第二章 死を呼ぶ呪い
■
夜十時過ぎ。
煙草を切らした出口は、自宅から徒歩十五分ほどの距離にあるコンビニまで歩いていた。車で行くか迷ったが、夜風にあたりたい気分だった。田舎の夜空には都心では拝めない星が見える。田舎に移住してからお気に入りになっている時間の一つだ。
よく利用するコンビニに入った。
店員は中年男性のワンオペで、店内に客の姿はない。出口はカゴを持つと、先に朝食用の食パンとロールパンを入れ、そしてお酒コーナーへ向かった。
缶ビールを取り出していると、店内に入店音が鳴り響いた。店員のいらっしゃいませ〜と言う緩い声が聞こえる。
「……?」
急に漂ってきた香りに気づいた。コンビニには不釣り合いなこの香りは…
……竹の、香りだ。
「…、……」
お酒の陳列棚を目の前に、出口は体を強張らせた。夢の中で嗅いだ竹の香りがする。
一体どこから…?
その香りが漂ってくる原因を探る。
視線はお菓子コーナーで止まった。
そこに、一人の女性客がいた。
高校生か大学生くらいに見える。彼女は前屈みになってお菓子を選ぶと、スナック菓子やチョコの袋を両手に持ってそのままレジの方へ歩いて行った。
出口がその動きを目で追っている間にも、竹の香りが漂ってくる。
気持ち悪い……
「っ、……」
その香りを嗅いでいると、だんだんと気分が悪くなってきた。
お酒の陳列棚へ体の向きを戻し、目をぎゅっと閉じて、片手で鼻と口元を隠す。
……、…気持ち悪い……
悪臭とは言えない香りだが、それでもなぜか気分が悪くなる。口元をおさえた手が、指先から徐々に冷えていく。
「あのー、大丈夫ですか?」
すぐ近くから少年の声がした。
目を開けて横を見ると、まず最初に猫っ毛の明るい髪が目につく。童顔で華奢な体つきをした大学生くらいの少年が立っていた。心配しているというより、不思議そうな顔をして出口を見ている。
「あ…いや、…」出口は言葉を濁らせた。ふと、いつのまにか竹の香りがしなくなっていることに気づく。
視線を動かしてあの少女を探すと、ちょうどレジで会計を済ませて外に出て行く姿が見えた。
その姿を無言になって目で追う出口に、少年が怪訝な顔になる。出口はハッとして少年に視線を戻した。
「大丈夫だ」と口にして、出口は平然を装いレジに向かう。内心では何だったんだ、と困惑していた。
素早く会計を済ませてエコバッグを片手に自動ドアへ向かう。早く帰ろうと思いながら外に出てすぐ、何やら騒がしい声に顔を上げた出口は、目にした光景にげんなりした。
「だーかーら、すれ違う時わざとぶつかって来たでしょって言ってんの!」
前方にさっきの少女の背中が見えた。少女は目の前に立つ成人男性に向かって威勢のいい声を上げている。ガラの悪い見た目をしたその男は酒に酔った顔をしていた。
「ハア?おいおい酷いな〜。証拠はあるのかよお嬢ちゃん」
男が小馬鹿にした笑みを浮かべた。すると「証拠ならあるよ」と少女は鋭く言い放つ。「あそこに防犯カメラがある。あの角度ならバッチリ映ってるだろうね」
少女は親指を立てて後ろをくいっと指した。出口はちらっと視線を上げる。たしかに、客の出入りが確認できる自動ドアの側に防犯カメラがあった。
男は笑みを消すと、苛立った顔でチッと舌打ちをする。
「ごちゃごちゃうっせぇな、さっさとそこ退けよ」
「やったこと認めて頭下げて謝るならね。それが出来ないなら警察呼ぶぞ」
「っ、女のくせに粋がってんじゃねーぞ!」
あろうことか、男は殴りかかる勢いで少女に飛びかかった。しかし少女がひょいっと身を躱したことで、勢い余った男の体がつんのめる。
そんな男の背後に回った少女は「正当防衛、だあっ!」と叫んで、容赦ない蹴りを一発お見舞いした。男の体が前へ吹っ飛ぶ。
その先には、一部始終を突っ立って見ていた出口がいた。
「はっ?」
ポカンとした出口は、視界いっぱいに迫ってきた男の体を避けられなかった。男の体がどんっとぶつかる衝撃が走り、次いで腰を地面に強打して倒れ込んだ出口は、酔っ払い男の下敷きになる。
「やばっ、やっちゃった!」
巻き込まれた出口に気づいた少女が焦った声を上げる。
一瞬にして酔いが覚めたらしい男は青ざめた顔をして起き上がると、近寄って来た少女を見て「ひぃっ」と怯えた悲鳴を上げると、逃げるように走り去ってしまった。
「す、すみません!大丈夫ですか!?」
逃げた男には目もくれず、少女は出口のそばまで駆け寄って来た。出口は自力でどうにか体を起こしたが、腰を上げようとして鈍痛が走る。
「ッ、痛っ、…」
「あぁあぁどうしよう…っ、本当にごめんなさい…!」
少女は涙目になって地面に正座したかと思うと、がばっと土下座して謝ってきた。
ぎょっとした出口は慌てて「大丈夫だから、顔を上げて」と土下座をやめさせる。幸い周辺に人の目はない。この状況を誰かに見られていなくてよかったと、心から安堵した。
出口は痛みを堪えて立ち上がる。それに合わせて少女も立ち上がった。すぐ目の前にいる少女を見下ろした出口は、ふと気づく。
(竹の香りが、しない……)
店内にいた時にこの少女から確かにしていたはずの香りが、全くしなかったのだ。
「歌留多。さっきから騒がしいけど、なにかあった?」
出口の背後から店内にいた少年の声がした。歌留多と呼ばれた少女が「あっ、颯太」と、コンビニから出て来た少年の名前を呼ぶ。
颯太と出口の目が合った。
「あれ、さっき店内で具合悪そうにしてた人だ」
「どえぇっ!?具合が悪い人に私…トドメを刺しちゃったってこと…!?」
歌留多が両手で頬を抑えて青ざめる。
出口は面倒くさいことになる前に帰途へつこうと思い、足を動かした。瞬間、再び腰に鈍痛が走り背中を丸めて呻く。
「ぐっ、……最悪だ……」
「お兄さん、歩き?この辺の人ですか?」
出口は眉を歪めた顔を颯太に向けて答える。
「ああ……徒歩十五分くらいだ」
「十五分かぁ。その体で歩けます?」
「……」
出口は少し迷いながら苦しそうな顔をして「……無理だな」と呟いた。
「じゃあ俺の車で家に送るんで。乗ってください」
「は? ………いや、いい」
「でも帰れないですよね。遠慮しないでください。歌留多が迷惑かけちゃったんでしょ?」
「そうだよ!お詫びだから遠慮しないでください!」
くわっと勢いよく歌留多に詰め寄られた出口は、思わず頷いてしまった。
「私、山本歌留多っていいます」
歌留多はニコッと笑う。「で、彼は私の友達の」
「水野颯太です」
颯太は軽く微笑んだ。「お兄さんの名前は?」
「……出口春だ」
出口はにこりともせずに名前を告げた。
「荷物持つよ!」と申し出た歌留多に、出口はエコバッグを預けた。重い荷物を持って歩くのはさすがに堪える。
痛みに耐えながら、広い駐車場に停めてある車までの距離を自力で歩いた。そして後部座席に乗り込むと、運転席でシートベルトをする颯太の背に向かって自宅までのルートを伝える。
「–––で、しばらくしたら不動産広告の大きな看板が見えるから、その看板の手前にある細い道を右折してくれ。そこから先のルートはまた説明する」
「わかりました」颯太は返事をして、車のエンジンをかけた。
「えっ、出口さんってその見た目で三十三歳なんだ」
走り出してすぐの車内で、出口は歌留多から質問攻めにあっていた。
助手席から歌留多は後ろを振り向いて、後部座席に座っている出口の顔をまじまじと見る。
「もっと若いかと思ってたよ。あ、私たちは19歳。颯太とは大学で知り合ってから友達になったの」
聞いてもいないことをニコニコして話す。歌留多は人見知りしないタイプのようだ。
「出口さんは、なんの仕事してるの?」
「……元IT企業の社員」
「元?」
「……今は休職中だ」
「なるほど無職ってことか〜」と歌留多は悪気がない笑顔で言う。「てか出口さん、こっちの方言じゃないよね。もしかして東京の人?」
出口は面倒くさいという態度を隠さずに、背もたれに深く体を沈めて口を開いた。
「……生まれも育ちも東京だ。三ヶ月前に移住してきた」
「へぇ〜そうなんだ!でもなんで愛媛に引っ越してきたの?都会に疲れて田舎に住みたかったとか?」
「……」
出口は眉根を寄せて口を閉じ、窓の外を向いた。あれ?と歌留多は首を傾げる。
颯太はバックミラーにちらっと目を向けて、そこに映る出口の不機嫌な横顔を見た。颯太は困ったように笑みを浮かべると、歌留多に向かって言う。
「歌留多。初対面の人に質問責めは失礼だよ」
「え?」と歌留多はきょとんとすると、次いで「あっ」と声を上げる。
「そうだね、私の悪いところ出ちゃったよ。出口さん、気を悪くさせちゃってごめんなさい」
出口は何も言わずに目を閉じた。大人げない態度だが、今後関わり合うこともないだろう相手に愛想よくしても疲れるだけだ。
颯太はやれやれと肩をすくめると、前方に見えてきた不動産広告の大きな看板の手前で車を右折させた。
出口は窓の外を見ながら、残り自宅までのルートを颯太に伝えた。減速して進んだ車はやがて家の前に到着する。
「へえ、賃貸って言ってたけど一軒家なんですね」
颯太は車を停めると、すぐ真横の古い木造平屋建を見て呟く。「なんていうか…」
「ボロいなぁって思っただろ」と、急に背後から出口が言った。颯太はバックミラーに映る出口に向かってにっこり笑いかける。
「ハイ、思いました」
このガキ…と、出口は内心で暴言を吐いた。
「一軒家を借りてるってことは、家族がいるんですか?」
颯太は特に何も考えず、思ったことを口にする。「じゃあここから先は家族の誰かに手を貸してもらって……いや、でも家の明かりがついてないな、もう寝てるのか。あのー、また一人で歩けますか?無理そうなら手を貸し、」
「俺は独身で一人暮らしだ」
「え?」
急に遮られた颯太は、バックミラー越しに一瞬きょとんとした目を出口に向ける。
「あ、そうだったんですね、すみません。だったら尚更、手を貸しますよ」
「いや結構だ。ここまででいい」
車から降りようとシートベルトを外しかけた颯太に、出口は棘のある口調で断りをいれた。早くこの若者二人から解放されたい…。そう思いドアを開けて降りようとした瞬間、腰にずきっと激しい痛みが走る。
出口の口から我慢できない呻き声が漏れた。颯太は後ろを振り向くと、背中を丸めている出口を見て言わんこっちゃないと呆れる。
「手、貸しますよ」
「…………ああ、頼む」
出口は苦虫を噛み潰したような顔をして折れた。
すると歌留多が「あ、出口さん。ついでにお手洗い貸してくれませんか?」と言って、申し訳なさそうな上目遣いを向けてくる。
「………車、そこの駐車場の空いてるスペースに停めてくれ」
額を抑えて深いため息をついた出口は、すべてを諦めた低いテンションでそう言った。
客間までの距離を出口は颯太の肩を借りて歩いた。途中、出口から廊下の突き当たりにトイレがあることを聞いた歌留多は「お手洗い借りまーす」と言ってトイレに向かう。
客間の襖を開けた出口は紐を引いて電気をつけると、腰を気遣いながら座布団の上に座った。スマートフォンを上着のポケットから取り出して時刻を確認する。もう二十三時だ。
「これ、冷蔵庫に入れてきますね」
颯太は持っていた出口のエコバッグをがさりと鳴らして「台所はどこですか?」と聞いた。「玄関入ってすぐ目の前のドアだ」と出口は答える。
客間から颯太が出て行き、出口はようやく一人になって気が抜けた。テーブルに片肘をついて頭をくしゃりと抑えて、はぁーと深いため息をつく。
「……煙草が吸いてぇ」
手が無意識に上着のポケットに伸びて、先ほど購入した未開封の煙草を取り出した。
箱から一本抜いて口に咥え、火をつける。肺に深く吸い込み紫煙を吐き出した。疲れた体にニコチンが染み渡る。
(煙草を買ってすぐ戻って来るはずだったのにな……)
どうしてこうなった…と頭を抱えたくなる。とにかく、明日からしばらく安静にして過ごそう。病院を受診する羽目にはなりたくない。
「お待たせしました」
客間に戻って来た颯太と目が合うと、露骨に眉を顰められた。「煙草、吸うんですね」
「ああ。悪いが消さないぞ」
「どうぞ、気にしないでください」
さらっと言いながらもなるべく煙から距離を置きたいのか、颯太は壁際に背を向けて腰を下ろした。
テーブルの上の灰皿を引き寄せながら、出口は無愛想な口調で言う。
「ここまで手を貸してくれて助かった。怪我のことはもう気にしなくていいから、連れが戻って来たらさっさと家に帰れよ」
「あー………はい」
出口はちらっと颯太を見た。颯太は浮かない顔をして畳に視線を落としている。その様子から察した出口は、めんどくせぇな、と顔を顰めた。
「訳アリか」
「…え?」
颯太はゆるりと前を向いた。目が合った出口は、煙を吐いてから続きを言う。
「こんな夜遅くに男女二人。家に帰れない理由なんて容易に想像できる」
「オジサンが勝手に想像してるような理由じゃないのは確かですよ」
「おい」
出口はぎゅっと眉根を寄せると、半目で颯太を見た。「今、オジサンって言ったか?」
「え? あぁ、はい」
「俺は三十前半だぞ」
「知ってます。え?なんかおかしいですか?」
こてんと首を傾げた颯太から無言で目を逸らした出口は、複雑な気分で煙草を咥えた。悲しいかな、十代からしたら三十代前半は立派なオジサンとオバサンというわけだ。
「俺たち、家に帰れない事情があるんです。それで今夜、泊まれる安い民宿を探してて」
颯太は出口の機嫌など気にせずに話す。
「でも、急すぎてどこも泊まれなくて。しょうがないから今夜は最悪満喫か、ベッドが確保できるならラブホにでも泊まろうかって、歌留多と話してたんです」
出口の顔が、はあ?となった。
「あの子はお前の恋人なのか?さっき大学で知り合った友達って言ってただろ」
「友達ですよ」
「友達とラブホに泊まるのか?ありえないな」
出口は笑いながら煙を吐き出した。颯太はむっと眉根を寄せる。
「さっきからなんですか?俺と歌留多の関係なんてあんたには関係ないだろ」
「あぁそうだな。そんなことよりお前、遠回しにここに泊めてほしいアピールをしてるだろ」
「は?そんなわけっ……」
颯太は否定しようとして言葉を詰まらせた。出口にそう指摘されて初めて、あわよくば一晩泊めてもらえたりしないだろうか、と思っていたことに気づいたからだ。
「おい、いいか」出口は声を低くして、鋭い目つきで颯太を睨んだ。
「まんまと流されて家にまで上げた俺をちょろいオジサンだと思ってないか?お前らにどんな事情があるか知らないが、すぐ出て行かないなら警察を呼ぶぞ」
「っ……警察ってなんだよ、こっちは歩けないオジサンの為に手を貸しただけだろ」
「悪いが俺は疑り深いんだよ。もしかしたらお前らが人を殺めて、警察から逃げ回ってる殺人犯の可能性だってあるからな」
「なっ…、そんなわけないだろ!」
ここまで言われると、さすがに颯太もイラッときて出口を睨み返した。
その時、廊下をドタドタと走ってくる音と「やばいやばいやばい!」という歌留多の危機迫る声が響いた。
「やばい!どうしよう!」
襖が勢いよく開いて歌留多が焦った様子で入って来た。ハッとした颯太が腰を上げる。
「どうした!まさかあの男が––––」
「生理になった!!」
「………え?」
片膝を付いて立ち上がりかけた颯太は動きを止めてぽかんとした。「………は?」と、次いで出口もぽかんとなる。
「だから、生理がきちゃったの!おりものシートしか持ってきてないし、どうしよう!さっきのコンビニまでナプキン買いに–––…うぅっ……」
勢いよく叫んでいた歌留多が急に、下腹部に両手を回して膝をついた。
「歌留多!」颯太は慌てて、うずくまる歌留多の近くに寄る。「大丈夫?」「……生理痛が……おなか痛い……」と歌留多は弱々しく答えた。
「横になってていいよ。俺が買ってくるからさ」
颯太が優しく声をかけると、歌留多はゆるりと頭を上げて「ありがとう颯太…」とやや涙目で言った。
颯太は立ち上がると、この悪化した状況に絶望感を抱いている出口に向かって口を開く。
「というわけなんで。オジサン、少しの間、歌留多のことお願いします」
「は? おい、ちょっと待て」
颯太は車のキーと財布を持って、止める出口を無視して車へ急いだ。
外から車のエンジン音がする。
出口は指先で前髪を掻き乱しながら、煙草を灰皿に押し付けた。一日の終わりにこんな災難続きがあってたまるか。
「う〜…」と呻き声が聞こえた。見ると、畳の上にそのまま横になった歌留多が、体を丸めて弱っている。
出口はため息をついて、テーブルの隅に置いてあったエアコン用リモコンに手を伸ばしスイッチを入れた。少し冷えていた室内に暖かな風が吹く。
出口はそ〜っと腰を上げて、痛みに堪えながら真横の襖を開けると、寝室に入った。押入れから予備の座布団と毛布を取り出す。
「ほら、これ使え」
客間に戻って来た出口は持ってきた物を差し出した。すると歌留多にぽかんとした顔で見つめられて、ばつが悪そうに目を逸らす。
「生理中は、体を冷やさない方がいい」
「うん…。ありがとう、出口さん」
歌留多は微笑むと、体を起こして毛布類を受け取った。
「なんか慣れてるね出口さん。カノジョさんで学んだとか?」
歌留多はからかい口調で言いながら、座布団を枕代わりにして横になり、毛布に包まった。
出口は元いた位置に座り直すと、テーブルに頬杖をついて静かに口を開く。
「亡くなった妻が、生理痛が酷かったんだよ」
「えっ、出口さん、結婚してたんだ」
驚いた歌留多はそのあとすぐに「ごめんなさい。奥さんのこと思い出させちゃって…」と謝った。出口の暗い顔を見ていると胸が痛む。
「かまわない。普段からよく思い出してるからな」
「そっか……。ねぇ、質問していい?」
「…なんだ」
「どうして仕事を辞めて、こっちに移住したの?」
出口は眉間に皺を寄せて目を伏せる。
「……妻が癌で亡くなったあと、喪失感で何もできなくなった。当たり前の日常生活が送れなくなって、仕事にも支障がで始めた。会社や同僚に迷惑をかけてまで居座る気にはなれなかったんだよ」
東京の大企業。大きな組織。一人が抜けても、すぐに代わりの社員を補充できる体制は整っている。自分の代わりなんていくらでもいる。
「付き合っていた頃に、二人で愛媛を旅行したんだ。その時に妻がこの町をかなり気に入ってな。ここに住みたいって言っていたのを思い出したんだ。だから引っ越し先に選んだってだけの話だ」
出口は言い終えると、何となくテレビをつけた。それを見つめる歌留多は、寝る前に絵本の読み聞かせをねだる子供のような顔をしている。
「ねね。もっと奥さんのこと聞いてもいい?」
「あ?………ああ」
「出会いって、どんな感じだったの?」
歌留多は穏やかな笑みを浮かべて、出口のことをじっと見つめた。出口は再び、ばつが悪そうに目を逸らす。
「…出会いは大学で、共通の友達の紹介だったな」
テレビのニュース番組を眺めながら続けた。
「同い年の妻とは、互いに気を遣わず、自然体でいられるような関係だった。大学を卒業する時に恋人同士になって、数年後に結婚したんだよ」
「わ〜、いいなぁ」
歌留多は恋バナで盛り上がる女子の反応を見せる。何だこの状況は……と、出口の顔には今日一の疲労感が漂っていた。
颯太が戻って来た時には、もう日付けが変わる時刻になっていた。
具合が悪い歌留多のこともあるが、この状況で二人を追い出すほど出口も鬼じゃない。一晩だけだと言って、使用していない一部屋を貸すことにした。
出口は二人を部屋に案内した後、早々に自身の寝室へ引っ込んでしまった。
布団はひとつしかなかったため歌留多に譲り、颯太は毛布と座布団を枕代わりにして眠ることにする。
「出口さんって優しいよね」
颯太が布団を敷いていると、歌留多がリュックの中身を弄りながら言った。
「え、どこが。意地悪なオジサンだよ」
「うわ、颯太が誰かに対して悪口言ってるの、めっずらし〜」
歌留多は面白がっている。
颯太は小さな子供が拗ねるような顔になった。
「別に、悪口じゃないけど…」
「男同士って難しいんだねー」
笑った歌留多は、颯太がいない間に出口と交わした会話の内容を語った。
黙って話を聞いていた颯太は、出口は乱暴な物言いの中にも優しさがある人なんだろうと思い、次いで、あんな性格悪い人でも結婚できるんだなぁ、と失礼なことを思ったのだった。
■
……竹の香りがした。
「………」
目を開けると、辺りは薄暗かった。
(……また夢か)
出口はどこかの奥深い竹林の中に立っていた。自分以外誰もいない。なぜこんな所にいるのか分からない。ここはどこだ…。
竹林がざわざわと揺れている。すると前方に何か見えた。人工物だ。出口は引き寄せられるように近づいた。
「………」
小さな石祠だった。
長年ひっそりとそこにあるのか、年季の入った扉付きの石祠。
中身が、異常に気になった。
「………」
出口は無言のままゆっくりと、石祠に手が届く距離まで近寄っていく。
片手を上げた。
あの扉を開けたい。
中身を見たい。
冷たく湿った地面に両膝をついた。真正面には石祠。扉に向かって片手を伸ばす––––
ぼこっ
両膝をついた周辺の地面が一部盛り上がった瞬間、
ガッ
土が飛び散る勢いで伸びてきた蒼白な両腕が、扉に触れる寸前だった出口の手首を掴んだ。
「……!?」
物凄い力でギリギリと締め付けられる。地面から伸びたその両腕は少女のように華奢で––––
その肌は、黒いマーブル模様に染まっていた………
………
……
■
翌朝。
颯太は一人で台所に立っていた。三人分の朝食を用意するために、勝手に冷蔵庫の中身と食器類を使っていると…
「……おい、何してる」
背後から怖い声がして、颯太は振り返る。機嫌が悪い顔で腕を組んだ出口が、ドア枠に頭を預けて立っていた。具合悪そうな顔色のせいもあって、寝起きの印象が最悪だ。
「おはようございます。腰は大丈夫ですか?」
出口は眉を歪めると「昨日よりはだいぶマシだ」と言って中に入って来る。確かに、まだちょっとぎこちないが自力で歩けるまで回復しているようだ。
「何作ってるんだ?」聞きながら出口は煙草を取り出す。「食パンとロールパンがあったんで、サンド系の朝ご飯です」斜め後ろにいる出口を見て答えた颯太は、露骨に嫌そうな顔になった。
「ここで吸わないでくれます?」
「たぁけ。ここは俺の家だぞ」
出口は口に咥えた煙草に火をつけた。
「冷蔵庫の中身、勝手に使わせてもらってます」颯太は背後の冷蔵庫に目を向ける。「納豆に卵、冷凍した肉や野菜もいろいろあるし…。ちゃんと自炊してるんですね、意外すぎました」
「不健康な生活してるように見えたって言いたいのか?」
「はい」
颯太はうなずいて、わざとらしくニッコリ笑う。
「ちゃんと食事に気を遣ってるなら、禁煙もしたらどうですか?」
「大きなお世話だ」
出口は思いっきり眉を寄せた。視線を落として颯太の手元を見ると、皿の上にはスクランブルエッグとレタスをサンドしたロールパンと、食パンを使ったハムサンドなどがぎっしり並べられている。
「…昨日買ったパン、ぜんぶ使ったのか」
「歌留多がめちゃくちゃ食べるんで」
出口からの不満な視線を、颯太は軽く受け流す。
「歌留多から聞きましたよ。結婚してたんですね」
しばらくの無言のあと、出口は口を開いた。
「…煙草嫌いだった妻の為にも、長いこと禁煙してたんだがな」
煙草を吸い、ふーっと細い煙を吐く。
「俺が食事に気を遣うようになったのは妻の影響だ。健康意識が高い人だったんだよ。……誰よりも健康的だった。けど、癌が見つかってから亡くなるまでは、あっという間だったな」
静かな口調で、出口は独り言のように話した。
颯太はじっと出口を見つめる。
「歌留多のこと、ありがとうございました」
台所の隅に置いてあるコーヒーメーカーにマグカップを置いてスイッチを入れた出口は、ちらっと颯太の顔を見た。
「あと、一晩泊めてくれたことにも感謝してます。お礼に、部屋の掃除とか何かしたいと思うんですけど」
「玄関周りの草むしりも追加だ」
出口はわずかに表情を緩めて笑う。
「コーヒーにミルクと砂糖はいれるか?」
「俺、朝は蜜柑ジュースがいいです」
「んな甘ったるい飲み物はねぇよ」
「じゃあミルクで。歌留多は両方お願いします」
颯太が少し笑うと、二人の空気感が柔くなった。
「出口さん、颯太、おはよー。わっ、いい匂い!」
朝から元気な歌留多は颯太の隣に並んで「美味しそう〜」と嬉しそうに笑う。
「おはよう歌留多。体調は大丈夫?」
「この通り、もう平気だよ!あ、出口さんの方はどう?」
「昨日よりはマシだな」
そこからは三人で手分けして動き、出来上がった朝食を客間へと運んだ。
客間のテーブルを囲んで、三人はコーヒーとサンドイッチの朝食をとる。
出口は先に淹れたてのコーヒーに口をつけながら「昨日聞きそびれたが」と、目の前に並んで座っている二人に訊ねた。
「お前らが家に帰れない事情っていうのを、聞かせてもらおうか」
颯太と歌留多はサンドイッチ片手に顔を見合わせた。どうする?言う?みたいなやりとりを無言でしている。
「実は俺たち…というか、歌留多がヤバい男に追われてるんです」
颯太は出口の顔を見て言った。出口は僅かに眉を歪めて、歌留多の方に視線を流す。
「ヤバいって、ストーカーでもされてんのか」
「私たちも最初はそう思ってたんだけどね」
歌留多は言って、食べかけのロールパンサンドを齧った。「ちがう意味で面倒くさい奴だったよ」と、もぐもぐしながら喋る。
「そのヤバい男、名前は榛名一っていうんだけど。母方の実家が経営している会社の従業員だったんだよね」
カップを片手に持って中身に軽く息を吹きかけたあと、甘いコーヒーに口をつける。「あ、両親は私が高校入学する時に離婚して、私は父親に引きとられたの」とついでのように言った。
「榛名、社長の祖母の指示で、多少乱暴な真似をしてもいいから私を連れてくるように命令されてるって言ってた」
「私も颯太も逃げる際に暴行を受けたし」と、歌留多は平然とした顔で言った。おいおいそれは警察沙汰だろう…と、出口は内心で呆れる。
「祖母が孫に会いたがっている理由は分からないのか?」
「あーそれは、聞きそびれちゃったから分からないんだよね」
出口の問いかけに対し、歌留多は申し訳なさそうに眉を下げた。出口は難しい顔をしてコーヒーを飲む。
多少乱暴な真似をしてまで孫を連れ去ろうとする理由……それは一体なんだろう。
「じつは私、母方の祖父母に一度も会ったことないんだよね。家にも遊びに行った記憶ないし」
歌留多はそう言って、ふと思い出したように続ける。
「でも、会社のサイトに祖母の写真が載ってたから顔は知ってるよ。我が強そうな女性って感じ。あ、せっかくだし会社のサイト見てみる?」
歌留多はズボンの尻ポケットからスマートフォンを取り出して操作する。
「阿墨竹工株式会社っていう、竹製品を取り扱ってる会社なんだよ」
「…阿墨竹工?」
出口は驚いた。
「もしかして、祖母の名前は阿墨竹子か?」
歌留多は顔を上げると、眉を上げて出口を見た。
「そうだよ。てか会社のこと知ってたんだね出口さん」
「あぁ」呟いた出口はマグカップの中身に視線を落とす。「つい最近、阿墨竹子と同級生だった女性に出会ってな。それで、……」
出口は中途半端に言葉を切って黙り込んだ。出口の顔に悩ましげな色が差したことに気づいた颯太と歌留多は、どうしたんだろうと顔を見合わせる。
出口は悩んでいた。
目の前の二人に、霊感があることを伝えるかどうか。加えて、ここ最近身の周りで起こっている心霊現象について話すかどうか。
そして、香山織絵から聞かされた『マーブル模様の呪い』について、話すかどうか……。
「出口さん、どうかしたの?」
出口は視線を上げて歌留多を見た。
昨夜のコンビニで歌留多からした竹の香りと、夢の中に現れた狐顔の女からした竹の香りは、今でも鮮明に思い出せる。
(……一体何が起こってるんだ)
嫌な予感しかしなかった。今更、身の危険を感じた。面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ。……いや、もう巻き込まれてしまっているのか……。
「オジサン、顔が怖いんだけど」
颯太がうんざりした顔で言った。
オジサン呼びはやめろ、という出口の不機嫌な視線を颯太は軽く受け流して「そんなことより、急に黙ってどうしたんです?」と訊いた。
「ここまで来たら、お互いに隠し事は無しにしませんか」
颯太の言葉に、出口は苦笑いを浮かべる。この状況で「なんでもない」は通用しないだろう。
「分かった。いいか、今から話すことは冗談じゃないからな」
前置きをした出口は、二人に真剣な目を向ける。「俺には霊感があるんだよ」そう口にしてから、ここ数日で体験した出来事を二人に語り始めた。
深ヶ集落の古民家カフェで出会った夫婦のこと。
道の駅で見かけた尾形という女性のこと。
香山織絵から聞いた小学校の校長先生のこと。
そして、香山織絵が同級生の阿墨竹子の口から告げられた「あの模様に染まっている人は呪われていて、そのうち死んでしまう」という言葉。
颯太は、出口の口から香山織絵の名前と、小学校の校長先生の話が語られた時に、なんだか聞き覚えがあるな……と感じた。
少し考えて思い出す。
オカルト研究会の部長、香山夏海が語った話と似ている。いや、同じ話なんだ。苗字も同じ。つまり夏海は、香山織絵の孫というわけだ。
「俺が見たマーブル模様に染まっていた人たちはみんな死んだ。阿墨竹子が香山織絵に言った台詞が本当なら……呪い殺されたんだろうな」
出口が話し終えると、颯太は眉を顰めて言った。
「それって、誰かがその人たちを、何らかの方法で呪ったってことですよね。一体誰が……」
出口は「さあな」と呟いてカップに口をつける。颯太は歌留多に目を向けて言った。
「歌留多は、『マーブル模様の呪い』って聞いたことある?」
歌留多は思い出そうと、うーんと唸った。
「聞いたことない……かなぁ」
「母親からも?」
「……」
途端に、歌留多は口を閉ざして眉間に皺を刻んだ。忌み嫌う母親のことを思い出すのは不愉快だろう。しまった、と颯太は後悔する。
「……榛名から聞いたんだけど、母親は今、行方不明になってるんだってさ」
歌留多は視線を落として、低いテンションで言った。
「だからって別に、どうでもいいけどね。私はとっくに母親との縁を切ってるんだから」
歌留多はストレス発散とばかりに、大きな口を開けてロールパンに齧り付いた。
母親が行方不明と聞いた出口は怪訝な顔になる。「母親はいつ行方不明になったんだ?」と、歌留多の心情など露知らずに訊ねた。
「さあ」歌留多が顔をしかめる。「榛名から詳しく聞いてないからわからないよ」
歌留多は不機嫌になりながらも、自分が知ってる母親の情報を出口に話す。
「母親は離婚してすぐ実家に戻ったらしいから、実家で何かトラブルでもあったんじゃないかな。母親は祖母のことが大嫌いで、高校卒業してすぐ実家を出たあとに縁を切ってたっていうくらいだから」
歌留多はカップに口をつけようとした動きを止めると、ふと思い出したように付け加える。
「けど、祖父との関係はそこまで悪くなかったみたい。偶に連絡を取り合ってる様子だったって、お父さんから聞いてるよ」
歌留多はコーヒーを啜る。颯太は出口に視線を向けて言った。
「今のところ、『マーブル模様の呪い』について詳しいことを知ってそうな人物は阿墨竹子ですね」
「あぁ…」出口は疲れたように息を吐く。
「阿墨竹子は何故、強引なやり方をしてでも孫を連れてくるよう従業員に命令しているのか……その目的も謎だな」
すると歌留多が「もしかしてさ…」と恐る恐る口を開いた。
「その呪いってやつに、私が何か関係してるってことはないよね?呪いとか幽霊とか、そういうのちょっと苦手なんだけど……」
出口と颯太はじっと歌留多を見つめたあと、無言のまま互いに顔を見合わせ、返答に困ったように苦笑いする。
うわぁ、と嫌そうに顔を歪めた歌留多は「ちょっと!そこは関係ないよって否定してよ!」と二人に文句を叫んだ。
朝食を食べ終わると、颯太は先ほども言っていたお礼の掃除をしたいと言いだした。
すると歌留多が「私もやるよ!」とやる気満々で腕まくりをし始めたため、「お前は無理をするな」と出口は思わず言った。けれど歌留多はその気遣いに対して何故かムッと眉を寄せて「大丈夫だよ。むしろ食後は体を動かさないと気が済まないから!」と言われては、出口も「じゃあよろしく」と返すしかない。
「歌留多。俺が玄関周りの掃除をするから、歌留多は家の中のことをお願い」
「わかった!じゃあまずは食器の片付けからするね」
若い二人は食後だというのに早くも動き出す。食後の一服に煙草を吸い始める出口とは大違いだ。これが若さというやつか…と、出口はテーブルに頬杖をつき煙草を咥えたままぼんやりと思う。
「フンフンフ〜ン」上機嫌に歌留多は鼻歌を歌いながら、荷物を置いている部屋に戻る。食器を洗う前に先にトイレに行こうと、隅に置いていたリュックの中からポーチを取り出す為に上に被せていたジャケットを手に取た。
「……ん?」
何か妙なものに気づいて手が止まる。眉を寄せ、首を傾げて、歌留多は空いてる片手でジャケットの袖口を持ち上げた。
袖口の裏に、指先で摘める小さな黒いものがくっ付いている。最初は虫かと思った。けれど違う。四角くて硬い人工物のようだ。少し力を入れて引っ張ってみると難なく取れた。シールで貼り付けてあったようだ。
「……何だこりゃ」
「歌留多?」
部屋に入って来た颯太が、ジャケットを手にしたまま突っ立っている歌留多に気づいて「どうしたの?」と声をかけた。顔を上げた歌留多は颯太を見て「ねぇ颯太、これ何だと思う?」
颯太は歌留多が差し出した手のひらの上のものを覗き込んだ。ワイヤレスイヤホン?と思ったが違う。
これは……
「なんか分かんないけど、袖口にくっ付いてたんだよね」
歌留多が不思議そうに言った。それを聞いた颯太の脳裏に、榛名一の顔が浮かぶ。
「まさかコレ、GPS発信機か、なにかなんじゃ……」
「えっ!?」
歌留多がビックリして声を上げた。言われてみるとそんな形をしている。大学の女友達が家の鍵のキーホルダーに、こういう小型の発信機を付けていたのを思い出した。
「あの男……榛名の仕業だな」
GPS発信機なんてものは今や簡単に手に入る。これで居場所がバレているなら……颯太の顔は若干青ざめた。
「発信機だって?」
出口の低い声が響いた。
びくっと跳ねた二人が部屋の出入口を見ると、そこから顔を出していた出口が怪訝な顔をして入って来る。
「これです」
颯太が歌留多の手から摘んだGPS発信機を出口に見せた。
それをじっと見つめた出口の顔が険しくなる。「居場所を向こうに知られてるのか」と心底迷惑そうに言った。
「気づくのが遅れた私のせいだ…ごめんなさい……」
歌留多がしゅんとして落ち込んだ。「気にしないで。こんなアニメやドラマでしか見ないようなことしてくるとか、誰も思わないよ」と、颯太がすかさずフォローする。まぁそうだな、と出口は内心で肩を落とした。
「あの男に取り付けられたとすると、昨日、俺のアパートの前でやり合った時かな」
「そういえば、腕を掴まれて投げ飛ばされたよ。多分その時かも」
二人の物騒な会話を聞いていた出口が、うんざりしたようにため息をつく。
「だったらもう居場所は特定されてるだろ。さぁどうする?向こうは向こうで、お前を攫うタイミングを計ってるかもしれないぞ」
出口の言葉に、二人は互いに困った顔を見合わせた。
颯太は曇った表情をしてGPS発信機を見つめていたが、不意に顔を上げると、何か閃いたという目をして出口に言った。
「逆に、アイツを罠にはめるのはどうですか?」
「あ?」
出口は眉を寄せる。歌留多はきょとんとした。
颯太はGPS発信機を自分の顔横に掲げると、ニッと口角を上げて言う。
「アイツからは、いろいろ聞き出したい情報もあります。だから逆に捕まえるんです」
「何かプランはあるのか?」
腕を組んだ出口に向かって颯太は苦笑した。
「まぁ、一応あります。アニメやドラマのように、上手くいくか分からないですけどね」
■
スーツに着替えた榛名は、松山市から内子町へと車を走らせていた。
山本歌留多に取り付けたGPS発信機は上手く機能している。逃げた二人の後を追跡しながら、榛名は焦心に駆られていた。
(……とにかくもう、時間がない)
今夜中か、遅くても明日までには必ず、山本歌留多を捕らえなければならない。
ターゲットを乗せた車は、田舎道にポツリとあかりを灯したコンビニの駐車場に入って行った。
榛名はコンビニの敷地外から行動を伺うために、暗い脇道に車を停車させてエンジンを切る。ヘッドライトが消えたことで黒い車は上手い具合に闇に溶け込み、ここからはちょうどいい角度でコンビニの出入口が視認できた。
車から降りた男女がコンビニに入って行く。しばらくすると、買い物を先に済ませた山本歌留多が、一人で外に出て来た。
チャンスだと思った。車から降りようとして、だが、ドアにかけた手の動きが止まる。
(また彼女と対峙して、どうやって捕える?)
山本歌留多は強い。もう一度やり合ったところで、負かされるのがオチだろう。前回の二の舞を演じるのはごめんだ。
そう思いながら気が焦る榛名の目に、うんざりするような光景が飛び込んできた。
山本歌留多が酔っ払い客と言い合いになっている。よせばいいのに、酔っ払い客は山本歌留多に掴み掛かろうとして、やはり返り討ちにあった。酔っ払い客は店内から出て来た別の男性客を巻き込んだあと、慌てて逃げ去っていく。
山本歌留多は、巻き添えを食らった男性客に向かって土下座をして謝っている。そこへ、彼女と行動を共にしている青年、水野颯太が店内から出てきて男性客と何やら会話を交わすと、やがて三人は一緒に歩き出した。知り合いなのだろうか。そして水野颯太の車にその男性客も乗り込むと、車はどこかへ向かって走り去っていく。
クソ、と榛名は苛立ちを吐き出した。ほとほと嫌になる。できることならこの仕事を投げ出してしまいたい。
そもそも、ずっと抵抗感はあったのだ。
素人にこんな犯罪まがいの仕事を押し付けてきた阿墨竹子に対しても、榛名は多少の嫌悪感を抱いている。しかし榛名は阿墨竹子に決して逆らえない。それはもはや体に染みついた服従心だ。
GPS発信機は移動している。
榛名は熱を帯び始めていた己の感情を落ち着けるために、ふーっと息を深く吐いてから、エンジンをかける。
どうせ投げ出すことはできないのだから、考えるだけ無駄なことだ。
やがて三人を乗せた車は古い一軒家の駐車場に停まった。
車から降りた三人は家の中へと消えていく。その様子を離れた場所に停めた車内から目視した榛名は、しばらくその場で待機した。
時間だけが過ぎていく。ようやく動きがあったと思ったら、家から出て来たのは水野颯太だけだった。彼は車をどこかへ向かって走らせる。
彼をまた人質にとろうかと悩んだ。そこでふと、今までのような強引なやり方を仕掛けるよりも、話し合いを持ちかけた方が良いのではと思い始める。これ以上、犯罪まがいな行為をする必要がなくなるならそうしたい。
まずは二人に接触して、こちらの事情を説明し、警戒を解いてもらう……などと榛名は考えを巡らせたが、初対面でいきなり暴行したことを思い出すと時すでに遅い気がしてきた。
榛名は目を閉じて天を仰ぐ。眼鏡を外して、目元をマッサージするように指先で揉んだ。ここにきて急に疲労感が体力と思考を奪っていく。
今日はもうダメな日だ、と無理矢理諦めた榛名は、この付近で一夜を明かす場所を探すことにした。
翌日。
GPS発信機に大きな動きがあったのは、午前十時を過ぎてからだった。
榛名は車を降りて、ターゲットが一晩明かした一軒家に身を潜めて近づく。すると丁度、水野颯太の車が駐車場から出て走り去っていくところだった。
この好機を逃すわけにはいかない。
榛名は車へ戻ると、スマートフォンをスマホホルダーに設置して車を発進させた。
GPS発信機の移動ルートを確認しながら距離を置いて尾行する。そうしながら、このあと相手の二人とどう接触を図るか、その機会をうかがっていた。
尾行する車はすれ違う対向車がほとんどない山間の道路を走行する。
このまま山間を抜けて街に出るのかと思った。しかし尾行する車は減速すると、山奥へと続く小道目掛けて右に折れた。
どういうことだ?と疑問に思いながらも尾行を続ける。小道に入ってから何か怪しいと違和感を抱いた。これは間違いなく誘導されていると気づいたがもう遅い。だがこれこそ好機かもしれなかった。向こうからこちらに接触してくれるなら、榛名が昨日考えていた話し合いの場を設けることが可能になる。
やがて開けた場所に出た前方の車がその空間の中央付近で停車した。榛名は無意識にふっと息を洩らす。やはり向こうからこちらに接近してきたか。好都合だ。
榛名の車もその空間に入って行くと、少し距離を開けた場所で停車させた。前方に見える車からはまだ誰も降りて来ない。仕方なく榛名から先に車を降りた。
爽やかな空気に満ちた森の中は、こんな状況じゃなければ森林浴でもして楽しめただろう。そんな一瞬の現実逃避のあと、前方の車の運転席ドアが開いて榛名は呆然となった。
中から出て来たのは水野颯太ではなく、昨夜コンビニで見た男性客だったからだ。
冷めた顔をした男性客は、黙ったまま指先に持つGPS発信機を掲げてみせた。榛名は内心困惑するが顔には出さず、冷静になって口を開こうとして、背後から聞こえてきた車のエンジン音にハッとさせられる。
振り返ると、先ほど通った小道から勢いよくもう一台の車が入って来た。榛名の車の逃げ道を塞ぐようにして停まった車から降りて来たのは、水野颯太だ。
「どうも」
水野颯太は子綺麗な顔をにっこりさせて笑った。内心混迷の中で榛名はふと、山本歌留多が姿を現さないことに気づく。
「あっ、ばか」背後から男性客の焦った声が聞こえた。榛名がその声に反応して振り返ると、目前に向かってくる拳が見えて––––次の瞬間には、意識がブラックアウトした。
■
「おいおい……」出口は額を抑えた。目の前の状況に頭が痛くなってくる。
出口が運転をしていた颯太の車には歌留多も一緒に乗っていた。先ほどまで身を隠して待機していたのだが、急に降りて来たと思ったら、榛名を殴りつけたのだ。殴られた榛名は地面に仰向けでバッタリと倒れて気を失ってしまった。
「やりすぎだ」
「あ〜ごめんごめん。ショッピングモールで颯太に乱暴なことした怒りがまだ収まってなかったんだよね」
歌留多は後頭部に手をまわして、呆れている出口に向かってへらっと笑う。「でもコイツ捕まえるんだったら、気絶してくれた方がラッキーじゃない?」
颯太は腰をかがめて榛名の顔を見下ろすと「コイツどうします?完全に気絶してますよ」と、顔を上げて出口に言った。
「歌留多と同じですぐ手が出る奴なんで、今のうちに手足は縛っておいた方がいいと思います」
この男も野生の猿並みってわけか……と、出口は内心でこっそり呟く。
「とりあえず、オジサンの家まで運びましょうか。歌留多、足の方持ってくれる?」
「おっけー」
「は?おい…、ちょっと待て」
俺の許可は?と言う出口を無視した二人は榛名の体を持ち上げると颯太の車へと運んで行く。呆然と突っ立っていた出口は、ハッとして榛名の車に目を向けた。
「……いや待て。コイツの車はどうするんだ?ここに放置しておけないだろ」
歌留多は運転免許をもっていない。つまり、出口と颯太がまたここに戻って来て榛名の車を動かす必要がある。……とんでもない二度手間だ。
ぐったりしている榛名を助手席に押し込んでいる光景を見ながら、出口はぐしゃぐしゃと前髪を掻き乱してため息を吐き出した。
■
「……ぅ、…」
榛名の意識は浮上した。頭が地味に痛い。
腕は後ろ手に黒いテープで縛られていた。同じく両足首もだ。どこかの客間の片隅の壁に背をもたれかけ、畳の上に座らされている。
ここはどこだ、と状況を探る。
「やっと起きたか」
客間の襖のひとつが開いて、廊下側から煙草を咥えた出口が入って来た。榛名は静かに警戒を強める。
「ぐっすりだったな。寝不足だったのか」
「……」
「お前の車は近くのパーキングに停めてあるぞ。あと、お前のスマホはこっちで預かっておくからな」
「……貴方は誰ですか?」
榛名が問うと、出口は苦笑いを浮かべて「名前は出口。ただ巻き込まれただけの不運な赤の他人だよ」と言ったあと、「おーいガキども、早く来い」と隣の部屋に向かって呼びかけた。
客間にあるうちのもう一つの襖が開くと、その先にある和室から颯太と歌留多が姿を現した。
「ふん。いいざまだね」
榛名の目の前に立った歌留多は、彼を見下ろして不敵に笑う。対して榛名は淡々とした面持ちで歌留多を見上げたが、その視線を出口に流して口を開く。
「……私を捕らえて、どうしようというんです」
「お前にはいくつか聞きたいことがある」
「先に言っておきますが、こちらの情報を赤の他人に話す気はありません」
出口は静かに煙を吐くと、改めて榛名一という男をじっと観察した。
眼鏡の奥の瞳は無機質で冷たい。第一印象からして冷静沈着な性格が滲み出ている。滅多な事では感情を表に出さないタイプだろう。
「あんた、社長の命令で動いてるんでしょ。私を攫って来いって」
語調を強めて歌留多が言った。
「祖母の目的はなに?私を必要とする理由が知りたいんだけど」
「……それに関しては、君が社長から直接聞くといい。私はその橋渡し役を担っているだけだ」
「『マーブル模様の呪い』って知ってる?」
不意打ちの質問に、榛名の眉がぴくりと動いた。が、すぐ顔つきを共に戻す。
「さあ、知りません」
「嘘が下手だね」
「黙秘します」
榛名は切れ長の瞳を閉じると斜めを向いた。眉間に皺を寄せた歌留多が「じゃあ口を割らせようか」と言って指の関節を鳴らす。
「君に何ができる」榛名の声が一層冷たくなる。
「私の強さは身をもって知ったでしょ」歌留多は構わず強気に出た。
榛名の無機質な目が歌留多を捉え、そして静かに言った。
「その気性が荒い性格は、母親そっくりだな」
歌留多の顔がひゅっと凍りつく。
次の瞬間、歌留多が手を伸ばして榛名の胸ぐらを掴むと、グッと持ち上げた。
「ちょっ、歌留多…!」
「おい落ち着け!」
颯太と出口が焦って同時に声を上げる。歌留多は構わず榛名の体をぐいっと引き寄せ、その顔を至近距離から覗き込んだ。中途半端に畳から足を上げた榛名は、僅かに眉を歪めながらも冷ややかな目つきで歌留多を睨む。
「……」
「……」
二人とも無言で、至近距離から互いを睨み合った。側から見守る颯太と出口は気が気でない。
重苦しい空気が漂う中、歌留多は凄味のある笑みを浮かべて、突き放すように榛名の胸ぐらから手を離した。
そして歌留多は背を向けると、ひとり客間から出て行こうとする。その背に向かって榛名は言葉を投げた。
「君の母親が阿墨家の宿命から逃げなければ、君もそこの友達も、こんなことに巻き込まれることはなかった」
足を止めた歌留多は一瞬目を見開いてから怪訝な顔になる。榛名の口から宿命という言葉を聞くのはこれで二回目だ。振り返った歌留多は榛名を見つめて口を開いた。
「その宿命って、いったい何のことを言ってるの?」
「……そのうち嫌でも知ることだ」
その声の響きは、どこか憐れみを含んでいた。
■
榛名が口を割らないままあっという間に時間が経ち日が暮れた。
二人きりになった客間で、出口は不機嫌な面持ちのまま榛名に言う。
「早く解放されたいなら、歌留多のことはキッパリ諦めて帰れ。それが出来ないなら……」
黙って目を閉じていた榛名が、ゆっくりと目を開けて出口を見た。
出口は語調を強めて「警察に通報して身を引き渡す。明日の朝がタイムリミットだ」と言って煙草を咥えると火をつけた。
テーブルの上に煙草の箱を置いて、先ほど冷蔵庫から出したばかりの缶ビールを置く。結局、颯太と歌留多にプラスしてこの男までもが、今夜も出口の家で寝泊まりすることになってしまった。
颯太と交代でこの男を見張りたかったが、颯太は歌留多と二人きりで隣の部屋に閉じこもっている。それに関してはまぁ……別にいい。今の歌留多のご機嫌取りは颯太にしかできないからだ。
「ったく……いつから俺の家はガキの宿泊所と、犯罪者の刑務所になったんだ」
出口は文句を言いながら缶ビールをあけた。すると榛名の眉間にやや皺が寄る。
「……犯罪者とは誰のことですか」
「惚けるなお前のことだよ。犯罪まがいな行為をしてる自覚はないのか」
うんざりしつつ、出口はふと思い出したかのように訊ねた。
「一応確認するが、お前、成人してるよな?」
「……二十八です」
「なら、酒と煙草は?」
「両方問題ありませんが」と答えた榛名は出口の言動を怪しんだ。
「だったら一緒に飲まないか。むしゃくしゃしてて誰かと飲み散らかしたい気分なんだよ……て、あぁ、その状態じゃ無理か」
「何を企んでいるんですか」
「? なにが」
「私は誰とも親睦を深める気はありません」
榛名は無感情に言い放つと顔を逸らした。出口は顔を顰め、ため息混じりに言う。
「こっちだって同意見だ。ただの愚痴聞きと酒の相手をしろっていう意味で聞いたんだよ。お前明日には警察行きになるんだから、酒も煙草もしばらくお預けになるぞ」
「……」
榛名はちらっと出口を見て、またすぐに目を逸らす。
「……酒も煙草も、しばらく摂取していません」
「なんだよ、禁酒と禁煙してるのか」
つまらないな、という顔を見せる出口と、面倒くさいな、という顔を見せる榛名。
「どちらも付き合いの為にやっていたことです。……ですがもう不要になった。それだけです」
榛名は静かに言った。
「一緒に楽しめる友人がいたような顔つきだな」
出口はなんとなく榛名の表情を見てそう思った。そしてそれを言葉にした。
すると榛名の表情が目に見えて陰る。無機質な表情の下で押し殺していた感情が出始めているのを出口は悟った。揺さぶりをかけて情報を引き出すつもりはなかったが、上手くいけばそれが出来るかもしれない。
「……友人、ですか」榛名は独り言のように呟くと、何もない一点をぼんやりと見つめる。「友人というより、父親だった人です」
「家族か。だったってことは、つまり……」
「亡くなっています」
榛名は言って、すぐに補足する。
「家族ではなく、父親のように接してくれた人です。……阿墨正。社長の夫の名です。昨年、不慮の事故で亡くなりました」
榛名は暗い過去を思い出すように瞼を閉じた。
––––物心がつく前から父親の存在はすでになかった。だから榛名は父親の顔も、声も、何ひとつ覚えてはいない。
母親と二人で狭いアパート暮らしの生活を送っていた。母親は低賃金で朝から晩まで働いていたが、生活は苦しく、典型的な貧困家庭だった。
そんな苦しい幼少期を過ぎた頃、母親が阿墨竹工株式会社の事務員に転職をした。朝から晩まで働くことに変わりはなかったが、安定した収入により生活は随分と楽になった。
「一、聞いて。社長の竹子さんがね」榛名が18歳の時に、母親が嬉しそうに報告してきた。「息子さんが良ければうちの会社に就職しないかって言ってくれてるのよ。お母さん嬉しくって……あ、でも、もちろん一がどうしたいか決めていいのよ。高校卒業して就職するよりも大学に行って勉強したいなら、お母さん全力で応援するから」
母親はそう言っていたが、本音のところは、大学の学費を稼ぐ為に働く体力は残っていなかっただろう。……この時すでに、母親は病に侵されていたのだから。
母親に癌が見つかってから亡くなるまではあっという間の出来事だった。
榛名が高校卒業を間近に控え、母親が亡くなる数週間前のこと。榛名は母親と一緒に阿墨家を訪れて、社長の竹子と対面した。
榛名は高校を卒業したら阿墨竹工株式会社に就職することを決めていた。その為の挨拶に訪れた榛名を、竹子は快く従業員として迎え入れてくれた。
そして母親が亡くなり、榛名は高校を卒業すると、阿墨家の会社で働き始めた。
榛名に一から仕事を教えてくれたのは、阿墨家に婿入りした竹子の夫の阿墨正だった。
正は温厚で人当たりがよく、他の従業員はもちろん、取引先関係者からも評判の良い人だった。
正は榛名の師匠でありながら、父親のような存在でもあった。優しく、時には厳しく接してくれる。
成人した榛名に酒と煙草を教えたのは正だった。酒と煙草、榛名はどちらもあまり好きとは言えなかったが、正に付き合って酒を飲み、仕事の合間に煙草休憩をともにする時間は好きだった。
父親の存在を知らずに育ち、母親を失ってから孤独になってしまった榛名にとって、正の存在は大きかった。二人は師弟関係でありながら、父と息子のような良好関係を築いていた。
正には、一生かけても返せないほどの恩がある。
だから榛名は、正が命よりも大切にしている会社の発展のためにも、日々業務に励んだ。そんなある日……
阿墨正が不慮の事故で亡くなった。
崩れて来た竹材の下敷きになるという、工場内での事故だった。
強いショックを受けた榛名は、数日間仕事が全く手に付かなかった。しかし、いつまでも塞ぎ込んでいるわけにはいかない。榛名は己の感情に無理矢理蓋をすると、正がいない喪失感を忘れるかのように働いた。
私がこの会社を…
正さんがずっと大切にしてきたこの会社を、守らなければ–––……。
「……お前は強いな。会社を辞めた俺とは大違いだ」
榛名の語りを静かに聞いていた出口は、自嘲気味に唇の端を僅かに上げて煙草を吸った。榛名は、この男にも何か事情があるのかと内心で思う。
「急にいろいろ話してくれたが、どういう心境の変化があったんだ?」
出口は煙を吐いて、からかい混じりに言った。榛名はばつが悪そうに「……貴方が赤の他人だからですよ」と冷たく言い放つと、そっぽを向いた。
■
一方、颯太は歌留多と二人きりで部屋にいた。
榛名と会話を交わして以降、歌留多の機嫌が目に見えて悪い。部屋の隅で膝を抱えて座っている歌留多は、暗く沈んだ面持ちで、何もない畳の一点を見つめている。
「歌留多。ちょっと聞いていい?」
颯太は歌留多の隣に腰を下ろして静かに話しかけた。歌留多は無言のまま頷く。
「母親のこと……どうして歌留多がそこまで母親を嫌っているのか、知りたいんだ」
「……」
歌留多はやがて静かに口を開くと「ヒステリックだったから、あいつ」と顔を歪めた。
「幼い頃から、常に母親の顔色や機嫌をうかがってた。母親がいるだけでビクビクして過ごさなきゃならなかったの。精神的DVって言うのかな。まぁ叩かれたこともあったけど。……とにかく酷くて、怖かったんだ」
母親は、気に食わないことがあるとすぐに怒りを露わにして癇癪を起こす人だった。
父親は出張が多くよく家を空けていたため、そのほとんどの被害は歌留多に及んだ。父親は母親について「結婚する前はあんな酷い性格ではなかった」とよくぼやいていた。言葉を濁されたが、歌留多が生まれてから母親はおかしくなってしまったようだ……。
「そっか……。話してくれてありがとう」
颯太はそれだけを言葉にした。
下手に安っぽい言葉はかけたくなかった。それに、相手の過去や心情を知りすぎるのも良くない。どんな関係でも綻びが生じてしまうから。颯太は程よい距離感から歌留多に寄り添ってあげたかった。
「……颯太。こちらこそありがとね」
顔を上げて颯太とやっと目を合わせた歌留多は笑みを浮かべた。颯太の顔にも安堵の笑みが浮かぶ。
「なんかさ…」ふと、歌留多が口を開く。
「私と颯太の関係性ってなんだろうね」
「え」
颯太は驚きながらも「俺は親友だと思ってるけど、歌留多は違った?」
「あ、もちろん、私も颯太のことは親友だと思ってるよ。けど、それとは違う感情っていうのかな……上手く言えないけど、颯太に感じてるの、私」
「えぇと、それって……」
突然すぎた。
颯太の戸惑いに気づいた歌留多は慌てて「あっ、ちがうちがう!恋愛感情とかではないから!」「あっ、そ、そっか!」「うんうん!」二人は大袈裟に声を大きくしてテンパる。
「その、なんていうかね、もちろん颯太は親友なんだけど、それ以外だと、どんな関係性があるかなぁって、ちょっと思っただけ」
何言ってんだろ私、ごめん忘れて!と歌留多は頬を赤らめて笑った。けれど颯太の方は口元に手を当てて暫く考えるそぶりを見せると、やがてぽつりと言った。
「……きょうだい、とか?」
「あ、それだ!」
歌留多がスッキリした笑顔になる。
「颯太って私のこと甘やかしてくれるし、私も颯太のこと頼りにしてるし、なんか私たちの関係性って、兄と妹って感じだよね」
「同い年なのに、俺が兄貴なんだ」
「どっちかっていうと、颯太はお兄ちゃんだよ」
そう言ってけらけら笑う歌留多に、颯太もつられて笑う。すると歌留多が「あ、そうだ」と急になにか思い出したように、別の話題に切り替えた。
「実はね、颯太のアパート前で榛名からこんなこと言われたの。『阿墨の血を引く娘なら宿命からは逃れられない』って」
「宿命?」
颯太は眉を顰める。そういえばさっきも、榛名は歌留多に向かって似たようなことを言っていた。
「どういう意味だろうな…」
「わからない。けど…」
歌留多は両膝を抱えていた腕にぎゅっと力を込めると、不安そうな顔をして少し黙る。
「歌留多?」
「どうしよう颯太。なんか、なんて言ったらいいか……。とにかく、すごく怖いの」
「え…?」
「私の体内に流れている血が……阿墨の血が怖い……」
歌留多の震えた言葉に、颯太は何も返せずに困惑した。
■
……………
……
深ヶ集落にそびえ立つ阿墨山。
その山間のゴツゴツした土の道を、一台の軽トラックが走行していた。助手席には榛名一。運転席には阿墨正が乗っている。
昼間でも薄暗い山の奥へ二人を乗せた軽トラックは進む。目指すのは阿墨竹が生育している伐採地だ。
「一がここで働き始めて、もう三年が経つのか」
正の言葉に榛名は「はい」と答えた。
「もうすっかり、一人前として仕事をこなせるようになったなぁ」
「そんな、私なんてまだまだです」
「いいや、優秀なお前のおかげで事業も安定している。若い子が会社や地元を盛り上げてくれるのは本当にありがたいことだ」
「私が社会人として成長できたのも、正さんのご指導のおかげです」
「ハハハっ、嬉しいことを言ってくれるじゃないか」
正は満面の笑みを浮かべ、その横顔を見て榛名は微笑んだ。やがて周辺の景色が竹林へと変わっていく。
すると正の顔から笑みが消えて、どこか険しくなった。「一。お前にもいずれ、聞かせておこうと思っていた話がある」
「?…はい」
「阿墨家が会社を設立した起源についてだ」
「起源…ですか」
榛名は思わず声を高くした。正は頷いて言う。
「この山にはな、少女の死体が埋まっているんだ」
え、と榛名は眼鏡越しの目を見開いた。前を向いている正は暗く淀んだ目をしている。その面持ちを見た榛名は、正が冗談を言っているとは思えなかった。
「明治時代に生まれた阿墨家の娘だ。その娘には死を呼ぶ力があった。娘に呪われた人間は必ず死ぬ。娘は周囲から恐れられた。やむなく両親は娘を地下牢に閉じ込めて、そこで長年生活を送らせた。
そんなある日、娘が両親に向かってこう言ったそうだ。『私を殺して、あの山の竹林にこの身を埋めてほしい』……と」
娘が自らそう申し出た。
その理由は…
「『そうすれば、この地でしか育たないマーブル模様の竹ができる。その竹を使って商売をすれば、阿墨家は富を築くことができる』……とな」
ガタンッ
タイヤが石を踏んだのか、車体が大きく揺れた。助手席の窓ガラスに飛び石が打つかる。榛名は反射的に窓の方に顔を向けた。正は前方をじっと睨みつけたまま話を続ける。
「ただしその竹が生育し続ける為には、阿墨家の人間が『あること』をしなければならなかった」
あること。
それは一体…
「それは–––、 ……………」
正の言葉が不自然に途切れた。
窓の方を見ていた榛名は正に視線を戻して––––顔が凍りつく。
ハンドルを握っていた両手がだらりと体の横に垂れ下がっている。顎を上げて喉元を晒した状態のまま動かない正は、潰れた頭からおびただしい血を流していた。
目を見開き、口を半開きにして、その口からもだらだらと血を流し、絶命している。
榛名の背筋を、怖気に近い衝撃が走り抜けた。
……………
……
■
ハッと目を覚ました榛名は「はぁ、はぁ」と乱れた息を吐く。額には汗が滲んでいた。手足は縛られたまま、薄暗い客間でいつの間にか眠っていたようだ。
過去に正と二人きりの車内で実際に交わした会話の記憶が、夢となって思い起こされたのだ。
しかし嫌な夢だ……。あの後はたしか無事に伐採地に到着して、二人で仕事をしたのだ。しかし夢の中では違った。助手席から見たあの悲惨な光景は、事故直後の正の姿だった。重い竹材の下敷きになって亡くなっていた正を思い出して、体が震える。
その時、榛名はすぐ近くから何者かの気配を感じ取った。顔を上げると、大きな人影が目の前まで迫ってくる。
思わず声を上げようと開いた口を、目の前から伸びた手のひらが塞いだ。
「っ、」
「シッ!静かにして」
榛名の口を塞いだのは歌留多だった。すぐ目の前に両膝をついた歌留多は、びっくりしている榛名に顔を寄せて小声で囁く。
「静かに、大人しくして。わかった?」
「…、……」
榛名は眉間に皺を寄せながらも、落ち着きを取り戻す。歌留多は口もとから手を離すと、声を潜めて言った。
「私と取り引きしよう」
毒気を抜かれた榛名は怪訝な顔をして歌留多を見つめる。
「颯太と出口さんをこれ以上、阿墨家の問題に巻き込まないって約束してくれたら、大人しく連れ去られてあげる」
歌留多はそっと手を差し出した。その手には榛名のスマートフォンと、そして手足のテープを切るための鋏が握られていた。
■
「オジサン、起きて!」
出口の寝室に入って来た颯太が、布団の中にいた出口の体を揺らした。
「おま、うるさ…なんだよ急に……」
「歌留多が、アイツと一緒にいなくなった」
え、と出口はぽかんとしている。
颯太は手に持っていた紙を出口に見せた。ノートを破って書かれていたそれは、歌留多からの置き手紙だ。
『ここから先は阿墨家の問題だから、もう二人を巻き込めない。祖母に直接会って解決してくるよ。二人にはたくさん迷惑かけてごめんなさい。感謝してます』
「……起きたら歌留多の荷物がなくなってて、アイツの姿も消えてた。さっきパーキングを確認しに行ったら車もなくなってたんだ」
「……」
颯太は不安な顔になりながら、無言で手紙を見つめている出口に言う。
「俺は二人の後を追いかけるよ。歌留多を一人にはできない」
だからオジサンも一緒に–––…と言いかけた颯太は口を噤んだ。これ以上、出口に頼ることはできない。無関係な彼を巻き込む必要はない。
「二日間、お世話になりました。後日お礼に来ます。愛媛のお土産持って」
笑みを浮かべた颯太は立ち上がって部屋から出て行こうとしたが、「おい」という低い声と同時に腕を掴まれた。
振り返ると、目の前に出口が立っていた。怒ったような顔をした出口は颯太の腕を掴んだまま、もう片方に持つ手紙を掲げて見せる。
「アイツの思いを無視するのか?」
「っ、……けど歌留多は怖がってた。俺の隣で震えながら怖いって言ってたんだよ。そんな歌留多を一人にはできない」
颯太から視線を逸らした出口は苦悩の表情を浮かべて黙り込む。出口が心の中で葛藤している様子を見た颯太は、出口に向かって顔をぐっと近づけた。
「オジサン」
「なん、だよ」
「俺に、協力してくれませんか」
「……なんでだよ、図々しいぞお前」
「迷ってるくらいなら協力してください。歌留多のこと、ほっとけないくせに」
颯太は力強い目をして出口を見つめた。対する出口は感情を読まれて嫌な気分になりつつも、断れない自分に対して苦笑いを浮かべる。
「……この貸しは高くつくぞ」
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