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さようなら【恋愛 ショートショート】

夏とはいえ、雨も降っていたし、明け方には少し肌寒く感じた。

私は小さなボストンバッグを抱え、小さな無人駅の木でできたベンチにぽつねんと座っていた。

「22時の電車に乗ろう」
約束して別れた。

私は少しの着替えとありったけのお金だけを持ち、21時半に駅に間に合うよう、走って行った。

二人で生きていくんだ。
そんな覚悟と期待の入り混じった感覚。
若かったからだろうか、不思議と先の怖さはなかった。
親にもいつか会えると呑気に考えていた。

しかし、彼は22時を過ぎても現れなかった。

もう30分もう30分と先延ばししているうちに、終電はとっくに行ってしまい、それでも諦めたくなくて待ち続けた。

空が白んできた。

朝もやの中、ぼんやりとした頭で思う。

来なかったのだなあと。

理由はわからないけれど、あの人は来なかった。

いや、本当は心のどこかで、それが夢物語でしかないことを知っていた。いくら若くてもそれくらいわかっていた。家族を置いて、自分を選んでくれるはずがないと。私は現実を私自身に覆い隠し続けた。


私は走ってきた道を、ぼんやりとした足取りで帰った。


小さな町のことだ。私達の関係がひた隠しにできたことは互いの努力の賜だった。いつかは必ず、そんな気持ちが私を強くしていた。

彼とはそれからもう二度と会うことはなかったけれど、風の便りに、あの晩彼の奥さんが倒れ、救急車で運ばれたのだと知った。

小さな町でなければ、知る由もなかったことだった。私は彼が好きだったし彼もそうだと思っていた。けれど恋愛は家庭を越えられなかった。だって、その晩何があったのかすらわからなかったのだから。


「ゆうちゃん、走らないで」
あの頃と同じ季節になった。子供は2歳になっていた。
あれから数年、私は地元の男性と結婚した。
小さな町のこと、彼も知っているかもしれない。けれど私は日常が忙しく、あの日の「駆け落ちの約束」は、すでに思い出になっていた。


「久しぶり」
白いレースの日傘ごしに声をかけられ、ふと傘を上げると、そこにはあの日と変わらぬあの人が立っていた。
隣には娘さん。その隣に奥さんらしき人が立っていた。
「こんにちは。暑いですね」
私は笑顔で言った。
「ええ、本当に」
奥さんも笑顔で返してくれた。
「昔同じ職場だったんだ」
彼の言に嘘はない。

バスが来た。
「ごめんなさい。乗らないと。ゆうちゃん、いくよ」
私は笑顔で言った。
「それじゃあ、さようなら」

もう深い意味すらなかった。ただの儀礼的なあいさつ。
あの頃幾度と迷い、さよならと告げては彼のもとへ戻っていた、そんな、私にとっては命綱のような言葉だったのに。

本当にすんなり出てきた。

時とは残酷で優しい。


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