕時計を見て時刻を伝える。

「あら、もうそんな時間なの。帰って夕飯の支度をしなきゃ」

織絵は出口に向かってにこりと笑う。

「お話できて嬉しかったわ。ありがとう。またどこかで出会うことがあれば、声をかけさせていただくわね」

「…はい」

出口は小さく作り笑いを浮かべて頷いた。その時だった。

悲鳴が聞こえた。

ここから少し離れた場所から「誰かっ、人が急に倒れたの…!」と女性客が酷く動揺した声で叫んだ。次いで「大丈夫ですか!?」「救急車だ!はやく呼んで!」という男女の緊迫した声が響く。

「なにかしら…」

織絵が不安そうな顔をした。
出口は声が聞こえた方向に目を向けていたが、その目を織絵に戻して「ちょっと見てきます」と言って席を立った。

人が集まってざわついているのは、直売所の近くだった。出口は嫌な予感がしていた。この先にある光景を見たくないと思う。

うぅ…ゔぅう……

女性の呻き声が聞こえる。
出口は緊張に強張った顔をして近づいた。集まっている人たちの間から覗き見た光景。地面に、年配の女性が仰向けで倒れている。尾形だ。呼吸困難なのか、悶え苦しんでいる。

…ゔぅゔぅ…ぁあ゛ぁ……

尾形は喉を掻き毟っていた。血が、指先と喉元を赤く染めている。
職員の人たちが必死に対応する中、尾形の呻き声はだんだんとか細く、そして体の動きが弱々しくなっていく。

ぱた、と両手が地面に落ちた。
目を見開いて、口を開けて、動かなくなる。

ざわめきが広がった。
それらを目前にした出口はよろよろと後退り、その場から逃げるように離れた。

(いったい、何が起こってるんだ……)

車を停めてある駐車場へと向かいながら考える。

(何かがこの町で、起ころうとしているのか……?)

車に乗り込む。
心臓がバクバク乱れていた。エンジンをかける前に、気持ちを先に落ち着けようと煙草を取り出して火をつける。

「…くそッ…」

(もうこれ以上、俺の身の回りで何も起こらないでくれ……)

ハンドルに額を押し付け、出口はぎゅっと目を閉じた。






JR松山駅前からほど近いショッピングモールは、今日も多くの利用客で賑わっていた。

水野颯太みずのそうたは、ズボンのポケットから取り出したスマートフォンで時刻を確認する。お昼ご飯につけ麺を食べてから一時間が経過していた。
最近、金髪に染め直した顔まわりの毛先を無意識に指先で弄る。ふわふわした猫っ毛の髪質は、外出する前にセットした形を既に失っていた。

「颯太、そろそろおやつタイムにしない?今週でた新作のフラペチーノ飲もうよ」

少し前を歩いていた山本歌留多やまもとかるたが、振り返って笑顔を見せる。茶髪に染めたボブヘアがふわりと揺れた。颯太の猫っ毛とは違い、真っ直ぐ綺麗に伸びている。

彼女の片手には、今日の買い物の目的であるショッパーがぶら下がっていた。ショッピングモールでよく見るスポーツブランドのロゴが印刷されている。
中身はランニングシューズだ。
高校の時から愛用していたシューズが朝活ランニング中に使えなくなってしまったため、昨日急遽、買い物に付き合ってほしいと颯太に連絡が入った。

スポーツ好きな歌留多は、小学生の頃から空手を習っている。中高では空手部に入部し、県大会にも出場している実力の持ち主だ。つまり強い。一見、細身でか弱そうに見える女子大学生だが、格闘では男でも敵わないだろう。

「さっきつけ麺食べたばっかだろ。俺、まだお腹空いてないけど」

「さっきってもう一時間前でしょ。とっくに消化されたって」

「相変わらず歌留多の胃は燃費が悪いなぁ。ま、いいや。俺も喉乾いてたし」

「んじゃ決まりねー。さっきのつけ麺代は出してもらったから、フラペチーノ代は私が出すね」

同じ大学に通う同い年(十九歳)の歌留多とは、よくこうして二人きりで出かけたりする。
どちらかの買い物に付き合ってもらいたい時。気になるお店の食事に付き合ってもらいたい時。観たい映画やイベント事、ちょっと遠出して行きたい観光地。そういう時間を、二人はいつも共有している。

だからと言って、二人は恋人という関係性ではない。お互いに気の合う友達を誘う感覚で、そこに恋愛感情や下心は全くないのだ。

颯太には、昔から嫌いなことがある。
異性と仲良く話をしていたり、休日は二人きりで遊びに行ったりするだけで、周りから『あの2人は付き合ってる』と思われることだ。

『あの二人って仲良すぎだよねー。内緒で付き合ってるんだよ』
『距離感近すぎ。あれで付き合ってないとかありえないでしょ』

男女。異性。仲が良い。距離が近い。
それだけで、そう決めつけてくる連中にはうんざりする。颯太は歌留多のことを好いているが、恋愛対象としては見ていない。

前に、歌留多に自分のことをどう思っているか聞いてみたことがある。「颯太は男友達ってやつだよ」と、さっぱりした返答がかえってきた。歌留多も同じ気持ちであり、自分の考え方にも共感してくれた。

歌留多には変に気を使わなくていい。大学の男友達よりも、家族よりも、歌留多と過ごす時間の方が楽しくて居心地が良かった。
颯太にとって、歌留多は親友とも言える存在だ。

それから店内でフラペチーノを飲み終えた二人は、そろそろ帰ろうかと席を立った。
このあとの予定は、歌留多が一人暮らしをするアパートまで彼女を送り届けるだけだ。




二人を乗せたエレベーターが地下駐車場に停まる。

「あ、ちょっとトイレ行ってくる」

エレベーターの真横に設置されたトイレを見つけた歌留多は、そう言って駆け出した。

「じゃあ先に車乗ってるよ」

そう声をかけて、颯太はひとり駐車場の奥へと歩き出す。

颯太の趣味は車でのドライブだ。
免許を取得してすぐ購入した車で、長距離ドライブを楽しんでいる。最近は助手席に歌留多を乗せて出かけることが多い。今年の桜のシーズンには、歌留多の希望で高知県まで桜を見に長距離ドライブを楽しんだ。
今は紅葉シーズンだ。また歌留多と一緒に長距離のドライブを楽しむのもいいかもしれない。

視界の先に自身の車が見えた。歩きながら車のキーを取り出す。
その時、視界の端からフッと人影が現れた。

颯太は歩みを止めずに、ちらっと視線をやる。
スーツ姿の男だった。長身で痩せ型のインテリ風な髪型をした若い男だ。車と車の間から出て来た男は、颯太の方に向かって無表情のまま歩いて来る。眼鏡越しの冷ややかな目と視線が合う。

(………なんだ?)

言いようのない薄ら寒いなにかを感じて、颯太の方から視線をそらす。
男とすれ違おうとしたその時、鳩尾に衝撃と痛みが走った。男が拳を打ち込んできたのだ。

突然のことに反応が遅れた。体がよろめく。見知らぬ男からの暴力に頭が混乱した。

(なん、だ、コイツ……っ!!)

「ッ、ぅ…」

背中を折り、鳩尾を抑える。両足を踏ん張り、男を見上げた。
目の前の男は無言のまま、冷ややかな目で颯太を見下ろしている。こいつヤバい、と遅れた危機感に襲われた。

男から逃げようと動く。が、それよりも早く男の強烈な蹴りを受け、体が真横に吹っ飛んだ。

「かッ」

短い悲鳴が漏れる。体を車のボンネットに打ちつけた。
ずるずると地面に膝をつく前に、伸びてきた男の腕に胸ぐらを掴まれ、そのままボンネットに背中を押し付けられた。

「…っ……!」

強い圧力をかけられ、逃れられない。

「あ、んた…!なんの、つもり…っ…」

問いかけに男は無言だ。さっきから表情ひとつ変えず、冷ややかな目でじっと颯太を見下ろしている。

「颯太……!?」

歌留多の声が響いた。
霞む視界に、歌留多が走って来る姿が映る。

胸ぐらを掴む腕にぐいっと力が入り、体を引き起こされた。
人質にとるかのように男が背後にまわり、無理やり立たされて両手を後ろ手に拘束される。

少し距離を空けて歌留多が立ち止まった。この状況にひどく困惑している。

「……君が、山本歌留多だな?」

男が初めて口を開いた。落ち着いた、低い声だ。

「颯太を離せ」

歌留多は男を睨みつけながら強く言い放った。その声からは緊張が伝わってくる。

「この男を解放してほしいなら、私と一緒に来てもらおうか」

男が淡々とした口調で言った。
颯太は眉間に眉を寄せる。

(この男の目的は歌留多なのか…?)

その時、エレベーターの方角から他の利用者の話し声が響いた。若い連中なのか、大きな笑い声が地下駐車場にこだまする。

その声に気を取られた男に、一瞬の隙が生まれた。
それを見逃さなかった颯太は、背中を思いっきり男に打ち付ける。不意をつかれた男が、後方によろめいた。

今だ–––!内心で叫んだ歌留多が動いた。男との距離を一気に詰めると、颯太の頭ひとつ分出ている男の顔面めがけて、拳を打ち込む。

ゴッと、こめかみ辺りにヒットした。手応えあり。男は大きくよろけ、颯太の両手を離す。
拘束が解けた颯太は迷わず走った。向かう先は自身の車だ–––。

「、ッ…」

男は声を噛み殺して頭を抑えると、よろけた足に力を入れて体勢を立て直す。その間にも、歌留多が次の攻撃を放った。

「はあッ!」

気合いの声を上げて、歌留多は男の体に向かって回し蹴りを放つ。攻撃がヒットした男の体が車と車の間まで飛び、コンクリートに打ち付けられた。衝撃で落ちた眼鏡が、コンクリートの上を滑る–––。

颯太は運転席に乗り込んだ。エンジンをかけ、アクセルを踏み、駐車スペースから車を出す。いつもなら周りの車に気を遣って慎重な動きになるが、今はそんな冷静さも余裕もない。

颯太の車が走って来ることに気づいた歌留多は、通路の端に寄った。歌留多の真横で車を停めた颯太が、窓越しに叫ぶ。

「歌留多、乗って!」

歌留多が助手席を開けて素早く乗り込む。それを確認した颯太は再び車を発進させた。
颯太はバックミラーに視線をやる。男が追ってくる姿は見えない。

二人を乗せた車は地下駐車場を出ると、そのまま大通りを走り出した。






サイドミラー越しに遠ざかるショッピングモールが見えなくなって、ようやく安堵した颯太は肩の力を抜いた。

「颯太、大丈夫?」

隣から歌留多が心配そうに声をかけてきた。颯太は前を向いたまま弱々しい笑い声を漏らす。

「ははは…。あちこち痛いけど、まぁ大丈夫だよ」

「あんにゃろう、もう一発殴っときゃよかった!」

おさまらない怒りを吐き出した歌留多に、颯太は苦笑いを浮かべる。歌留多がやり返してくれた時はスカッとしたけど、あの男は大丈夫だろうか…とちょっと心配にはなる。

「それより歌留多。さっきの男は一体何者なんだ?」

「え?知らない」

「知らないって…、向こうは歌留多の名前を知ってたけど?」

「マジで知らない男だったよ。なんで私の名前知ってたんだろ?」

歌留多は腕を組むと、う〜んと首を傾げた。

「…あの男、歌留多を狙ってたよな」

「ヤバ。もしかしてストーカーとかかな」

と言いつつ、怯えた様子を見せないのが歌留多だ。颯太は体の痛みに耐えつつ、運転に集中しながら口を開く。

「とにかく、あの男は歌留多のことを知っていた。一人になった歌留多を直接狙わずに俺を人質にしたのも、歌留多の強さを知っていたからだろうな」

「ほんっと卑怯な男!やっぱもう一発殴っとけばよかった!」

歌留多は拳を握って悔しがっている。

「とりあえず、今日はこのままアパートまで送るよ」

疑問と不安を抱えたまま、颯太は車を走らせた。




二人を乗せた車は、歌留多のアパートがある住宅地に入り込む。
アパートが前方に見えたその時「待って、停まって」と、横から歌留多が鋭い声で言った。

「どうかした?」

「あの車、なんか怪しくない?」

颯太は車を停めると、歌留多が指さす先にある黒い車を見た。エンジンを切った黒い車は、アパートの前に横付けで停車している。

颯太は目を凝らして、運転席に座っている人物の顔を確認し、驚いた。

「あの男だ…」

「マジ?私のアパートまでバレてるなんて…」

歌留多の顔に不安が過ぎる。見知らぬ男の行き過ぎた行動に恐怖を覚えた。

「颯太、どうしよう…?」

「気づかれる前に退散しよう。とりあえず、今夜は俺のアパートに泊まるといいよ」

「うん、わかった」と歌留多は頷く。
どうか気づくなよ、と颯太は内心で祈りながら車をバックさせてハンドルを回し、右折した道から住宅地を出ると、自身のアパートへと車を走らせた。



颯太の車が去ってからしばらくして、黒い車にエンジンがかかると静かにその場から発進する。

ハンドルを握る男はため息をついた。あのまま長時間停車していると、流石に悪目立ちして近所の住人に通報されかねない。

あのアパートで山本歌留多が一人暮らしをしていることは間違いない。今夜はこの付近に潜み、彼女が帰宅する時間を狙うしかないだろう。

住宅地で見つけたコインパーキングを利用することにした。駐車スペースに車を入れてエンジンを切ったタイミングで、スーツのポケットが震えた。スマートフォンを取り出して相手を確認した男の顔が、僅かに曇る。

「はい、榛名はるなです」

『私よ。仕事は上手くいったのかしら』

相手の女性が短く応じた。年齢を感じさせない、品と艶のある声だ。

「申し訳ありません。ターゲットに接触は出来たのですが…取り逃しました」

相手の口から深いため息が響く。

『何をしているの。今日中に孫を此処へ連れて来る約束だったでしょうに』

「申し訳ありません…」

『まぁいいわ。けれど、もう失敗は許しませんよ』

「はい」

『急ぎなさい、榛名。……私にはもう、時間が残されていないのだから』

その声色からは深刻な重みを感じられた。榛名はぎゅっと目を閉じる。

「はい、社長。次こそは必ず……」

一度閉じた目を開き、鋭い双眸で前を見据えた。




その日の夜。
夕食を終えて風呂から上がった出口は、就寝前に少し調べものをしようと、寝室の机に置いていたノートパソコンの前に胡座をかいて座った。火のついた煙草を口に咥えてキーを打ち、【阿墨竹工株式会社】のホームページに目を通す。

–––明治創業。竹材・竹製品の製造業会社は、深ヶ集落にある阿墨山を所有している。そこの竹林でしか育たない阿墨竹は、竹の表面にマーブル模様ができる不思議な竹だ。なぜマーブル模様ができるのか解明はされておらず、世界的に見ても珍しく貴重な阿墨竹は、日本庭園や宿泊ホテルの内装など、あらゆる場所で用いられている。

社長挨拶のページを開くと、一枚の写真が載っていた。着物姿の高齢女性が、凛とした佇まいで微笑んでいる。

(この女性が阿墨竹子か…)

しゅっとした細長い狐顔を見ていると、古民家カフェで目撃した着物姿の女を思い出した。若夫婦の背後に立っていた女は、十代後半から二十代前半に見えた。阿墨竹子とは年齢差があるが、それでも、どことなく顔のつくりと雰囲気が似ている気がする…。

「…、……」

思い出して背筋がぞくっとした。嫌な寒気を振り払うように紫煙を強く吐き出して、短くなった煙草を灰皿に押し付ける。

出口はノートパソコンを閉じると、押入れから布団を出すために腰を上げた。






……ゆっくりと、目を開ける。

出口は東京駅にいた。
がやがやと騒がしい夕刻の駅構内。たくさんの人が行き来する改札口を目の前に、出口はノーネクタイの仕事着姿で突っ立っている。
自分の状況がわからず、しばらくぼんやりとしていた。数ヶ月前まで当たり前のようにあったこの光景が、どこか他人事のように感じる。

「春!」

名前を呼ばれた。改札口を通って、OL風の若い女性が笑顔で走って来る。

日和ひより……?」

出口は目を見張った。
なぜ?どうして…

「お待たせ。待った?」

「あ…、いや……」

「どうしたの?なんか幽霊でも見たって感じの顔しちゃって」

目の前でくすくすと笑う日和を見下ろす。
ああ…そうか。
これは夢だ。
妻が生きていた頃の記憶が、夢に現れているだけ。妻が亡くなってまだ日が浅い頃、よく見ていた夢だ。

結婚する前は仕事終わりに東京駅で待ち合わせをして、居酒屋やレストランで夕食を共にしていた。

目の前で「今夜は春が行きたがってた居酒屋だよね。楽しみ」と笑顔を見せる日和を引き寄せて、出口はその体を正面からそっと抱きしめる。

「えっ、どうしたの、春」

「なんでもない…」

「とか言って…なんか元気ないじゃん。なになに、仕事で失敗でもしたの?話聞くよ」

腕の中から聞こえる日和の声が優しくて泣きそうになった。

くすくすくす……

腕の中で日和が、小さく肩を震わせて笑っている。
出口は柔らかな笑みを浮かべて、少し腕の力を緩めた。そして日和の顔を見下ろして–––凍りつく。

クスクスクス……

腕の中にいたのは日和ではなかった。
長い黒髪に、細長い狐顔。古民家カフェの夫婦の背後に立っていた、白い着物姿の年若い女…。

女は口を三日月のようにして、壊れたカラクリ人形のように首を小刻みに揺らしながら、歯茎を剥き出しにしてケタケタと嗤う。

「……っ!」

背筋を悪寒が走り抜け、出口は顔を引き攣らせた。景色が一変し、真っ暗な闇が広がる。

女の華奢で蒼白い手がすっと上がり、出口の頬に触れた。女の指先が、出口の力ない唇をゆっくりと撫でてくる。

「…っ……」

氷のように冷たい指先の感触が唇に伝わり、ゾッとした出口は女を強く突き飛ばした。

長い黒髪と袖が、スローモーションのようにゆらゆらと揺れる…
女が狂ったように嗤う声が、轟きのように鼓膜を震わせる…

出口はぎゅっと目を閉じて、両耳を塞いだ。そしてその不快なすべてを振り払うように、頭を大きく何度も振った。

(……、?)

その時、強い香りを嗅いだ。
深い森の中で香るような、これは……

竹の、香り……?

………………
……




布団の中で目を覚ました出口は、びっしょりと嫌な汗をかいていた。呼吸するたびに胸元が大きく上下している。

「はぁっ……はっ……」

嫌な夢だった。
カーテンの向こうは明るい。スマートフォンで時刻を確認したいが、腕も体もひどく重かった。体調不良がまたぶり返しそうだ。

「…くそっ……」

女の嗤い声と、強い竹の香りが忘れられない。出口は片腕で目元を覆い、ぎゅっと目を閉じた。


そのまま布団から出られず、ようやく抜け出したのは目覚めてから二時間後だった。
遅い朝食を取る気にもなれず、昼食と含めてホットコーヒーだけを口にする。淹れたてのコーヒーを手に廊下に出ると、窓を全開にして両足を外に投げ出して座った。

風が気持ちいい。
何も考えずぼうっとしていると、ズボンの尻ポケットに突っ込んでいたスマートフォンがメッセージの受信音を発した。マグカップを片手にスマートフォンを操作する。メッセージアプリを開くと、前職の同僚からだった。

同期の彼とは成績を競い合いながらも良きライバルという関係性だった。妻を亡くした出口が心身ともに疲弊し仕事を辞めるところまで追い詰められた時も、彼は誰よりも一番に気にかけてくれていた。

『久しぶり。元気にやってっか?
そっちでまだ就職先決まってないなら、俺が昔お世話になった松山市にあるIT会社が早急に一人雇いたいって言ってるからさ、お前を紹介してもいいか?職場の環境もいいし、無理なく働けると思うぞ』

そういえば、と出口は思い出す。同僚は香川県出身で、前職は松山市のIT会社で働いていたと言っていた。そう思い出すと同時に、やっぱりいい奴だな、と改めて思う。

「…とりあえず、面接は受けてみるか」

そう前向きに考えて、同僚にメッセージを返した。




「頼むよ颯太、このとーりだ!」

大学の友人が顔の前でパンっと手を合わせて、懇願してきたのが十分ほど前。
颯太は少し悩んで、特に用事もなかったため了承した。そして友人と二人で学内の廊下を歩いている。

友人の頼みは、オカルト研究会の見学に付き合ってほしいということだった。
今日一緒に見学する相手が急なバイトで行けなくなり、代わりの人を探していたが全員に断られてしまい、颯太に順番が回ってきたというワケだ。

一人で行けばいいだろ、と颯太が言うと友人は苦笑する。サークルの部長に二人で見学に伺うと言った瞬間「二人も!?ありがとぉお!」とめちゃくちゃ喜ばれたらしい。変わったサークルだからかメンバー数も少なく、今年はまだ新メンバーも加わっていない。だから部長は焦っているんだろう。

(…ま、見学しても俺は入らないけど)

颯太は内心そう思いながら友人について行き、オカルト研究会の部室に入った。



「オカルト研究会へようこそ〜!座って座って!」

にっこり笑顔で出迎えてくれたのは、部長の香山夏海かやまなつみだ。
赤いフレームのお洒落なデザインをした眼鏡と、明るめに染めたミディアムヘア。オカルト好きな人間というと少し陰キャなイメージを持たれそうだが、颯太から見て彼女の第一印象は陽キャだ。

全員が長テーブルを囲んで座った。
目の前に置かれた紙コップの中身は蜜柑ジュースだ。テーブルの中央にはポテトチップスやチョコレートの袋がたくさん置かれている。

部室内には他に五人の男女がいた。サークル活動を行う時には必ず参加してくれる安定したメンバーだと、夏海は笑いながら言った。

「まずはみんなで自己紹介しましょ。名前と趣味と、あとは一つ心霊体験を語ること。二人も体験談があったら聞かせてね。あ、もちろん家族が体験した話とか、他人から聞いた話でもいいよ!」

じゃあ小野田君から右回りでお願いね、と夏海が一番端の席に座っていた少年に言った。小野田が席を立って自己紹介と心霊体験を語り始める。

一人だいたい五分程度で、次の人に順番が回っていく。
颯太は紙コップに口をつけて、ちらっと隣を見た。オカルト好きな友人は楽しそうに先輩たちの話に聞き入っている。

一方で、颯太は少々退屈していた。
良くある展開やどっかで聞いたことがあるような心霊体験はあまり怖くない。それよりも自分は何を話せばいいだろうかと悩んだ。生まれてこの方心霊体験などしたことがない。

(人怖でもOKなら、見知らぬ男から受けた暴行被害の話でもしてみようかな…)

「じゃあ、次は私の番ね」

メンバーラストの自己紹介は夏海だった。夏海は椅子を引いて立ち上がる。

「オカルト研究会の部長、香山夏海。趣味はもちろんオカルトの研究と、ホラーゲームをプレイすることかな」

夏海は眼鏡を指先で押し上げると「この心霊体験は、最近仕入れたばかりの話よ」と、どことなく自信たっぷりな様子だ。

「これは父方の祖母が小学生の頃に体験した話。タイトルはそうね……『マーブル模様の呪い』よ」

夏海はまるで、怪談師のような口調と雰囲気を纏って話し始めた。

話の内容は簡素にまとめるとこうだ。
祖母が小学三年生の時に、校長先生の全身が黒いマーブル模様に染まっているのを見た。するとその背後に黒いモヤが現れ、そのモヤは次第に人の姿へと形を変えていく。それを見るのが怖くなった祖母は急いで逃げ帰った。
それから数日後に校長先生が車の事故で亡くなった。祖母は、あのマーブル模様に校長先生は呪い殺されたんだと、そう感じて一人怯えていた。
そんなある日、祖母はクラスでもあまり話さない一人の女子から初めて声をかけられて、アレが見えているのかと問われる。怯える祖母に向かってその子は言った。
あの模様に染まっている人は呪われていて、そのうち死んでしまうのだと……。


(マーブル模様の呪い…か)

退屈していた颯太も、夏海の話には関心がもてた。

「なんか新鮮というか、初めて耳にする話っすね」

隣で友人が興奮気味に言った。
確かに、と颯太は思う。似たような心霊体験や怪談話で溢れかえるこの時代に、『マーブル模様の呪い』というのはどこか新鮮みがある。

「でしょでしょ。おばあちゃんは霊感が強い人だから昔から私にいろいろ語ってくれたんだけど、この体験談はずっと人に言わないようにしてたみたい。けど最近、またあのマーブル模様に染まっている人を見ちゃったんだって。ってことは、この呪いは今現在も、何処かで誰かを呪い殺してるってことなんだよね」

ニッと口角を上げた夏海は、キラリと眼鏡を光らせて声高に言った。

「というわけで!次の活動は、この『マーブル模様の呪い』を解明するってことで、どう?」

するとメンバーから次々と「いいですね!」「やりましょう!」と声が上がり、部室内が急に活気出す。

「なぁ颯太、どうだ?」と、友人がこそっと耳打ちしてきた。

「どうって?」

「お前もこのサークル入らねーかってこと」

すげぇワクワクするだろ!と、さすがにちょっと図々しい友人に、颯太は苦笑いした。





部室を出て友人と別れた颯太は、その足で学食に向かいながらため息をつく。もちろん、友人の誘いはきっぱりと断った。

「あっ、颯太やっと見つけた!」

歌留多が走って来ると目の前で止まった。

「そんなに慌ててどーした?」

「スマホに連絡したのに見てないの?ずっと探してたんだよ」

「あぁごめん、見てない。さっきまで友達と一緒にサークル見学してたんだよ」

「あの男がいたの」

「え?」

「ショッピングモールで襲って来たあの男が、学内に居たんだよ!」

マジかよ…と颯太は驚いた。

「本当にあの男だったのか?」

「スーツ姿じゃなくてラフな私服だったけど、間違いないよ」

「……」

「ヤバいよ颯太。あいつ、私のこと探してるのかも」

歌留多が不安げな視線で颯太を見つめる。

「…よし。見つかる前に逃げよう」

「逃げるって、どこに?」

「とりあえず俺のアパートに。後のことはそこで考えよう」

「うん、わかった」

周りに警戒しながら大学を出た二人は、颯太のアパートへと向かった。



アパートの途中にあるスーパーに寄って、二人はそれぞれパンや飲み物を買った。

歌留多は勝手知ったる颯太のワンルームの室内で、昼食の焼きそばパンを浮かない顔つきで食べている。
テーブルを挟んで正面に座っている颯太も、サンドイッチを食べながら似たような顔つきだ。

「…さすがに大学まで来るのはヤバいな。もう警察に相談した方がいいんじゃないか?」

「私もそう思ったけど証拠とかないし、それで警察が動いてくれるとは思わないんだよね」

「うーん……確かに」

歌留多の言う通り、ストーカー被害を訴えたところで警察がきちんと動いてくれる気はしない。そもそも、ストーカーなのかもまだハッキリしていない状況だ。

「歌留多は、やっぱりあの男に見覚えはないんだよね」

「うん」

歌留多は口をもぐもぐさせて頷く。

「親父さんには相談した?」

「え、お父さんに?ううん、まだ」

「もしかしたら、親の方に関係があるかもしれない。あいつスーツ着てたし、親父さんの部下の可能性だってある」

「なるほど。それは言えてるね!」

今気づいた、というような反応を見せる歌留多。テーブルに頬杖をついた颯太は、思考するように視線を宙に向けた。

歌留多と仲良くなって間もない頃に、颯太は歌留多が父子家庭だということを知った。父親は外資系企業でバリバリ働いていて海外出張も多い。今この時もロンドン出張中だ。

歌留多が高校に入学するタイミングで両親は離婚し、それから歌留多は母親と一度も会っておらず、一切の連絡も絶っているという。離婚の原因も百パーセント母親にあるんだと口にした歌留多がそれ以上のことを語らずとも、母親に対しての嫌悪感を露わにした顔を隣で見ていた颯太は、本当に酷い母親だったんだろうと悟ったのだった。

「お父さん、恨まれるような人じゃないんだけどなぁ……」

目を伏せた歌留多が少しショックを受けている様子を見て、颯太は慌てて言った。

「いや、まだ親父さんの部下と決まったわけじゃないしさ。でも、念の為に話しておいた方がいいよ」

「うん…そうだね。まだ海外出張中だから、心配かけさせない程度に伝えておくよ」



外が薄暗くなり始めた夕刻。
先にシャワーを浴びに歌留多が風呂場に消えて行く。颯太は引き出しからバスタオルを出しながらふと、ベランダのカーテンを閉めていないことに気づいた。

アパートの二階で男の一人暮らしだとつい忘れてしまいがちだが、今日は早めにカーテンを閉めたほうがいいだろう。そう思って窓に近づきカーテンを引こうとしたが、道路に面した窓の外を見てぎょっとした。

車のエンジン音を響かせて、黒い車がアパートに近づいて来ている。あれ?あの車って……

あの男の車だ。

「嘘だろ、俺のアパートまでバレてるのか…」

口から無意識に声が出た。
慌ててカーテンを閉める。後ろ手にカーテンをぎゅっと握りしめたまま窓に背を向け、困惑する頭を働かせた。

(どうする?どうする!? くそッ……とにかく逃げるしかない!)

「歌留多!」

颯太は脱衣所のドア越しに歌留多の名前を叫んだ。中から「なーにー?」と何も知らない呑気な返答がある。

「あの男がすぐ近くまで来てる!すぐに車で逃げよう!」

「えっ、マジ!?」

ガラッとドアが開いて、下着姿の歌留多が姿を見せる。

「俺は荷物をまとめるから、はやく服着直して!」

「わかった!」

歌留多が急いで服を着直す中、颯太は通学用のリュックから必要ないノート類を取り出して、空いたスペースに必要最低限のものを詰め込んだ。

素早く荷物をまとめた後にもう一度窓に近づいて、少しだけカーテンをそっと開ける。外を覗くと、黒い車はアパートから少し距離を置いた道路の端に停車していた。

「颯太、奴はもう来てる?」

服を着直した歌留多が脱衣所から出てきた。颯太はカーテンを閉じて振り向く。

「ああ…。とにかく荷物を持って出よう。車に乗れれば逃げられる」

颯太はテーブルの上に置きっぱなしにしていたスマートフォンと車のキーを持った。すると歌留多が何やら思案する顔をして黙り込み、そして口を開く。

「颯太。私が囮になってる間に、車を動かして」

「え?」

「アイツもうこっちに来てるんでしょ?私が外でアイツの相手してる間に颯太が車を動かしてくれたら、ショッピングモールの時みたいにタイミング合わせて逃げられると思うの」

「けど、あの男の目的は歌留多で、」

「二人で一緒に車まで向かってたら、アイツはまた颯太を人質にとるかもしれない。私が足止めしてた方が、確実に車を動かせるよ」

と、歌留多は真剣な顔をして言った。
颯太は言葉に詰まる。このまま呑気に言い合っている時間はない。大丈夫だ、歌留多は強い。捕まるなんてことは絶対にない。

「わかった。頼むよ、歌留多」

「任せて」




歌留多が玄関から飛び出したあと、颯太は窓に近づきカーテンを少し開けて外を覗いた。

すでにアパートの前には、私服姿の男がいた。立ち止まっていた男が二階を見上げる。颯太は慌ててカーテンを閉じた。少し間をおいてから、ゆっくりと隙間から覗く。

歌留多の声が聞こえた。男が視線をそちらに向ける。颯太も見た。男から少し距離を空けて歌留多が立っている。腰に両手をあてて余裕の態度をとり、男に向かって何か言っている。

「…よし」

颯太は窓から離れて室内の電気をすべて消した。しばらくここには戻って来られない気がする。
歌留多のリュックも一緒に持って玄関に向かい、鍵をかけて、音を立てないように鉄階段を降りる。

鉄階段を降りた先には広めのスペースがあり、そこが入居者の駐車場になっている。アパートから一番離れた場所を借りて駐車してある自身の車まで走って行った颯太は、素早く後部座席に荷物を置いてから運転席に乗り込むと、エンジンをかけた。





歌留多は男と対峙していた。
男は歌留多の突然の登場に少し驚きを見せたが、すぐに冷静な表情に戻る。

「そっちが来る前にこっちから来てやったよ。で、私に何の用?どこで情報調達してんのか知らないけど、颯太は関係ないんだから巻き込まないでよ」

歌留多はむすっとした顔で言った。
男が静かに口を開く。

「単刀直入に言うと、私は君の祖母、阿墨竹子さんの指示で動いているんだ。社長から、君を阿墨家に連れて来るよう指示を受けた」

「……は?」

「私の名前は榛名一はるなはじめ。阿墨竹工株式会社の従業員だ」

榛名は淡々とした口調で告げると、歌留多に近づいて名刺を差し出した。だが歌留多は数歩下がって距離を戻し、名刺も受け取らない。

「……私はもう、阿墨の人間とは縁を切ってるよ」

歌留多は榛名を睨め付けた。

「今さら何の用があるっていうの?まさかあの女も関係してる?そっか、お父さんと離婚してから実家に帰ったって聞いてるけど、だったら尚更あの家に行くなんて御免だね。あの女には二度と会いたくない」

「君の母親の阿墨竹乃たけのさんは今、行方不明になっている」

歌留多は一瞬驚いただけで、すぐ眉根を寄せて苛立たしげに言う。

「だから何?他人のことなんて興味ないよ」

「……」

「とにかく私は行かないから。無理矢理にでも連れて行くってんなら、私も手加減しないよ」

そう言い放った歌留多に、榛名は冷たい目を向ける。

先に歌留多が動いた。
一気に距離を縮めると、回し蹴りを繰り出す。榛名はその攻撃を瞬時にかわすと、歌留多の腹部に向かって拳を叩き込んだ。

「うッ」

歌留多は唸り声を漏らし、よろけた足に力を入れて体勢を立て直した。
殴られた痛みよりも、一発目を先にくらわされた悔しさの方が大きい。

「多少の乱暴は、許可を得ている」

無情な声だった。

「ハッ、そう来なくっちゃ!」

歌留多は榛名の顔面めがけて拳を打ち込む。榛名は顔の横でその拳を避けると、両手で歌留多の二の腕を掴んだ。歌留多は両足が地面から浮いて、軽々と投げ飛ばされる。

「っ!」

軽く地面を転がった後すぐさま起き上がって体勢を整える。歌留多はギラついた目で少し先にいる榛名を睨んだ。

(こいつ…、けっこうやるじゃん)

歌留多は苦い表情になりながらも、歯を食いしばった口元に笑みを浮かべた。

(一方的にやられてたまるか!)

気力が一気に燃え上がった。
歌留多は榛名に向かって突っ込んでいく。ヤケクソを起こしたと勘違いした榛名が油断を見せるのを、歌留多は見逃さなかった。

榛名が攻撃を受け止めようと身構えた瞬間、歌留多は急ブレーキを踏んだ。

すぐ目の前で止まった歌留多の行動に、意表を突かれた榛名は眼鏡の奥の瞳を僅かに見開く。その瞬間、歌留多の強烈な回し蹴りが脇腹にヒットした。その衝撃で後方に飛ばされた榛名は、塀に背中を強く打ちつける。

「…ッ、…」榛名は地面に腰を落とし、痛みに眉を歪めた。そして自分を見下ろすように立つ歌留多に向かって口を開く。

「君も阿墨の血を引く娘なら…宿命からは逃れられないぞ……」

「宿命?なんのこと–––」

その時、近くから響いたエンジン音が歌留多の声を遮った。颯太の車がこっちに向かって走ってくる。

歌留多は車の方に向かって走って行くと、ブレーキを踏んだ車の助手席に滑り込んだ。すぐさま車が発進して、塀にもたれかかっている榛名の前を通過する。

今回も上手くいった…と、颯太は安堵の息を吐いた。助手席で腹部をさすっている歌留多に気づいて声をかける。

「歌留多、大丈夫?」

「ちょっと殴られたけど全然へっちゃらだよ。アイツ結構やるやつだったから、久しぶりに熱くなっちゃったな〜」

へらへら笑っている歌留多の隣で、颯太は眉根を寄せて顔を曇らせた。「あのさ…やっぱり警察に相談しに行、」

「それは駄目」

と、歌留多が鋭い声で颯太の言葉を遮った。びっくりした颯太がちらっと助手席を見ると、歌留多は怖い顔をして下を向いていた。

「歌留多?」

「……アイツ、阿墨竹工の従業員だって言ってた」

「えっ」

颯太は驚いた。
愛媛県ではそれなりの知名度がある竹製品の会社だ。そこの社長が歌留多の母方の祖母だということも知っている。

「名前は榛名一。社長から、私を阿墨家に連れてくるように命令されてるんだってさ」

「え、どうして?」

「わかんないよ。こっちは阿墨の人間とはとうの昔に縁を切ってるのに、今更なんの用って感じじゃん!しかもあんな乱暴な従業員つかって無理矢理連れて来いって、頭おかしいよ!」

そう叫んだ歌留多は苛立ちを露わにした。颯太は前を向いて冷静に考える。

歌留多の方は縁を切ったと言っているが、両親が離婚して夫婦の縁は切れたとしても、親子の縁を切ることはできない。この場合だと母親側に、子である歌留多が関係する何らかの事情が発生した可能性がある。

「もしかしたら、親父さんが何か知ってるんじゃないかな。聞いてみたら?」

「お父さんが?まぁ、その可能性はありそうだけど。……今は出張中だし、仕事の邪魔はしたくない」

歌留多は表情を翳らせてそう言った。
父親に心配をかけたくない、迷惑をかけたくない。歌留多のその気持ちを、颯太は受け入れた。

「アパートにはしばらく戻らない方がいいな。大学も休んで、このまま遠くまで逃げてみようか」

冗談っぽく言って笑う颯太を見た歌留多は、申し訳なさそうに眉を下げた。

「颯太。こんなことに巻き込んで、本当にごめん…」

「いいよ。俺と歌留多の仲だろ」

颯太は微笑んでみせた。
つられたように歌留多も笑う。


2人を乗せた車は、松山市外へ向かって走り去ってゆく–––…。



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