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恋【ショートショート】

今日、街頭インタビューで「そんな遠いところの奥様とどのように出会われたのですか」と聞かれた。
こんな田舎町にテレビが来るなんて思ってもみなくて、しどろもどろに「大恋愛でした」と答えた。

24の時だった。私は大学院へ行っており、まだ学生だった。好いた女性は10歳年上で、地元の会社で事務員をしていた。当時34歳で結婚していないのは、肩身が狭いようだった。

彼女との出会いは書店であった。同じ本を同時に手に取ろうとしたのだ。そんな小説のようなこと、あるわけないだろうと思っていた。あまり知られていない著者だった。なかなかその著者について話せる仲間もおらず、仲間を見つけた喜びで、臆面もなく彼女をお茶へ誘ってしまった。
今から思うとその年で結婚していなかったこと、見ず知らずの年若い学生からお茶に誘われていることに、彼女はとても戸惑っていたのだと思う。そんなことにも気づけないほど若かった。それに、私の方にもまるで下心がなかったわけでもないだろう。あの頃は認めたくなかったが。それほどに彼女は楚々として美しく知的な佇まいだった。私はひと目見て彼女に魅了されたのかもしれない。

躊躇いながらも彼女はついてきてくれた。自惚れかもしれないが、彼女のほうも私に興味を示してくれていたのだと思う。
背伸びして普段たまにしか行かない、少し高級な、ジャズの流れる喫茶店へ彼女を案内した。
けれど勉強に明け暮れてきた24の青年には、女性を楽しませる話題なんて思いつかない。
最初はひたすら件の著者について話し、それから、自分は郷里から離れてこちらの大学へ来ていることを話した。終始ぎこちない喋り方だったに違いない。けれど彼女は静かに微笑みながら頷きながら聴いてくれた。
帰りがけ、私は住所と下宿先の電話番号を書いて渡した。

数日後、まさかくるとは思っていなかった、彼女からの連絡があった。
その次の日曜、映画に誘い、帰りに思い切って手を繋いだら彼女も応じてくれた。

私達は週一回くらい逢瀬を重ねた。その内に彼女は身ごもった。
私は結婚しよう、と言った。けれど彼女は、私の未来を邪魔するから、と堕ろして二人の仲もなかったことにしましょうと言った。
私は食い下がった。なんとしてでも二人を養っていくと。彼女は根負けし、私は彼女の両親のところへ挨拶に行くことにした。

彼女が身篭っていることを知った彼女の父親は激怒した。
私がまだ学生であること、また郷里がここから離れていることもあり、彼女を身篭らせたことも含めて、結婚には猛反対された。

私は毎日彼女の家へ通い、結婚の許しを乞うた。当然門前払いの繰り返しだった。しかしお腹の子はどんどん大きくなっていく。彼女はもうその時点で覚悟していたのだろう。子を堕ろすとは一言も言わなくなった。学生の私と結婚し、親と断絶しても子を生む覚悟、若い私には分からなかった。

親がどんなに説得しようと、彼女は堕胎しなかった。
結果親が根負けし、私達は結婚することになった。

四畳半一間風呂なしアパートでの家族三人暮らし。私は大学を辞めて働くといったが、彼女は頑として譲らず、修士課程を収めることとなった。その代わりできる限りアルバイトをした。
いよいよお腹が大きくなった彼女は仕事へ行けなくなった。当時は育児休暇なんてなかった。
私は両親に頭を下げて学費と生活費を借りた。
幸い在学中に就職先は決まり、仕事に就いた頃、娘が生まれてきた。

娘は小さい頃肺炎などで何度か入院をした。彼女はつききりで看護をした。

そんな娘も大きくなるにつれ病気もしなくなり、今では結婚し二人の娘の母親だ。


「今日は涼しいのね」
私は日傘を差し掛けながら車椅子を押す。
「ああ、梅雨の戻りで少し降ったからな」
いつもの散歩コース。私が定年してから、雨の日以外はいつも一緒に散歩している。もちろん彼女が車椅子に乗るようになってからも変わらない。雨上がりの道は水たまりがある。彼女にかからぬよう注意して車椅子を押す。

「見て、カワトンボ。あの頃も飛んでたわね」
彼女の指差す方を見るとカワトンボがツガイで飛んでいた。
「そうだな」
彼女の笑顔を見るのが幸せだ。
彼女は幸せだろうか。



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