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それでも、あなたが好きです(第3話)

 彼の言葉を聞いたからといってすべてが変わったわけではない。相変わらず自分を取り巻く環境は見えない棘に満ちていると感じる。
 それでも彼のように自分を肯定してくれる人がいると知ったことは、痛みしかないと思っていた蛍の日常にわずかながらの温もりを与えた。
 彼の言葉に背中を押されるように蛍は自分の中の自分を以前ほどは否定しないでいられるようになってきた。
 確かに自分は世間の大多数の人たちと比べれば少数派に属する。生きにくいし、どうせなら皆と同じ側に行きたいとも思う。今だってあけっぴろげに自分の愛の形を口にすることはできていない。
 けれどそれでも、蛍は自分を消したいとは思わない。
 そう思えたのは彼のおかげだ。
 だから自分にとって夏生は恩人だ。

『おはようございます』
『おはよう』
『良い天気ですね』
『本当に。あ、でも午後から雨が降るみたいだよ。傘、忘れないように』
『知らなかった。持っていきます。ありがとうございます』
『学校、頑張って』

 出かける準備をする手を止め、蛍はスマホに浮かぶ文字を眺める。
 ただ文字だけのやり取りを。

 あの日、LINEのIDを交換してから、蛍はこうして夏生にLINEをしていた。それに対し夏生もきちんと返信してくれている。
 ただ少し古風な人なのか、スタンプも絵文字も彼の返信には使われていない。淡々とした文字だけが画面に並ぶ。
 それでもわかる。この人の文字には温度がある。
 その文字に含まれる温度を目にするたび、蛍はいつも微笑んでしまう。
 あの日。自分を認めてくれたあの人の掌の温かさが彼からの文字を見るたびに蘇る。

『夏生さんのことが、好きです』

 入力欄にそう打ち、蛍は打ったその文字をじっと見つめる。

 夏生さん。

 良平に振られ、周囲からの冷たい視線を受け、どこにも行けないと思っていた自分を救ってくれた人。
 気持ち悪くないと笑いかけてくれ、真剣に蛍と向き合ってくれた人。
 そして……気がついたら好きになってしまっていた人。
 彼は蛍が今まで好きになった健太とも良平ともまるで違う。
 健太のように機敏でも、良平のように社交的でもない。
 いつもただ静かに笑っている。本当に野に咲く花のような寡黙な人だ。
 あきらかにタイプではないはずの人。なのにどうしてだろう。彼と過ごした二年の間に、蛍の中で彼の存在はどんどん大きくなり、気がついたら彼といないときも彼のことを想うほどになっていた。
 歳が離れていることはわかっていたし、彼が自分をそんな対象で見ることなんて絶対にないこともわかっていた。それでも彼のことが好きだと思う気持ちは止められなかった。
 けれど蛍の高校受験が終わり、中学を卒業すると、夏生は家庭教師を辞めた。大学が忙しくなったからというのがその理由で、子どものわがままでそれを嫌だとごねることはできなかった。
 連絡先の一つくらい訊いても良かったのかもしれない。しかしその勇気が蛍にはなかった。
 蛍の気持ちに気づいたから夏生は家庭教師を辞めたのではないか。そんな疑念が蛍の頭にちらついてしまったからだ。
 彼が辞める理由は、やんわりとした彼からの拒絶ではないのかと。

 気になるのなら訊けばいいとも思う。夏生ならば正面から訊けばちゃんと答えてくれる気もしたから。だがやはり怖くて直接訊くこともできない。
 結局、なにも言えぬまま夏生が家庭教師を辞める日を迎え、彼とはその後会うこともなかった。両親に彼の連絡先を訊くことも考えたがそれは断念した。
 どうしても恐怖がぬぐえなかった。
 彼は気持ち悪くないと言ってくれた。それでも中学時代のあの拒絶をもう一度味わうことになるのではないかと思うと、足がすくんで一歩を踏み出すことができなかった。
 だが、あの屋上公園で再会したとき、とっさに自分は彼の名前を呼んでしまった。なにも考えずに。
 拒絶されたら、の恐怖より、目の前の彼が本物なのか確かめたい一心だった。
 そして、蛍に気づいた夏生は蛍を拒絶しなかった。
 ただ昔の教え子と会えた喜びだけを表して笑ってくれた。
 その表情を見て思った。
 この人は蛍の恋心に気づいていない、と。
 蛍の目に含まれていた熱を彼は感じてはいない。
 だから昔とまったく同じ態度で蛍に接し続けている。
 そのことにほっとしつつ、一方で思い出さずにはいられない言葉があった。

──俺は、人を好きになれない人間なんだ。
──アセクシャルってやつ。

 彼が零した自身の愛の形を表したあの、言葉。

 アセクシャル。
 他者に対して性的欲求や恋愛感情を抱かないセクシャリティ。
 厳密にいえば、他者に対して性的欲求を感じない人をアセクシャル、恋愛感情を抱かない人をアロマンティック、というそうだ。性的欲求も恋愛感情も覚えない人は、アロマンティックアセクシャルと言われるらしい。が、日本においてはアセクシャルとまとめて表されることも多い。
 また性的な接触に対し嫌悪感を示す人もいれば、嫌悪感まではなくしようと思えばできるがしたいと思わないと言う人もいる。内情は多岐にわたり、皆が皆同じではなく、一言で括れない。
 以上が彼からの告白を受けて蛍が調べた結果わかったこと。
 だが、定義だけを見ても恋愛感情をわからないと言う彼が、他者から自分に向けられる恋心をどう感じるのか、そこまではわからない。そもそも同じアセクシャルの人々の中でも全員が同じ感覚を持つわけではないのだから。
 ただぼんやりとわかるのは、蛍がいくら想ったとしても恋愛感情がわからないと言う夏生には蛍の想いは届かないだろう、ということ。
 むしろ、恋愛感情を向けられることを彼が迷惑だ、と感じる可能性の方が高いということ。

 だから。

 蛍はそっと入力欄に入力した文字を消す。
 言わない。言っては、ならない。
 ふうっと一息つくことで気を取り直し、蛍は入力欄に別の一文を入力する。

『良かったら今度ご飯、食べませんか』

 数秒の沈黙。返ってきた言葉に蛍は肩を落とす。

『ごめん。ここのところ仕事が忙しくて。また今度ね』

 ああ、またふられた。

 夏生とLINEするようになってから一か月以上経つ。その間、蛍は時折夏生を食事に誘っていた。
 しかし夏生は一向に会ってくれようとはしない。
 断られるたびにまたも思う。
 蛍が夏生を特別な目で見ていることに、夏生は気づいているのではないか、と。

 なにかのドラマで聞いた。
 今度とお化けは出ない、なんて言葉を。
 今度なんて、来るのだろうか。
 夏生は今度を本当に想定しているのだろうか。
 そう思うのに、自分の指は止まらない。

『わかりました。また今度、ぜひ! 絶対ですよ♪』

 元教え子らしい明るさと無邪気さを込めて文字を綴り、送信ボタンを押す。間をおかず『了解』の文字が返ってくる。
 辛い、と思う。
 彼が家庭教師を辞めて五年。もう五年だ。ずっと会わずにいて、今となっては支えとしてだけ自分の心の中にいたはずだったのに。
 彼の顔、彼の声を再び認識してしまったがために、自分は今、彼に会いたくて会いたくてたまらなくなってしまっている。
 あのころと変わらない優しい笑顔を向けてくれたことが、あのときは立ち止まろうとした自分の足からブレーキを奪ってしまう。
 期待なんてしてはいけないのに。それなのに。
 それなのに、自分は彼に文字を送り続けてしまう。

『こんばんは。本当に雨が降ってきました。夏生さんのおかげで濡れずに済んだ。ありがとう』

 その蛍のメッセージに対して返ってくる夏生からの言葉。

『どういたしまして』

 文字からはやはり彼自身のような柔らかさが感じられた。

☆☆☆

 火曜日と土曜日の九時から十三時まで、木曜日と金曜日の十七時から二十一時まで、蛍はイタリアンレストランのホールで働いている。
 だからあの屋上公園に行くのは火曜日と決めている。平日の朝はびっくりするくらい人が少なくて、灰色の人の壁に押しつぶされそうな自分を開放できる気がするから。
 けれどそれとは別の理由で今日も蛍は屋上公園へと向かっている。
 夏生と会えたのが、火曜日の朝だったから。
 そう思って毎週来ているけれど、あれ以来彼と会うことはなかった。もしかして食事同様避けられているのだろうか。そうも思うのに、蛍は火曜日にここを訪れることをやめられない。
 本当に、自分でもどうかしていると思うのに。
 決して振り向いてくれないとわかっているのに。それなのに。
 開けたその場所へ足を踏み出し、ふっと蛍は息を吐く。
 少し冬枯れてきた芝生の緑が目の奧を癒す、人気のない公園。当然のように彼の姿はない。

「ああ、やっぱり」

 零れた声が空中に惨めに散る。広場の中央へ進み、蛍はあの日、夏生がしていたように芝生の上に寝転がってみた。
 湿り気を帯びた冷たい空気が鼻先を冷やす。
 白っぽいと思っていた光の向こうに、空の青が滲んでいる。

 なんて、遠い、青。

 指先をそっと青にかざす。捕まえられるわけもないその色に指先を浸し蛍は唇を噛む。
 見上げた蒼穹が瞳に張った涙の膜でゆらりと歪む。のろのろと手を上げて右目を擦る、その蛍の頭の上に、ふと影が差した。

「おはよう」

 すとんと落ちてきた声は朝の光のように澄んで聞こえた。
 蛍の顔を上から覗き込むようにして夏生が笑っている。陽光に透ける髪が風に柔らかくそよいだ。

「お……」

 飛び起き返事をしようとしたけれど言葉が出てこない。夏生は少し笑って蛍の横に腰を下ろした。

「どうした? 変な顔をして」
「あ……」

 言いかけて蛍は口を閉じる。
 会えると思っていなかったから。
 胸の内に留めた台詞は体内で柔らかく解け、代わりに湧き上がってきたのはどうしようもないくらいの喜びだった。
 沸き上がりすぎて胸が痛いほどの。

「良い、天気ですね」

 やっとのことで言葉を絞り出すと、夏生はきょとんと首を傾げてから、そうだね、と笑った。

「でもそろそろ寒くなってきたな。ここで寝転がるのも限界かも」

 その言葉には多分言葉以上の意味はないのだろう。けれど蛍にはこう聞こえた。
 もう、ここには来ない。

「夏生さん」

 硬い声で呼びかけた蛍を夏生の大きな目が怪訝そうに映す。その彼に向かって蛍は言った。

「会えて、よかった」

 夏生の顔からふっと笑みが消える。しまった、と思った蛍の前で、夏生は少し困った顔をしてから、風に乱れた前髪を払って問いかけてきた。

「なにかあった?」
「なにかって……」
「すごく深刻な顔をしているから。心配事とか悩み事とか、あったりする?」

 そこまで言ってから、夏生はため息をついた。

「ここのところ忙しくて誘ってくれてもちゃんと返事もできていなかったのだけれど、もしかしてなにか相談したいことがあったから誘ってくれていたのかと。
 ごめん、なかなか時間が取れなくて。LINEだといけないね。そういうの読み取れなくて」

 すまなそうに言う彼の顔を見返し、蛍は確信した。
 彼は気づいていない。
 蛍が自分に向ける恋心に。
 それは彼の抱えるものゆえか。
 真実のほどは知れない。ただ一つ言えるのは、目の前のこの、なにも気づいていないらしいこの人への想いを貫くことは容易ではないということだ。
 そう思ったら胸の奧がぴしりと痛んだ。
 彼と再会するまではここまでの痛みを覚えずにいられた。けれど目の前に彼がいて笑って話しかけてくれた今、胸の軋みは激しく蛍を苛む。
 それでも蛍は顔を作って笑う。

「大丈夫です。ただ少し、いろいろあって」

 そつなく言う蛍の顔を夏生はじっと見据える。偽りなんてあっさりと見通されそうな澄んだ目で。
 その眼差しに気を呑まれ、二の句も継げない蛍の前で、ふっと夏生が瞳を和ませた。

「明日さ、時間ある?」
「明日?」

 そう、と頷いて、彼はさらりと続けた。

「明日なら仕事、早く終わりそうなんだ。飯、食べよう」
「いい、んですか?」

 思わず問い返すと、なんで? と不思議そうな表情が返ってきた。

「誘ってくれてたのそっちだし。というかこっちの都合で突然で悪いけど。大丈夫?」

 大丈夫、じゃない。
 そんな突然、全然、大丈夫じゃない。
 なのに突然の誘いについていけない心とは裏腹に、この人が誘ってくれたという喜びが心を満たして息もできない。

「大丈夫です」

 承諾の意を必死に示す蛍に夏生は、良かった、と笑顔を見せた。

第4話に続く

#創作大賞2023  

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