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第三章 阿墨家の娘



 深夜の車通りが少ない国道を、榛名と歌留多を乗せた車が走行している。
 二人は互いに無言だ。榛名はヘッドライトに照らされた前方を見つめたまま運転をし、助手席に乗っている歌留多は頬杖をついて、暗い窓外をぼんやりと眺めている。

「…あ」

 ふと目に留まった前方のコンビニの明かりに気づいた歌留多が口を開いた。

「あそこのコンビニ寄ってくれない?トイレ借りたいからさ」

「……」

 榛名は黙ったままちらっと歌留多に目をやった。タイミングがズレて歌留多が榛名の冷淡な横顔を見ると、露骨にムッとした表情になって声を大きくする。

「今さら逃げないってば。生理中だからトイレ借りたいの!」

 その台詞に対しても、榛名は特に表情の変化もなく無言のままだった。おい無視すんな!と、歌留多は内心イライラする。
 榛名が何を考えているのか、その端正な横顔からは全く読めない。ショッピングモールで初めて対峙した時と同じだ。その時のことをぼんやり思い出していると、減速した車がコンビニの駐車場に入っていく。無視されなかったことにとりあえず安堵した。

 車は建物の前の駐車スペースに停まった。歌留多は降りる祭に一応「ありがと」と一言伝えたが、榛名からは特に返答はない。気にせず店内に入った歌留多は、おにぎりコーナーで品出し作業をしていた店員にトイレを借りることを伝えた。

「う〜ん…」

 トイレから出た歌留多は、何か買おうとお菓子コーナーに向かった。好きなキャラクターとコラボしている小袋のチョコと、ぶどう味のグミを一袋ずつ手にとってからふと、榛名にも何か買って行こうかなとしばし逡巡する。が、どうせ受け取ってくれないだろうと結論づけてレジに向かった。


「お待たせ」

 戻って来た歌留多は助手席に座ると、購入した小袋のチョコをさっそく開封し始めた。「このキャラクターのステッカー集めてるんだよね〜」とちょっとワクワクして言う歌留多の隣で、榛名は黙って車を動かす。

「…あ、残念、かぶっちゃった」

 すでに当たっているうさぎのキャラクターステッカーを、歌留多はその場にいた友達にあげるノリで「はい。これあげる」と榛名に向かって差し出していた。
 車を一度停めた榛名は、差し出されたステッカーを見る。眼鏡の奥の瞳が僅かに細まった。何だこのキャラ……とでも言っているような気がして、歌留多は思わずくすっと笑う。

「スマホカバーに挟んで使えば可愛いよ」

 そう口にしてから、この言い方だとちょっと語弊があるかなと思った。可愛いのはこのキャラクターであり、このキャラクターをスマホカバーにして使っている榛名のことじゃない。……想像してみると、可愛いよりも可笑しいと思える気持ちの方が勝った。
 榛名が発言を勘違いして気分を害してしまわないかと思ったが、相変わらず無言の榛名はステッカーを受け取ると、微かに表情を緩めた。

(……え?今、笑った?)

 その微妙な変化に気づいた歌留多は目を見開いて、榛名の顔をまじまじと見つめた。一瞬で無表情に戻っていた榛名はそんな歌留多には目もくれず、ステッカーをスーツのポケットに突っ込んでから運転を再開する。

 再び国道を走り出した沈黙の車内で、歌留多はようやく窓外に顔を向けると、暗いだけの景色を眺めた。
 何とも形容し難い気持ちが落ち着かない。心臓辺りにそっと手を持っていく。
 鼓動が早くて、ちょっと苦しい…。
 

 空が早朝の明るさを取り戻していく中、車は薄暗い山間の道路を走行する。街路灯もなくヘッドライトの明かりだけが頼りで、歌留多は少しハラハラした。

 ようやく車は深ヶふかが集落に到着した。
 ずっと沈黙が続いている車内で、歌留多は興味津々といった顔で集落の光景を眺めた。深い山々に囲まれた土地には広い畑や田んぼ、そして昭和の古い民家がぽつぽつと建っている。美しくもどこか寂しい田舎の風景だ。

 やがて立派な阿墨の屋敷が見えて来て初めて、歌留多は心細さを感じた。
 ずっと一緒にいてくれた颯太がいない。自分の味方が一人もいないのだと改めて思うと、心細さに混じって不安感も芽生えてくる。

 敷地内の隅にある駐車スペースに車が停まる。榛名がシートベルトを外しながら、歌留多に車内で待機するよう一言伝えて車から降りた。
 ドアを閉じて少し離れたと思ったら、スマートフォンを取り出して誰かに電話をしている。歌留多は耳を澄ませてみたが、くぐもった声は何を言ってるのか聞き取れなかった。
 やがて電話し終えた榛名が戻って来ると、運転席側のドアを開けて中を覗き込む。

「降りろ。今から屋敷の離れまで案内する」

 ハイハイ、と歌留多は怠そうな返事をして、言われた通りに車から降りた。



 屋敷の玄関から中に足を踏み入れた歌留多は、大人しく榛名の後ろを着いて行く。中庭に出る短い渡り廊下を歩いた先には平屋建の離れがあった。
 榛名が襖を開けて歌留多を中へと通す。床の間を設えた八畳の和室には座卓があるだけで、他には何もなかった。

「社長の指示があるまでは、ここでしばらく待機してもらう」

 後ろから榛名の事務的な声が聞こえて、振り返った歌留多は思わず不満を漏らした。

「ここ何もないじゃん。Wi-Fiはあるの?トイレは?トイレないとめちゃくちゃ困るんだけど」

「トイレならそこの奥の扉だ」

 トイレがあると聞いてホッとした歌留多だが、またすぐ不満を漏らす。

「しばらくってどのくらい?早く祖母と会って話がしたいんだけど」

「社長は朝の会議やらで午前中は手が離せない」

「えぇ〜。あ、じゃあさ、終わるまで榛名さんが暇つぶしの話し相手になってよ。だってここテレビもないんだよ?」

 すると榛名が僅かに眉をひそめた。

「私はすぐ仕事に戻らなければならない」

「うわあ真面目じゃん。ちょっとくらいサボったって平気だよ。あ、さっきコンビニで買ったお菓子あるけど食べる?」

「失礼する」

 榛名がくるりと背を向けると、歌留多は思わず腕を掴んで引き留めた。

「あーっ、待って待って!……本当に行っちゃうの?」

 寂しさを感じさせる声が自身の口から飛び出したことに、歌留多は内心で戸惑った。
 榛名が怪訝な顔をして歌留多を見下ろす。その目は相変わらず冷たい。
 
「ちょ、ちょっとだけでも駄目?」

「……君と私で、何の話をするんだ?」

「う〜んそうだなぁ。あっ、恋バナとか?」

「失礼する」

 急激に冷めて再び出て行こうとする榛名の腕を、またがっしりと掴む歌留多。鬱陶しい、という目で睨まれた。

「そんな怒んなくてもいいじゃん!ちょっとした冗談だよ。榛名さんって恋人いなさそうだし、てか、恋バナできるような経験もしてこなかったような気がするし?」

「……挑発しているのか?」

「あ、気にしてた?ごめんごめん。でも大丈夫だよ、私も恋人できたことないからさ。なんなら初恋だってまだなんだよ。ウケるでしょ」

 歌留多は両手を頭の後ろに回してけたけた笑った。すると、冷ややかな顔つきは変わらない榛名が初めて尋ねてきた。

「君とずっと一緒にいる彼は違うのか?」

「あ、颯太のこと?颯太は親友だよ。お互いに恋愛感情はないってハッキリ言える関係なの」

 けれど、二人のこの関係性はあまり周りに理解されない。
 特に歌留多は大学の女友達から「下心なく優しくしてくれる男子ってなかなかいないよ」「なんで付き合わないの?」「彼氏にしなきゃ勿体無い!」と口を揃えて言われてしまう。

「やっぱり変かな?付き合ってない男女が仲良すぎると周りからあれこれ言われるんだよね。余計なお世話だしホントうんざりする……。あーぁ、やっぱり男子に生まれたかったなぁ。男子だったら颯太と仲良くても余計なこと言われないし、毎月くる生理痛でしんどい思いをすることもなくなるし」

 途中から愚痴になってしまった。我ながら面倒くさい女だと思う。榛名の方がうんざりしていることだろう。

「あー、なんか急に愚痴っちゃってごめんなさい。今の話、不快だったよね」

「……今に限らず、ずっと前から不快に思っているが」

「ひっど!ほんと榛名さんて、言い方に遠慮がないよね」

 嫌いじゃないけど、という言葉は内心で呟いておく。
 出会い方が最悪だった榛名に対して、歌留多は上手く言い表せない感情を抱き始めていた。

「あー…うん、えぇと……」

 ステッカーを手にして微かに微笑んだ榛名を見たあの時から、心臓辺りがずっと苦しい。歌留多は急に来た緊張感に襲われて口ごもる。
 榛名の目を見られなくなって俯いた歌留多は、すぐにパッと顔を上げて笑顔をつくった。

「一人で適当に時間潰すからもう大丈夫!仕事があるのに無理に引き留めちゃってごめんなさい」

 ほら早く仕事に行って行って!と今度は榛名の背中を押した。
 そんな歌留多に対して榛名は怪訝な顔を見せたが、そのまま無言で出て行った。

「あ〜もう……ほんと何なのコレ……」

 しゃがみ込んで頭を抱える。しばらくしてようやく落ち着いた歌留多は背筋を伸ばして、ふう、と深く息をついた。


 

 一方その頃。出口が運転する車は、深ヶ集落へ向かっていた。

「歌留多が言っていたんです。自分の体内に流れている阿墨の血が怖いって……」

 助手席に座る颯太が、視線を足元に落として静かに言った。

「それに榛名が歌留多に向かって言った“阿墨家の宿命”って、どういう意味か気になりませんか」

 ハンドルを握る出口は、ちらっと真横に視線を投げた。浮かない表情をしている颯太の横顔を見て、視線を戻したあと口を開く。

「実は、あいつから竹の香りがしたことがあったんだよ」

「歌留多からですか?」

「ああ」

 赤信号で停車する。

「コンビニの店内でな。その一度きりだったが。……あの香りを嗅ぐと、酷く気分が悪くなる」

「竹の香りって、そんな嫌な気分にならないと思いますけど」

「ただの竹の香りじゃねぇからだ。なんつーか……とにかく、気持ち悪くなる香りなんだよ。お前は嗅いだことないか?」

「ないですよ」

 颯太は即答した。

「歌留多は香水とかもつけないし、それ以外の香り物ならハンドクリームとかは使ってるの見たことありますけど。だとしても、そんな強い香りをさせていたことは一度もありません」

「……そうか」

 出口はすっきりしない表情で呟いた。
 颯太に確認する前から何となく分かっていた。あの竹の香りは、香水やハンドクリームなどの人工的な香料ではないことに…。

「もしかして…」

 顎に指先を当てて何やら思案した颯太が、独り言のように呟いた。

「どうした?」

「竹の香りって聞いて、阿墨竹のことが思い浮かんだんです。少なくとも歌留多にも関係することじゃないですか。それに霊感のある出口さんが、死ぬ人の体に見えたマーブル模様っていうのも、阿墨竹に関係してますよ」

「まぁ…そうだな」

 阿墨竹は深ヶ集落にある阿墨山でしか育たない、竹の表面にマーブル模様ができるという不思議な竹だ。何故マーブル模様ができるのか、その理由は解明されていない。

「もしかしたら、阿墨竹が呪いの根源にあるのかも……」

 颯太がその若い頭脳を働かせる中、出口には加えて、もう一つ気になることがあった。
 それは、死ぬ人間の背後に立つ着物姿の女のことだ。その女は出口の夢にも現れて、狂ったように嗤っていた。

 信号が青になり、車を発進させる。
 今の現状では、あの女の正体も含めて、何一つ明らかにはなっていない……。


 

 山間の急なカーブとでこぼこ道に揺れながら、二人を乗せた車はやがて深ヶふかが集落に入っていく。
 出口がここを訪れるのは二度目になる。もう二度と此処を訪れることはないだろうと思っていた。偶然訪れたこの地に足を踏み入れてしまったあの日から、正体不明の何かに呼ばれ、そして逃れられなくなっているかのような……そんな、恐怖に近い感覚がある。


 前回と同様に、水車小屋がある広い駐車スペースに車を停めた出口は、目の前に広がる風景に目をやった。今のところ人気は全く感じられない。山道を走行している間も、集落から下ってくる車とは一度もすれ違わなかった。

「とりあえず、このまま車で工場まで行ってみましょうか」

「……」

「オジサン?」

「あ?あぁ……なんだよ?」

「いや、なんだよじゃないですよ。ここから先どう行動するかって話、さっきまでしてましたよね?ずっと生返事だったからもしかしてと思ったら……」

 助手席から呆れたように深々とため息をつかれた。

「田舎のノスタルジーな風景に浸ってる場合じゃないですよ」

 ぶつくさ文句を言われて、うるせぇな、と出口は内心で吐き捨てる。

「阿墨の家の場所、調べても出てきませんでした」

 颯太はスマートフォンを操作して、地図マップから工場までの道順を調べている。

「このまま車で阿墨竹工の工場に行けば誰かいるだろうから、そこで阿墨の家がどこにあるか聞きましょう。向かう途中で住民を見かけたら、声をかけてみるのもありですね」

「そうだな。じゃあナビを頼む」

 出口は早々に返事をして、ハンドルを握った。そしてふと思う。

「なぁ、そろそろそのオジサン呼びやめろ」

「え? はぁ…じゃあなんて呼べば」

「普通に“出口さん”でいいだろ」

 颯太はうーんと唸る。悩む必要がどこにある。

「じゃあ、春さんで」

「はあ?名前はやめろ」

「苗字と名前なら大して変わらないじゃないですか」

「絶対に呼ぶな。だったらオジサンでいい」

「めんどくさいな」と嫌そうな顔をして呟いた颯太に、「お前もめんどくせぇよ」と出口は言い返してやった。



 数分後、車は目的地の工場に到着した。
 経年劣化をそこそこ感じる、白を基調にした鉄骨二階建の外壁には社名が入っている。建物一階の正面シャッターは全開になっており、中からは作業音が漏れ聞こえていた。

 少し離れた邪魔にならない場所で車を停めて、二人は工場に向かって歩いて行く。丁度、中から作業服を着た中年の男性が出て来た。休憩中なのかお茶のペットボトルを片手に、肩にかけたタオルで顔の汗を拭っている。

「あの人に聞いてみるか」

 出口と颯太は男性に近づき「こんにちは」「ちょっとお尋ねしたいんですが」と声をかけた。作業員は気難しそうな見た目とは違い、二人に気づくと笑顔で対応してくれる。

「社長の家なら、あそこに見える大きな屋敷がそうさ」

 従業員は遠くを指さして言った。山を背にしてポツリと佇む重厚な造りをした屋敷は、離れた場所から見ても存在感を放っている。

「阿墨竹子さんは、この時間帯ご自宅にいますか?」

 出口は顔の向きを男性に戻して尋ねた。

「あぁ、多分いると思うよ」

「あの」

 次に颯太が尋ねる。

「この集落に、俺くらいの若い女性が来てませんか?」

「ん? あぁ、そーいやぁ今朝小耳に挟んだんだが、疎遠だった大学生の孫が社長に会いに来てるって聞いたなぁ」

 出口と颯太は顔を見合わせた。間違いなく歌留多のことだ。

「–––おい、なんだお前らは」

 作業場の奥から低い声を響かせて、別の男性作業員が出て来た。ガタイがよく、厳つい顔つきをしている。

「あぁ、佐久本さくもとさん。お疲れ様です」

 出口たちの前にいた従業員が低姿勢になって、近づいて来る男性にぺこりと頭を下げた。
 佐久本という男性は高圧的な態度で太い両腕を組むと、出口と颯太をじろりと睨む。

「お宅ら、うちの社長にどういったご用件で?」

 怪しまれていることに気づいた出口は内心焦った。適当に誤魔化して颯太の腕を引いて車に戻ろうと考えたところで、にっこりと笑った颯太が口を開く。

「僕たち、新聞社の者です」

 咄嗟に出た嘘だ。
 颯太がちらっと出口に目配せをすると、出口はすかさずその嘘に乗っかった。

「そうなんです。今日はこちらの会社の社長に、インタビューの取材でお伺いしました」

「そんな話は聞いてねぇが…」

 佐久本が怪訝な顔で呟く。

 名刺を見せろ、なんて言われたら逃げ場がなくなると焦った二人は、「急いでいるので失礼します」と頭を下げて、足早に車へ戻る。
 佐久本は黙ってこちらを睨んでいたが、追ってくることはなかった。

 
「さっきの厳つい人、どっかで見たような……」

 助手席から颯太が呟くと、ハッと思い出したようにスマートフォンを操作する。出口は気にせず車を動かした。

「これだ。春さん、この人ですよ」

 颯太がスマートフォンの画面を横から見せてくる。だから名前で呼ぶな、と若干イラつきながら出口はちらっとだけ視線を横した。

「で。誰なんだあの男は」

「三年前に地元のテレビ局がこの工場を取材していて、あの男のインタビュー記事が写真と一緒に載っていました。名前は佐久本健剛さくもとけんごう。現在は四十五歳ですね。三十代前半までプロの格闘家として活躍していたが体の故障によって引退。その後阿墨竹工に就職した、だそうです」

「ふーん」

 颯太が簡素な紹介文を読み上げると、出口は大して関心なさげな返事をして、最終目的地の阿墨家へ車を走らせた。



 広い敷地を囲む塀と門の奥に、阿墨家の立派な屋敷が見える。重厚な屋根の造りをした建物はこの土地の景観にも堂々と馴染んでいた。

「ここに歌留多が……」

 焦る気持ちを隠せない声で颯太が呟いた。その隣では出口が表情を曇らせている。

 ……この家に近づくにつれて、あの嫌な竹の香りが濃くなっていた。

 先ほどの工場内からも、大量の竹材から放たれる竹の香りはしていた。だが、それらとはやはり違う。この嫌な香りは酷く気持ちが悪くなるのだ。

(なんなんだこの香りは……)

「行きましょう」

「……、あぁ…」

 先に歩き出した颯太の背を見つめた出口は、ぐっと我慢して足を踏み出した。
 閉ざされた門扉の横壁にあるインターフォンを、出口が止める間もなく颯太が押す。

「おい、いきなり訪問して相手になんて言うのか考えてるのか?」

「単刀直入に歌留多に会わせて下さいって言います」

「…追い返されても知らねぇぞ」

 軽く言い合っていると『はい。どちら様でしょうか』と柔らかな女性の声で応答があった。颯太が応える。

「突然すみません。俺、山本歌留多と同じ大学に通う水野颯太といいます。実はちょっと大事な用があって、直接彼女と会って話がしたいんですが、会わせていただけませんか?」

『あらまぁ、奥様のお孫さんのお友達……』

 女性の声から少し戸惑いを感じた。

『私はこの家の家政婦なんです。いま奥様に確認を取りますから、少々お待ちください』

 しばらく待たされた後、インターフォンから『お待たせしました。どうぞ、お入りください』と返答があり、二人は門扉を開けて敷地内に足を踏み入れた。
 二人が向かう先にある玄関扉が開くと、中から家政婦だろう五十代くらいの女性が姿を見せる。

「どうぞ、お入りください」

 玄関前まで来た二人に、中へ入るよう促した。

(……ぅ、…)

 香りが一層濃くなった。
 苦痛に吐き気がする。出口は思わず手で口もとを抑えそうになるのを、寸前のところで我慢した。颯太が中へ入って行く。入りたくない、と体が拒否した。家政婦が不思議そうにこちらを見ている。

 広い玄関に足を踏み入れると、中に着物姿の女性が立っていた。
 着物はグレーで、繊細な植物の刺繍が入った白の帯を合わせている。七十代くらいの、凛とした綺麗な女性だった。

「はじめまして。阿墨竹子と申します」

 竹子は皺のある目元を柔らかくして微笑むと、すっとお辞儀をした。出口と颯太も慌てて名前を告げてお辞儀を返す。

「あなた方のことは、榛名から聞いているわ。孫の歌留多の友人だと」

 竹子は急に無表情になると、出口に目を向ける。目が合った瞬間、出口は嫌な寒々しさを感じると同時に、確信した。
 この嫌な竹の香りは、竹子からしていると……。
 竹子はじっと出口を見つめたあと、僅かに口角を上げて口を開く。

「どうぞ上がって。お茶でも飲んでくださいな」

 竹子は家政婦に目を向けた。

「梅木さん。二人を客間まで案内して。それからお茶出しもお願いね」

「はい、奥様」

 竹子は背を向けると、廊下の奥へと立ち去った。



 家政婦の梅木に客間まで案内されると、出口と颯太は並んで座布団の上に正座をした。少し遅れて入って来た竹子が二人の正面にまっすぐ背筋を伸ばして座ると、ひと息つく間もなく言った。

「せっかく来ていただいて申し訳ないのだけれど、歌留多は今、風邪で寝込んでいるんです」

「え?」

 颯太が思わず声を上げた。困惑した顔で「風邪…ですか」と呟く。

「えぇ。ここに到着してすぐ体調を崩してしまったの。今は薬を飲んで眠っています。ですから今すぐ会って話をすることは出来ません。私でよければ代わりに伝えておきますよ」

 竹子は颯太を見て、にこりともせずに淡々とした口調で言った。「ご用件は?」と尋ねられた颯太は「えっと…」と歯切れ悪く笑う。
 ヤバい、と颯太は助けを求める思いでちらっと隣に視線を流した。しかし出口は口を閉ざして下を向いている。その横顔が酷く悪いことに気づく。

「……春さん、大丈夫ですか?」

「………」

 颯太の心配する声に出口は反応することも、返事をすることもできなかった。そのタイミングで部屋に梅木が入って来ると、三人分の茶托と湯呑のセットを置いていく。
「どうぞ」と出されたお茶に「ありがとうございます」と礼を言う颯太の隣で、やはり出口は無言のままだ。出口の様子に気づいた梅木が「顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」と心配そうに声をかける。

「風邪の引き始めかもしれませんね。よろしかったら横になって休んではいかが?」

 すると竹子が出口を見やり、表情一つ変えずそう告げて「梅木さん。来客用の部屋に布団を用意してちょうだい」と指示を出す。それを聞いた出口は断ろうと慌てて顔を上げた。

「っ、––––」

 出口の顔が、竹子を見た瞬間強張った。
 あの狐顔の女が、竹子の背中に覆い被さっていた。
 細い腕が竹子の両肩からだらりとぶら下がり、長い黒髪がまるで滝のように肩に掛かっている。女は肩口に乗せていた頭を上げて、髪の毛の隙間から青白い顔半分を覗かせた状態で、出口のことを凝視していた。
 ゾッと背筋に悪寒が走る。

「どうかしましたか?」

 奇妙な沈黙を破った竹子の問いかけに、出口は答えられない。「女の幽霊をおんぶしてます」なんて言えるわけがない。 
 身を固くした出口は、竹子の肩口から目が逸らせずにいた。加えて、あの酷く気持ちが悪くなる竹の香りが出口を襲う。
 もう、限界だった。

 出口は口と鼻を手で塞いで背中を丸めた。「春さん!?」と颯太が自分の名前を呼ぶ声が遠くから聞こえてくる。

「……っ、ぅ……」

 竹の香りに混じって、生臭い……生ゴミに近い腐敗臭がすることに気づいた。

 ………生ゴミ?
 いや、違う……
 これは…………


 “死臭”だ。


 実際に嗅いだことはない。けれど分かる。人間の腐敗臭が竹の香りに混じり合い、それが出口の体調を悪くしていた。
 耳鳴りまでしてきた。だんだんと視界が狭くなってくる。
 かろうじて聞こえていた颯太の声が途切れると同時に–––出口は意識を失った。

「ちょっ、春さん!?」

 気を失った出口の体を、颯太は咄嗟に手を伸ばして支えた。

「大変…!急いで布団を用意します」

「待って梅木さん」

 梅木が慌てて部屋から出て行こうとすると、一人冷静な竹子がそれを止めた。

「部屋の用意は他の者にさせるわ。梅木さんは水野さんを離れに案内してあげて」

「あ、…は、はい。承知しました奥様」

 竹子は梅木から颯太に視線を戻し、冷たく感じる笑みを浮かべた。

「歌留多は離れにいます。彼の具合が良くなるまでの間、会うことを許可しましょう」

「……」

 何が許可だ、と颯太は僅かに眉を顰めた。
 先ほどまで歌留多に会わせる気がない物言いだったのに、急に許しが出たことに対して不審に思う。

「えっと……じゃあ、春さんを運ぶの手伝います」

「いいえ。彼は他の者に運ばせます」

 と、キッパリ断られた。
 梅木が颯太に近づくと「離れまでご案内します」と、どこか急かすような口調で言った。
 まるで出口と引き離そうとしているかのように感じて、颯太は胸がざわついた。……しかし、今このチャンスを逃したら歌留多に会えなくなるかもしれない。
 颯太は後ろ髪を引かれる思いで出口を残して、梅木とともに客間を後にした。


 

 颯太は無言で梅木の後ろを着いて行く。中庭に出て、平屋建の離れに繋がる短い渡り廊下を歩いた。
 梅木が襖を開けて颯太を中へと通す。床の間を設えた八畳の和室には座卓があり、そこに頬杖をついてぼんやりとスマートフォンをいじっている歌留多の姿があった。

「歌留多!」

「えっ、颯太?」

 驚いた顔をした歌留多と目が合った。颯太はホッとして、気が緩んだ笑みを浮かべる。すると梅木が颯太の背後から言った。

「しばらくこの部屋でお過ごしください。お連れの方に何かありましたら伝えに来ます」

 事務的な口調で告げてお辞儀をすると、颯太が礼を口にする前に襖を閉じて出て行ってしまった。

「颯太、何でここに来たの?」

 立ち上がって駆け寄ってきた歌留多を目の前にして、颯太は怒った顔をして言う。

「何でって、歌留多があいつと一緒に急にいなくなったからだろ」

「えー、だってそれは……。いや、そうだよね。相談もせずに出て行っちゃってごめんなさい」

「……本当に、すごく心配した」

 二人は互いを見つめると、何も言わずに微笑み合った。

「そういえば、竹子さんから歌留多は風邪を引いて寝込んでるって聞いたんだけど、大丈夫なのか?」

「え?なにそれ。私ちょー元気だよ」

 歌留多はきょとんとした。
 驚いた颯太の顔が一気に険しくなる。竹子に対してハッキリとした不信感が強まった。

「歌留多は、竹子さんと何か話したりした?」

「ううん、実はまだ会ってもないの。榛名さんの車で到着したあとすぐに離れここに連れてかれて、社長の指示があるまではここで待機してもらうって言われてからずっと音沙汰なしでさぁ」

 それを聞いた颯太は眉をひそめる。

「歌留多、今すぐここを出よう。この家にいたら危ないかもしれない」

「え?……でも、なんか外から見張られてるっぽいんだよね。さっきそこから外を覗いたら、中庭に二人くらい居たから」

 歌留多はそう言いながら、中庭側の閉じられた障子を見た。颯太も同じ方向を見る。

「見張り役がいるってこと?」

「うん。どっちもガタイがいい男だったよ。ここで働いてる人たちかな」

 それを聞いた颯太の脳裏には、先ほど工場で見た佐久本の姿が浮かんだ。喧嘩が強い歌留多がいるのは心強いが、佐久本のようなガタイがいい男たち相手に、この集落から脱出できるだろうか。

「じつは俺と一緒に、春さんもここに来てるんだ」

「春さんって誰?」

「出口さんの名前だよ」

「あーそっか。そんな名前だったっけ。忘れてた」

 歌留多はへらりと笑って「私も春さんって呼ぼうかなぁ」と、なんとも呑気だ。
 そんな歌留多に内心呆れつつ、颯太はここに来るまでにあった出来事を話した。

「出口さん、大丈夫かな…」

 出口が体調を崩して倒れたことを知った歌留多が心配する。颯太は視線を落として、悔やむように眉を顰めた。

「今思えば、この家に着いてからずっと体調が悪そうだったんだ。竹子さんと対面してからは様子もおかしかったし…」

 颯太は客間での出口の様子を思い出す。顔色を悪くした出口は何かに怯えたように竹子のことを凝視していた。

「もしかしたら春さんには、何か見えていたのかもしれない」

「何かって?」

「幽霊」

 颯太の一言に、歌留多がぞっと震え上がる。

「ちょ、…マジ?」

「うん。春さんには霊感があるし、竹子さんを見つめるあの怯えた様子からすると–––」


 ゴトンッ

 
 突然響いた物音に、二人は飛び上がった。歌留多が颯太の腕に手を回して抱きつく。

「やばいやばいやばい!颯太が怖いこと言うからぁ!」

「お、落ち着いて歌留多!……さっきの音、隣の部屋から聞こえたよな」

 颯太は真横をちらっと見た。そこには四枚立ての閉じられた襖がある。

「この奥は部屋になってるの?」

「あ、うん。ここに連れて来られてから隣の部屋も一通り見たけど、この部屋と同じような部屋だったよ」

 歌留多がビクビクした様子で「ハクビシンとかが屋根裏で暴れてるような音だったよね。きっとそうだよ!」と自分に言い聞かせるように言った直後。


 ゴトンッ


「「………!?」」

 また奥の部屋から物音が響いた。
 二人は体を強張らせてごくりと息を呑む。

「……確認してみよう」

 颯太は言って襖に近づいた。颯太の腕を掴んでいる歌留多も一緒に近づく。
 颯太がゆっくりと襖を開けて、二人は恐る恐る中を覗き込んだ。明かりがついていない薄暗い六畳の和室を見回すが、特に妙な物は何もない。

 ……ゴトッ

 また物音がした。先ほどよりは響きが小さかった。
 二人の目線が奥にある押入れに向く。その上部にある天袋から、再びゴトッ…と物音がした。

「…ハクビシンよ」

 歌留多が弱々しい声で言った。

「…だとしても、確かめなきゃスッキリしないよな」

 颯太の返しに「え〜マジ〜…」と歌留多は泣きそうになる。
 二人は押入れの前に行くと、天袋を見上げた。颯太が手を伸ばしてゆっくり開ける。ハクビシンか、はたまた別の生き物が飛び出して来るかと身構えたが、何も起こらなかった。

 二人は顔を見合わせると、再び天袋を見上げる。中がどうなっているのかきちんと確認するには背が足りない。部屋には踏み台もないため、颯太は仕方ないと思いながら歌留多に言った。

「歌留多、お願いなんだけど、俺がおんぶするから中を確認してもらえないかな」

「うっ……わ、わかった」

 嫌そうな顔をした歌留多は、しかし拒否することなく頷いた。「ありがとう。頼んだよ」と言って、颯太は背中を歌留多に向ける。
 颯太におんぶされた歌留多は、恐る恐る天袋の中を覗いた。
 
 中は空っぽだった。
 薄暗い奥まで目を凝らして見てみるが何もない。

「どう?」

 颯太に聞かれて、空っぽだよ、と歌留多は伝えようと口を開いた瞬間、すぐ近くでゴトッと音が鳴った。
 歌留多は驚いて視線を上にやった。天井部の板の一部が少し浮いていることに気づく。

「……あ、なんだろ。なんか、天井裏が見れるっぽい」

 言いながら手を伸ばして、天井板をぐっと押してみた。ガコッと音がして板が外れる。

「歌留多、大丈夫?」

 颯太が心配する。

「うん、大丈夫」

 歌留多はビビりながらも、だんだんと好奇心が芽生えていた。
 外した板を横にずらし、ぽっかりと開いた天井の穴に顔を近づける。暗くて狭い穴の中。視線を横にやると、すぐ目前にある物が置いてあった。外の明かりを微かに受けて、それは歌留多の目に留まる。

「本…みたいな物があるよ」

「本?」

 うん、と頷いた歌留多はそれを手にとって天井裏から出した。下を向いて颯太に「もういいよ」と言い、颯太の背中から降りると手に持った本を見せる。
 それは、藍色の和綴じノートだった。
 若干埃をかぶってはいたが、比較的綺麗な状態だ。その表紙に筆ペンで名前が書いてある。

“阿墨正”

「……祖父の名前だ」

 視線をノートに落としたまま、歌留多がぽつりと呟いた。

「どうして屋根裏にあったんだろ…」

 颯太が不思議そうに呟くと、歌留多と目が合う。

「中、見てみよっか」

「ああ」

 二人はその場に座り込むと、畳の上にノートを置いて上から覗き込んだ。歌留多が表紙を開く。
 どうやらこのノートは日記のようだ。
 記録の始まりは十年前。日付けは飛び飛びで三日空いたかと思ったら次は一週間後だったり、文面は短文や長文と日によって違った。記録をつけたい日に書きたいことだけ簡素に書かれた日記だった。

 二人は沈黙して日記を読んでいく。
 仕事のこと、従業員のこと、休日のこと、家族のこと。
 正が過ごした日々の出来事が綴られていたが、後半の新しい日付けへと目を通した二人の顔が徐々に曇っていき、そして蒼ざめた……。



 

 工場の二階部分にあるオフィスで一人、榛名は事務作業をしていた。
 静かな室内にはタイピングの音だけが響いていたが、突如背後でドアが開く。

「よお、榛名。戻って来て早々に精が出るじゃねぇか」

 無駄に大きな声が響き、そして無駄に強くドアを閉めながら佐久本健剛さくもとけんごうが入って来た。

「お疲れ様です、佐久本さん」

 佐久本の顔を見て挨拶を返した無表情の榛名を見て、佐久本はフンとつまらなさそうに鼻を鳴らす。
 作業着の胸ポケットから煙草の箱を取り出しながら、榛名の方へ歩み寄った。

「オフィス内は禁煙ですよ」

「固いこと言うんじゃねぇよ。お前も喫煙者なら気持ちがわかるだろ?」

「私はもう吸っていません」

「つまらねー野郎だなぁ」

 佐久本は気にせず煙草を咥えて火をつけると、色のない無機質な面持ちをした榛名から目を不意に逸らし「コーヒーでも飲むかねぇ」と、奥にある休憩スペースを見て呟いた。

「コーヒーなら私が…」

 榛名は言いながら椅子を引いて立ち上がる。
 振り返ると、すぐ真後ろに佐久本が立っていた。煙草を指に挟んだ佐久本がじっと榛名を見つめる。相手によっては震え上がって逃げ出してしまいそうな威圧感だ。

「お前、最近妙に社長から呼び出されて二人でコソコソやってるよな。何の話をしてんだよ」

「……」

 榛名は感情が読めない目をして佐久本を見つめ返した。佐久本がニヤリと口の端を歪ませる。

「ハハッ、正さんの次は、社長にも媚を売ろうってか?」

 挑発的な物言いに、はじめて榛名の表情に目に見える変化が生じた。眉根を寄せて、眼鏡の奥の瞳が鋭くなる。
 その時、デスクの上に伏せて置いていた榛名のスマートフォンが震えた。「失礼」と一言添えてから佐久本に背を向けた榛名は、スマートフォンを手にして着信相手を確認してから出る。

「お疲れ様です、社長。何でしょうか」

 電話の相手が竹子だと知った佐久本が、背後で苛立ちを隠さずにチッと舌打ちした。

『社長室に来てちょうだい。私がまだ戻っていない場合は中で待機しておくように』

 電話の向こうで竹子の冷たい声が響く。

「かしこまりました」

 電話を切った榛名はスーツの上着を手にして、早々にオフィスから出て行った。
 その様子を眺めていた佐久本は一人になると、がしがしと後頭部を掻く。

「いい気になりやがって……ぜってぇ潰してやる」

 苛立ち混じりの台詞と一緒に、紫炎を吐き出した。


 

 阿墨家に向かった榛名は、廊下の奥まった先にある社長室のドアをノックして声をかけたが応答はない。

 その時、家政婦の梅木が近くを通りかかった。彼女を呼び止めた榛名は、竹子の居場所を知っているか尋ねる。
 梅木は「さあ」と首を振ったあと、先ほど来客があって竹子が対応していたことを口にした。二人組の若い男性で、一人が体調を崩してしまったため来客用の部屋で休ませているという。もう一人の大学生に関しては、歌留多が居る離れに連れて行ったと、梅木は言った。

(あの二人か……)

 榛名は、出口と颯太が後を追ってここに来たのだと気づいた。そしてなぜかこの時、妙な胸騒ぎを感じた。
 梅木に礼を言った榛名は、その足で来客用の部屋へと向かう。


 しかし、来客用の部屋には誰もいなかった。使われた痕跡もない。榛名は表情を曇らせると、その場に突っ立ったまま思案する。

(もしかしたら、あの場所に……)

 嫌な予感が、頭をよぎった。



 


 ………………
 ………

 ……気がつくと、また薄暗い竹林の中にいた。

 目の前には、扉が固く閉ざされた石祠がある。地べたに座り込んでいる出口は、目の前の地面から伸びて来た両腕によって、手首を掴まれたまま動けずにいた。
 出口の手首をギリギリと締め付ける両腕。その肌は、黒いマーブル模様に染まっている。

「……お前は、誰だ……?」

 出口は震える唇を動かして問いかけると、地面がさらに盛り上がり、そこから黒髪の頭部が覗く。

「……!?」

 地面から頭が飛び出した。
 あの狐顔の女が、地面から首を生やしてニタニタ嗤う。
 ボサボサに乱れた髪から覗く細い目で、女は出口を見つめた。

 …ア……ズ…ミ……

 色のない唇から、かすれた声が響く。

 …キ、ヨ……

 アズミキヨ。
 それが、この女の名前。

 ギィィ…と軋む音を聞いた出口は、顔を上げて前を向いた。
 目の前にある石祠の扉が独りでに開いていく。

 中身を見たい。
 またその感情が出口の中に芽生えたその時、女が言った。

 ……オマエヲ……連レテイクヨ……

 …………
 ……



 深く沈んでいた意識が浮上する。

 地下の洞窟にいるかのような、ひんやりと冷たく湿った空気の匂いがした。電球の淡い光に照らされた、四方を剥き出しのコンクリートの壁に囲まれた部屋で、出口は後ろ手に縄で縛られた状態で横たわっている。
 震える瞼を開けて、状況を把握するため視線を動かす。少し離れた先に、座布団の上で正座をした着物姿の女性の背中が見えた。手元で何やら作業をしている動きが窺える。

「……ぅ、……」

 無理して体を起こそうとして声が漏れた。ぴたりと手を止めた女性が振り向く。薄っすらと笑った竹子と目が合った。

「気がついたようね」
 
 出口は息を呑む。
 竹子の背中にはまだ、あの女が覆い被さっていた。先ほど夢に出て来た女は、まるで竹子に取り憑いているかのようにその背中から離れない。

 出口は体を起こした。しかし足に力が入らず、立ち上がることはできない。
 周りに目を向ける。部屋の壁際には、中年の強面な顔をした男が二人立っていた。二人とも壁を背にして無言の視線を出口に注いでいる。彼らが工場の作業員かどうかは分からないが、竹子の部下であることは間違いない。
 出口は身の危険を感じて警戒を強めた。

「……ここは、どこですか?」

 掠れ気味な声で、目の前の竹子に尋ねた。竹子は出口の方へ体の向きを変えて冷たく一言「阿墨家にある地下室です」と答えた。

「あいつは……」

 もう一度部屋を見回した出口は、颯太の姿が見当たらないことに気づく。竹子の瞳に薄暗い影が差し、その顔に不吉な笑みが浮かんだ。

「彼なら別の部屋で待機してもらっています。大人しくしていれば危害は加えず家に帰しますけど、それは彼次第ね。命の保証はできないわ」

「…、……」

(くそッ…、最悪だ……)

 今すぐ逃げ出したい。
 そう思うが、味方が誰一人いないこの状況でそれは叶わない。

「出口春さん」

 竹子が静かに出口の名前を呼んだ。

「貴方には、呪いのマーブル模様が見えているでしょう?」

「……!」

「阿墨家の娘が代々引き継いでいく呪いの力です。今は私がその力を引き継いでいます」

 嫌な恐怖心が、爪先からじわじわと這い上がってくる。出口は絞り出すように言った。

「この集落であった古民家カフェの火災。あの夫婦はやっぱり…」

「ええ。私が呪い殺しました」

 竹子はさらりと答えた。
 やはりそうか。出口は驚くこともない。けれど確認せずにはいられなかった。

「尾形という、女性も…?」

「あら、尾形さんのことも知っているのね。そうよ。彼女も、私が呪い殺しました」

「どうして…」

「そうね、どうしてだったかしら」

 竹子はわざとらしく考えるように小首をかしげる。

「確かカフェの夫婦とは、開業の件でいろいろと揉めたんですよ。尾形さんは私のことを毛嫌いしていて、集落の住民に陰湿な悪口を言い回していたんです。気に入らなかったわ」

「気に入らないから…、ただそれだけで、殺したっていうのか……っ」

「ええ。理由はそれだけです」

 その声色には何の感情も篭っていなかった。
 
 出口は歯を食いしばり、竹子を睨みつける。竹子は冷ややかな目を出口に向けた。

「見えていたのは、マーブル模様だけでしたか?」

 竹子からそう聞かれた出口は、呟くように答えた。

「背後に…着物姿の女が立っていた…」

「なるほど。貴方はとても霊感が強いようね。私に近づき過ぎたせいで体調を崩したのなら、無理もありませんわ」

 竹子はその薄い唇に、どこか嬉しそうな笑みを浮かべる。

「貴方が見たその女性の名前は喜代きよといいます。彼女こそが、マーブル模様の呪いを生み出した人物ですよ」

 そして抑揚のない声で、竹子は昔話を語り始めた。

「明治時代、阿墨家に生まれた喜代さんには人を呪い殺す力がありました。その力を使って最初の犠牲者を出したのは彼女が七歳の時です。彼女は独自に生み出した呪術を用いて、殺したい人間を呪い殺すことを繰り返していたそうです。やむなく両親は娘を地下牢に閉じ込めて、そこで死ぬまでの生活を強いました。ほとんど体を動かせず、陽の光を浴びることさえも許されない。何もない狭い部屋で自由を奪われた喜代さんは、徐々に弱っていった……」

 出口は眉をひそめた。今なら、地下牢に閉じ込められた喜代の気持ちが少し分かる。地下の冷たく淀んだ空気と、閉塞感のある息苦しさの中、体の自由を奪われる恐怖……。

「十六歳になった喜代さんはある日、両親を呼び出してこう告げました。『私を殺して、あの山の竹林にこの身を埋めてください。そうすれば、この地でしか育たないマーブル模様の竹ができます。その竹を使って商売をすれば、阿墨家は富を築くことができるでしょう』–––と。ただし、それには条件がありました。
喜代さんが持つ呪いの力を阿墨の血を引く者が引き継ぎ、決して絶やさないということです」

 竹子はそっと、己の胸元に右手を当てる。

「呪いの力を身に宿せる器を持つのは『女』だけ。阿墨家に産まれた娘たちはその宿命を背負わされてきたのです。もちろん私も、その一人……」

 下ろした右手を、膝の上にある左手と重ねて元に戻す。

「呪いを引き継ぐ方法は、喜代さんの『肉』を食すことでした。喜代さんから呪いを引き継ぐ役目を担うことになった母親は、殺した娘の肉を食べ、その遺体を言われた通り山に埋めました。
そして両親は、娘の体から一部切り取っていた肉から、固くねって小さく丸めた丸薬をいくつも作り、その丸薬を保管するための石祠を、娘を埋めた付近にひっそりと建てたのです」

 石祠と聞いてハッとした出口は、夢の内容を思い出した。
 竹林の中にある石祠。
 自分は何故か、あの固く閉ざされた扉の中が気になっていた。
 中を見たいと、強く思った……。

「喜代さんを埋めた竹林には、表面にマーブル模様が出来る珍しい竹が生育しました。阿墨家はその竹で商売を始め、会社を設立し、製造工場を構え、喜代さんの言葉通りに富を築くことができたのです」
 
 出口は苦痛の表情を浮かべて、竹子の語りを聞いていた。
 竹子の背に覆い被さっている喜代は、出口に向かってじっとりとした暗い眼差しを注いでいる。

「私の命はもう長くはありません」

 急な話の転換に、出口は「え?」と声を出した。僅かに顔を曇らせた竹子が目を閉じる。

「去年癌が見つかり、医者からも長くはないと宣告を受けました。先ほど話したように、阿墨竹が生育し続ける為には呪いを絶やしてはいけないのです。阿墨の血を引く女が丸薬を飲み、その身に呪いの力を宿す必要がある。私の次に、その役目を担う者が必要なんですよ」

 目を開けた竹子は視線を落とす。

「当初は私の娘、竹乃たけのが呪いを引き継ぐ予定でした。でもあの子は、実家に帰って来て早々にそれを拒否した。会社の存続に関わることだと言っても、あの子にはどうでも良いことでした。話し合いにも全く応じず、挙句の果てには連絡先を断ち、誰にも行き先を告げないまま行方をくらませてしまった……」

 そこで視線を上げた竹子は、出口をじっと見つめて続ける。

「娘が駄目ならその孫に、宿命を背負わせるしかありません」

 歌留多の母親である竹乃が行方をくらませたことで、その矛先が娘に向いてしまった……。

「阿墨の会社を存続させるためにも、残された時間で必ずやり遂げなければならないことです。それに加えて、阿墨の会社を継ぐ者も必要になります」

「……呪いだけじゃなく、孫に会社まで継がせる気なのか?」

 出口は愕然とした。何から何まで強引すぎる。
 すると、竹子は口もとに薄っすらとした笑みを浮かべた。

「いいえ。会社の後継者には榛名を決めております。本人も、夫が長年守ってきた会社を継ぐことを望んでいますよ。夫に似て、私の命令にはとても従順な子です。ゆくゆくは孫と結婚させて、次に呪いを引き継ぐ為の娘をつくってもらわなければなりませんね」

 竹子の顔に暗い影が落ち、ぞっとする笑みが浮かぶ。
 出口は言葉を飲み込んだ。狂ってるとしか言いようがない。

「さて。次は、貴方をここへ連れてきた理由をお教えしましょうか」

 そう言って竹子は、憐れむような視線を出口に向ける。

「出口春さん。貴方は、喜代さんに魅入られてしまったようです」

 出口は目を見開いた。

「魅入られた…?どういう意味だ……」

「言葉通りですよ。喜代さんに気に入られたと言った方が、分かりやすいかしらね」

 竹子は、ふふ、と控えめに笑うと、薄暗い空間に目をやった。

「ここは、私が呪術を行う為に使用している部屋なんです。今から呪術の手順を貴方にお見せしましょう」

 竹子が壁際に待機していた男二人に目線を送ると、男たちが無言で出口に近づき、腕を掴み、立ち上がらせた。二人の男によって両脇を掴まれ、竹子が座っている真横まで無理矢理歩かされる。
 竹子の前には、一人用の座卓があった。その上には、呪術を行うための道具が置かれている。
 透明な液体が入ったバットと、黒い絵の具。そして、指先でつまめる程度の束になった髪の毛と、人型の藁人形が一体。
 それらを見て、出口は胸騒ぎを覚えた。

「子供の頃にマーブリングという遊びをしたことはありますか?あれと同じようなやり方で、呪術を行うんですよ」

 言いながら手を動かす竹子は、バットに絵の具を垂らすと、竹串でゆっくりと軽くかき混ぜた。水面に黒いマーブル模様が出来上がる。

「この中に、私の血を混ぜます」

 竹子はすっと取り出した小瓶の蓋を開けた。中身の血液をぽたぽたとマーブル模様の上に垂らしていく。
 その異様な光景を、出口はただ黙って見ていることしかできない。

「さあ、これで準備は整いました。あとは、この藁人形に呪う相手の髪の毛を入れて液体に浸すだけ。血の混ざったマーブル模様が藁人形の全体を染め上げると、呪術は成功します。呪われた人間は三日も持たずに死んでしまうでしょう」

 竹子は藁人形と髪束を手に取ると、胴体の部分に髪の毛を食い込ませていく。

 ……あの髪の毛は誰のものだ?

 背筋に嫌な悪寒が走り、動悸が激しくなる。

「社長」

 その時、この場にはいない人物の声が響いた。
 全員がそちらを振り向くと、部屋の奥から榛名が姿を現す。彼はこの場の異様な状況に、困惑した表情を浮かべていた。
 
「榛名。社長室で待っているように言ったはずよ」

 竹子が声のトーンをひとつ下げ、強い口調で榛名を叱る。

「申し訳、ありません……」

 榛名は戸惑いながらも、反射的に頭を下げた。

「ハァ…仕方ありませんね。榛名、貴方はそこで黙って待機していなさい。決して邪魔をしないように」

 竹子は強い命令口調で言った。
 はい、と榛名は静かに返事をする。竹子を見る目は何か言いたげだったが、命令には逆らわない。

「さあ。呪術の続きを行いましょう」

 髪の毛を胴体に入れた藁人形を手にした竹子は、榛名から出口へと視線を戻し、薄気味悪い笑みを浮かべる。

「喜代さんが望んでいるのですよ。貴方のことが欲しいと」

 出口はハッとした。震える目が藁人形を凝視する。
 まさか、その髪の毛は……

「あんた、狂ってるのか……!ぐッ」

 抵抗した出口の両肩を、男二人が強い力で押さえつける。振り払うこともできずに、出口はガクンとその場に膝を折った。
 すぐ目の前で藁人形がバットの中身に浸されようとした、その時。

「待ってください社長!」

 榛名の声が、竹子の手を止めた。

「榛名。私の指示を聞いていなかったの?」

 竹子が榛名を睨みつける。

「申し訳ありません。しかし…」

 力なく詫びた榛名が言う。

「彼はこの件に関して無関係の人間です。ですから、」

「榛名」

 鋭い声が飛んだ。榛名は言葉を詰まらせる。竹子は落胆の表情を浮かべると、ため息混じりに言った。

「不必要な情にそう簡単に流されているようでは、阿墨の会社を継がせることに不安を覚えるわね」

「……っ」

「私が貴方を雇ったのは、阿墨家に従順であり続ける優秀な人材が必要だったからよ。結果的に、貴方は私が求めていた人材に相応しい成長を見せてくれたわ。そこは亡き夫に感謝するべきかしらね。貴方には社長業の他にも、阿墨の会社を存続させていくことに必要な役割を担ってもらう必要があるわ。その話は後ほど社長室で、二人きりでしましょう。だから今は、私の邪魔をしないでくれる?」

 竹子の鋭い眼光が、榛名を真っ直ぐに睨んだ。

「榛名。貴方の母親に、稼ぎの良い仕事を与えてあげた私を、裏切るような真似はできないわよね?」

 榛名の顔が強張った。
 両手拳を強く握りしめていた力が緩み、やがて榛名は諦めの表情を浮かべて俯く。

 出口は歯軋りした。
 この状況を打破する為にはどうしたらいい。今この場で、自分の味方になる可能性がある人物は–––…
 出口は声を上げた。

「榛名!お前、このまま社長の言いなりでいいのか!?」

 榛名がハッとしたように顔を上げた。出口と目が合う。

「会社を継がせるだけじゃなく、孫とお前を結婚させて子供までつくらせようとしてるんだぞ!この女はお前を利用することしか考えていない!」

 榛名が目を見開いた。
 出口は背後から拘束する男に後頭部を鷲掴みにされ、頭を床に押し付けられた。額がひんやりとした床にゴリッと擦られる。出口は歯を食いしばり、苦しげに目線を上げて、呆然と立ち尽くす榛名を視界にとらえた。

「結婚…?そんな話は聞いて……どういうことですか、社長」

 どうやら初耳だったようだ。榛名がはじめて、疑念の色を浮かべた目を竹子へ向けた。
 やれやれと、肩の力を抜いた竹子は口を開く。
 
「榛名、貴方も阿墨竹の秘密を知っているでしょう。会社に欠かせない阿墨竹を生育し続けるためには、喜代さんの呪いを引き継ぐ娘をこの先も絶やさないことが必須です。歌留多が呪いを引き継いでも、私は心置きなくあの世へは行けません。歌留多には必ず次の娘を産んでもらわなければならないのよ。その相手には–––……榛名、貴方が適任でしょう?」

 竹子はぞっとするような歪んだ笑みを浮かべた。その肩口では喜代がニタニタ笑っている。

「すべては阿墨の会社を守るために必要なことなのよ。貴方は理解できるわよね?榛名」

「……っ」

 狼狽の表情を浮かべる榛名に向かって、竹子は険しい目をして言い放つ。

「私にこれ以上楯突くなら、いくら貴方でも生かしてはおけませんよ。–––夫の二の舞いになりたくなければ、大人しく私に従っていなさい」

「……!」

 何かに気づいたかのように、榛名の顔色がざっと蒼ざめた。

「まさか……」

 薄く開いた唇と声を震わせ、丁寧な口調をかなぐり捨てて、榛名は低い声を絞り出す。

「正さんを……呪い殺したのか」

「えぇ、そうよ」

 竹子は榛名に向かって、ふふふ、と嘲るような笑いをこぼした。出口は絶句して固まってしまう。

「結婚してからずっと私に従順だった夫が、今回の件に関して初めて楯突いてきたのよ。行方不明になった娘に裏で逃亡の手助けをしていたのも夫でした。そして夫は次に貴方を、阿墨家のしがらみから解放しようとしていたわ」

「……!」

「全く、余計なことをしなければ命を落とすこともなかったのに。……自業自得よ」

 ショックと怒りで一瞬、頭が真っ白になった。榛名はぎゅっと目を閉じて、過去を思い返す。
 正から煙草休憩に誘われて、二人で工場の屋上に向かった時のことだ––––。



 

はじめ。お前、別の会社で働いてみたいと思ったことはねぇか?」

 え?、と榛名は驚いて真横に並ぶ正を見た。
 浮かない顔をした正は紫煙を吐き出して、前方に見える山々を眺めながら話す。

「前に、俺と出張で行った会社の社長を覚えてるか?」

「はい」

 榛名はこくりと頷く。
 京都にある竹造建築の設計会社だった。そこの社長が正の旧友であり、会社を訪問して早々に二人は子供の頃の思い出話に花を咲かせていた。

「そこの社長が、一のことを結構気に入ってくれてるんだ。お前、外観のデザインや設計にも興味があるだろう?あいつの話を凄く熱心に聞いてたからなぁ」

 正は笑いながら、屋上に置いてある灰皿に灰を落とす。その横顔は思い詰めていた。

「……俺はな、一。お前にはもっと大きい会社で、視野を広げて活躍してほしいと思ってる。お前にはまだまだ可能性がある。こんな田舎の会社でその才能を潰すのは勿体ねぇだろ」

「……私は、この会社に不要なんですか」

 ショックを受けた榛名は視線を落として、己の指にある煙草の先をじっと見つめた。正が困ったように笑う。

「そうじゃない。正直に言ってお前を失うのは困る。……けどな、それ以上に俺は、お前が阿墨家の食い物にされてしまうことが、我慢ならねぇんだ」

 正の顔には鬼気迫るものがあり、榛名は言葉を飲み込んだ。

「向こうの社長には俺が話をつけた。向こうはお前を歓迎してくれている。だから真剣に考えてくれ。竹子の説得は俺がやる。お前は何も心配する必要はない」

 榛名はすぐに返事をすることができなかった。
 それからしばらくして、正が死んだ。

 その日、榛名は二階のオフィスで事務作業をしていた。突如響いた轟き音。何事だと、他の従業員と一緒に一階へ向かった。
 そこには、壁に立て掛けてあった竹材の下敷きになり、血を流して死んでいる正の姿があった––––…。



 今なら正がどんな思いで、榛名に転職の話を勧めてきたのかが分かる。阿墨家のしがらみから榛名を解放してやりたいと、正は命を張ってくれていたのだ。
 榛名にとって正は、父親のような存在だった。正のそばで仕事が出来るなら、自身のスキルアップなどどうでも良かった。

 それなのに。
 正さんを、目の前の女が……

 榛名の感情が怒りで沸騰した。ぐっと両拳を握り締めた榛名は、鋭い目で竹子を睨みつける。

「社長。私はもう、貴方に従順な部下ではない」

 榛名はそう吐き捨てて、その場から動いた。
 出口を拘束する男の一人が、竹子を護るように前に立ち塞がると、走って来る榛名の顔面に向かって拳を突き出す。
 榛名は素早く顔の横で拳をかわすと、男の胸ぐらを掴んで引きつけ、そのまま腕を掴んで投げ飛ばした。
 受け身もとれずに背中を床に叩きつけた男は「ぐあッ!」と悲鳴をあげる。男が体を起こす前に、榛名は容赦なくその顔面を踏みつけた。男が白目を剥いて気を失う。

 榛名は鋭い眼光をもう一人の男に移した。やむを得ず出口の拘束を解いた男が、ナイフを抜いて榛名に向かって行く。
 ナイフを突きつけられても、榛名は全く怯まなかった。男の構えを見るとナイフを使い慣れていないことが分かる。
 男がナイフを突き出すと、榛名がその腕を蹴り上げた。骨が鳴る音。悲鳴を上げた男の手からナイフが落ちる。腕をおさえて背中を丸めた男の背後に回った榛名は、額に脂汗を浮かべた男に片腕を回し、頸部を絞め上げた。

 もがいた男がやがてガクッと気を失うと、榛名はその体を突き飛ばす。狙ったように突き飛ばした先には竹子がいた。
 竹子は間一髪避けきれたが、男の体がそこにあった呪術用の道具をすべてなぎ倒した。バットの中身がばしゃりと飛び散り、藁人形が床を滑る。
 榛名は男が落としたナイフと一緒に藁人形を拾い上げると、出口に駆け寄って行き、手首を縛る縄を切った。

「立って。逃げますよ」

「っ…」

 出口は頷く暇もなく、榛名にぐいっと立たされると、そのまま腕を引っ張られて走り出す。 
 薄暗い部屋の奥へ向かい、そこにある階段を上がった。先に上がった榛名が重圧感のある床扉を開けて、二人は地上へと脱出する。
 広さ四畳ほどの物置部屋の扉を開けた先は、社長室になっていた。

「あの二人は離れにいます」

 少しばかり息を乱している出口に向かって、榛名が眼鏡の奥から冷たい目線を投げかける。

「二人を連れて、ここから逃げてください」

「協力、してくれるのか?」

「……今だけです」

 榛名は出口の胸元に藁人形を押し付ける。不気味な藁人形を手にしてどうしたらいいか分からず苦笑いを浮かべる出口に「行きますよ」と榛名は背を向けた。
 出口は上着のポケットに藁人形を突っ込むと、榛名に続いて社長室を出て離れに向かった。




 体を起こした竹子は、黙って辺りを見回した。榛名にあっけなくやられた男たちが気を失って倒れている。呪術の道具も台無しだ。

「…っ、…榛名……」

 ぎり、と唇を噛んだ。長年の恩を仇で返されたことに対する怒りが湧き起こる。
 竹子はスマートフォンを取り出して電話をかけた。榛名が裏切り者になった今、頼れる部下はあの男しかいない。数コールで相手が出る。

『はい、佐久本です』

「佐久本さん、仕事よ。今すぐこちらに来てちょうだい」

 竹子は佐久本に、逃げた榛名と出口を捕えるよう命令した。

「榛名に関しては、この私を裏切ったのよ。手荒な真似をしてでも構わないから、手足の自由を奪ってちょうだい」

 少々過激な命令に対して、佐久本からは『了解です』と、どこか楽しそうな声色が返ってきた。
 電話を切った竹子は、ふぅと息を吐く。
 ……阿墨家の秘密を知られたからには、絶対に生かしてはおけない。
 裏切った榛名を含めて、訪問者二人も始末する。マーブル模様の呪いで悶え苦しみながら死ぬがいい。

「ふふふ、ははは、ははははは」

 竹子は肩を震わせて笑った。
 笑いたくて笑っているのではない。
 背後で嗤っている喜代に、嫌でも同調してしまうのだ。

 自分がこれからしようとしていることが、異常だということは理解している。
 だが、止められない。
 自分では止められないのだ。
 止めようとしてくれた夫はもういない。
 私が殺したからだ。
 いや、私の中にいる喜代の意志がそうさせた。
 邪魔な人間は殺してしまえ––––と、耳元で呪文のように囁いてくるのだ。

 この血で、何人も呪い殺した。
 私の精神は、とうの昔に手遅れになっている。
 早くこの宿命から、長年苦しんだ呪いから解放されたい。
 だから早く、呪いの力を孫へ引き継いでしまおう。

 今日中に、必ずやり遂げなければならない。
 あの石祠の扉を、開ける時がきた–––。



 

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