見出し画像

介護の非対称性と「介護」の呼び名について思うこと 祖母のはなし

物心がついたころから、私の周りには、介護で外出に不自由している人が常にいました。私の介護に対するイメージは、そこで形成されています。
私の記憶の中で最も古くて新しいのが祖母。
祖母は、それぞれ異なるタイミングで、次から次へと「身内」の世話や介護を引き受けていました。私が知っているだけでも6人の面倒を見ていました。
6人のうち、今も生きているのは私の母1人だけです。

幼少期の祖母の記憶

私は、優しくて控えめで真面目な祖母のことが大好きでした。
「○○兄さんの顔見ないといけないから、またね、また来るよ」
そう言って、祖母は常に時間を気にして家に帰っていきました。
幼稚園生の私は、祖母がそう言ってすぐ帰ってしまうのが嫌でした。

母は、そんな祖母の様子を見て、
「他の人が面倒見ればいいのにねえ。すぐにこういうのを押し付けられて、自分がゆっくりする時間が全然とれないじゃんねえ」
そんな風に言っていました。
自分の母親に対してだからこそ、余計にそう思うのでしょう。

祖母が本当に世話をしていたのは、、

祖母が世話をしていた6人の中には、母も入っています。
私が高校生の頃、母がくも膜下出血で倒れた時には、
祖母は毎日欠かさず、娘の回復を祈って神社に行き、
それから、私や父が食事に困らないよう、
野菜いっぱいの惣菜を作って、そして時々私の好きなイチゴを買って、
母の病院に毎日通いました。
私は、母の病院で手作り惣菜とイチゴを受け取って、
母の病院から帰宅後、父と2人で食べました。
世話をしてもらっていたのは、
母というよりも、私や父の方だったのでしょう。

母がくも膜下出血から回復してからすぐに、
祖母はまた別の「身内」の世話を始めました。

誰にも世話をかけなかった祖母

私が大学生になった冬、
祖母はいつものように「身内」の世話をして、
自分の家に帰るまでの深夜の道を歩いている途中、
交通事故に遭って亡くなりました。

あれだけ多くの人を助け、最後まで人を支え続けた祖母は、
自分は誰にも面倒をかけずに
居なくなってしまいました。

介護の非対称性について今思うこと

そして今、私は母の介護をすることになりました。

祖母の姿を見て育った私は、
うまくは言えないけれど、
介護の様々な側面で顔を出す、非対称性に対する不合理さとか
介護、誰かの役に立てていること、それ自体が
自分の楽しみになり得るというか、
自分を支えるのだろうというのは
ずっと感じていました。
そして何よりも、
優しすぎる、常に「割を食ってきた」祖母のことが大好きです。

反対に、介護を祖母や介護施設等の別の人に任せて
自分の仕事を続けた「身内」のことも同様に見て育ちました。

私は小学校高学年くらいから、
どちらがより「いい」人生なんだろうかと、
考えることが多くありました。

これまでは、介護は誰かに任せること、
そして、自分の仕事や自分の世界・自由を持ち続けることが、
自分、そして介護される人も同時に救うことに繋がるのだろうなと
私は思っていました。

しかし、いざ介護が現実となった今。
その考えが揺らぎつつあります。

実際、私は仕事を辞めてはいないし、
介護負担が大きいのは父の方。
母の介護の傍らで、自分の世界・自由をいかに持ち続けるかどうかに
今は必死になっています。

それでも、
母と車椅子で散歩するとき、
母の足をマッサージするとき、
母のトイレを介助するとき、
夜、悲し気な母と話をするとき、

私の大好きな祖母は、
そんなことではなく
もっと別の感情が支えていたのではないか、というのも
なんとなく分かります。

「介護」ではなく「顔を見る」

介護が現実となった今、
祖母のことを思い出して思うことがもう一つ。
祖母は、介護のことを、決して「介護」とは呼びませんでした。

「○○兄ちゃんの顔を見に行く」「○○兄ちゃんのご飯を作る」
そんな風に言っていたと思います。

たったそれだけのことですが、
非情に愛情を感じる言葉だったなと思います。
自分も、介護される側も、
この言葉に救われるのではないかと思います。


私は祖母のことが大好きです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?