漂う幻影 (5/11)

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 1年が過ぎるのはあっという間だ。最近、特にそう思う事が多くなっている。思い返せば幼い頃は1年どころか1日が過ぎるのもとてつもなく長く感じた。例えば小学校の僅かな休み時間、たったの20分かそこらである。その時間内で校庭まで走りドッジボールやバスケなどに全力で打ち込んだ。決してあの時は短いとは思わなかったはずである。そこだけを切り取っても濃密な時間を過ごしたと断言できるし、あの時の身軽さはもう失われつつあると自覚する。
 その行動力をもう一度取り戻したいと思っても、どうしても先ずは余計な事を考えてしまう。これが大人になったという証か。やがてそれは面倒臭いとなり結局、何もしないまま時間だけが過ぎてしまう。そんな日々が少しはマシになったのもあの子供の時のように無我夢中に打ち込めるものができたからに他ならない。
 歌う、という事に対して遊び、趣味という感覚から少し変わった磯村。プロとしてデビューしたいとかは思わなかったが今、自分がやるべき事はこれだと決心して自分はどう歌っているのか、その癖などを自己分析までし始めて改善に努めた。まさに先の事はあまり考えず『今』を楽しんでいるわけであったが一方の伊藤はそうもいかない。
 来年、高校を卒業する。進路を、進学ならどんな勉強をしたいのか、就職なら……といった感じで数年後の将来を見据えた選択をしなければならない。しかし選択肢はそれほど多くはなかった。
 一家の大黒柱を子供に一番お金がかかり始める時に亡くしてしまっている以上は進学は厳しいというのが現状であった。娘には申し訳ないが就職をして一刻も早く自立してほしいというのが母親の本音。そう分かっている中でも当然、迷いは生じる。
 どんな職に就くべきか? 磯村はそこを明確に決める事ができずに高校卒業後は進学も就職もしなかったと言う。その意見を聞いて確かに今後の人生の、願わくば老いるまで付き合っていく事を前提とした選択をそう簡単に決めてしまえるはずはないというのも一理ある。むしろ多くの人が考えなさすぎなのかもしれない。
 慎重に、よく吟味したうえで決めるのが至極、真っ当だ、それが正しい。そうするにしても、その考える対象すら絞り込めていないのもまた事実。伊藤も磯村が直面した悩みを抱え始めた。
 彼女がそんな事で頭がいっぱいでなおかつ、やや伊藤の存在すら忘れてしまっているかのようにバンド活動に没頭する磯村を見て、少しその意思を示したかった。私の事を忘れないでというメッセージを。今、二人の距離はやや離れている。
 
 2月に卒業する先輩達に頼まれて、お見送りのライヴをするらしい。そのライブには足を運ばず伊藤は永井祐太郎が通う専門学校の卒業公演を観に行く事を選んだ。
 磯村の人気は鰻登りだ。個人のツイッターやインスタグラムを本格的に始めたのもそれに拍車をかけた。最近では大学の在校生、関係者でも、磯村の身内でもない全くの外部から来た客も数人現れ始めたらしい。性別はもちろん女性、その若い女の子に囲まれてチヤホヤされている様子を彼女が好ましく思う事は難しい。いくら彼女という立場でも、その磯村のファンは知ったこっちゃないという勢いで迫ってくる。こちらも芸能人でもないし、そういう関係だと公表しているわけではないが決して居心地の良い場所ではなくなってしまっていた。
 こうなったら仕返しというつもりで、伊藤も音楽活動をもっと部活内に留まらず本格化させて同じくファンを増やしてやろうかと思ったが、そんな余裕はなかった。
 部活内で一緒に組んでいる水谷知里は卒業後は大学で音楽はもちろん、芸術という分野全般を学ぶらしい。やはり親が音楽をやっていれば子もその道に進む場合は多い。
 水谷とは馬が合い楽しくできている。その水谷から卒業後も一緒に音楽活動をできないかと何度か言われていている。一時は良いかもしれないと思った。それも目の前に立ちはだかる現実を見ると徐々に萎んでいく、やはり家庭の事情から難しいかもしれないと最近では前向きな回答はできないでいた。
 まだ趣味としてならどこかの休日にできなくもなさそうだが、水谷はおそらく音楽を仕事にするつもりである。そんな人の波長に合わせられる自信はない。
「(でも)」
 それは伊藤が音楽を気分転換にやる娯楽の一つとして捉えるならである。もしも自分も本気で向き合えばあるいは……。
 そんな事は母親が許してはくれないだろう。ただでさえ生活がギリギリの状況。早くほしいのは安定した収入だ。博打をする暇はない。
 磯村も、水谷も羨ましい——こんな事を根底で思っている事に気がついた。周りはみんなやりたい事をやっている。それなのに私は。今、これから観に行く永井も俳優という夢に向かって励んでいる。
 私はそっち側の人間ではない、そういう事になるわけだがすなわち世の中は平等ではないと知る事になる。それも努力ではどうしようもないもの、生まれた時から、色んな巡り合わせで決まっている環境というやつである。

 電車の中から今日の劇場に着くまでこんな考えを巡らせてしまっていたら表情は暗くなってしまっていた。今日も楽しい想いをさせてくれるはず、そんな日にネガティヴな感情で支配されたくはなかった。
 1年生の修了公演は学校内にあるホールで行われたが今回は違った。キャパシティが約150人程度の劇場。演劇をする劇場の中では決して小さくはないが都心からやや外れた場所に位置し交通の便も、外観の華やかさという面では劣るものがあると正直、思う。
 劇場内に入るとロビーがあり受付窓口が設置されていた。そこでチケット料金を払う。おそらくこの学校の1年生であろうあどけない女性二人が応対をしていた。
「出演者の永井祐太郎さんから予約しました」
 とは言うもののその永井は伊藤とは面識はない。磯村を介して、知り合いに行きたいって言う人がいるという事で予約してもらった。おそらく観に来ているのが磯村の彼女という事も知らないだろう。
 さすがに二度も舞台を観に来ているのなら挨拶くらいはした方が良いと思ったが、今日は磯村はいない。全く知らない人が話しかけてきたらどう思うだろう、そんな事が頭を過ぎると話しかけるのに勇気がいる。こんな事なら去年、磯村と一緒に挨拶をしておけばと今更ながら後悔した。
 席に座ると中の雰囲気が下北沢に行った時の劇場と近いものがあった。少し窮屈に感じる狭さで薄暗い。そうか、やはりあの学校内にあったホールが良すぎたのだと気がつく。天井も高く、通路を歩いて移動するにも苦労しない広さ。
 そんな所で無名で若いうちからできるのは、高い学費を払った学生という身分が故の特権なのかもしれない。外に出れば、本来であれば多くは設備や楽屋も充分とは言えない劇場で先ずはやる事になる。それに慣れさせるため敢えてこのような劇場を学校側が選んだ可能性もある。
 卒業公演の演目は芥川龍之介作の『杜子春』
 一般的に知られているのはもちろん小説であり戯曲は存在しないはずであるが、どうやら舞台で上演するために再構成、脚色したらしい。小説には出てこないオリジナル登場人物もいるとのこと。伊藤も予習で原作を読んでみて、これがどう舞台上で表現されるのか楽しみではあったが不安もある。それは原作を弄ってドラマ、映画化したものの残念ながら、案の定とも言うかもしれない、駄作に成り下がってしまったというイメージが少なからずあるからである。果たしてどうなることやら。開演を待った。

 
 出演者一同が頭を下げる。その瞬間に一際、大きい拍手が鳴り響いた。伊藤もその拍手を惜しまなかった。
 よかった、そして驚いた、単純に言えばそんな感想である。始まる前の不安は何処へやら。
 驚いたというのは1年前に観た時と明らかに成長していたということだ。まだどこか学生気分、そんな緩みも見られた去年の公演であったがそんなものは微塵も感じられなかった。役に徹していた、余計な考え、目立ちたいとか、芝居をしている自分カッコイイなどという邪念はなく、その決意に言葉も出ないと思う自分がいた。
 どうすれば1年間でこんなにも変われる事ができるのか? そこに驚いたのだ。
 永井に注目するなら先ず登場してきた時、鬘《かつら》と付け髭を身に付けていたというのもあるが、それよりも何か役のオーラというものを身に纏っているようであれが永井だと認識できなかった。声にも深みが増しているような気がする。仙人という人外の存在をまだ二十歳になったばかりの永井が演じるのは容易な事ではない。だがそこから発せられた言葉はしっかりと地に足が着き、貫禄あるものであった。そう思うとあの時の永井の声はかぼそいと言えてしまう。
 気がつけば一粒、涙を流していた。ラスト、杜子春がお母さんと泣き叫ぶシーンは誰もが、それこそ人の心さえあれば涙なしでは見られないだろう。あんな演じるのが過酷そうな場面をよくやり切ったものである。杜子春を演じた彼もなかなか素質あると初めてみた時から感じていたが、その驕りもなく凄まじい集中力であった。
 いくら演技の専門学校がつくった舞台とはいえ、この与えてくれた感動はプロの舞台にも匹敵するだろう。少なくとも伊藤はあの下北沢で観た舞台よりも感動したと断言できる。チケット代はこちらの方が安いのに不思議なものである。
 
 この感動を貰い伊藤の胸に渦巻くもの、それは居ても立っても居られない気持ちであるのは間違いない。ウズウズして抑えるのが難しそうだと認識する。
 その時であった。客席を立ちロビーに出た時、急に声をかけられた。

 想定していない事が起きると頭が真っ白になり固まってしまう。それはたとえもしもこういう事に遭遇してしまったらこうしよう、といつの日かにイメージしていてもだ。いざ自身に降りかかってきたら何もできないというやつだろう。
 ただ横から明らかに自分を呼び止める声が聞こえてきただけなのに、殴られたような衝撃が上から下へと体中に走る。
 なぜ話しかけられた? 来る人が限られるこの空間に自分の知り合いなどいないはず、真っ先にそう思った。それと同時に反射的にその声が聞こえて方向へと首を動かす。誰だ? 私に声をかけるのは。その声の主を見た時に思いの外、早く納得してしまった。まさかまた会うとは。どちらかと言えばもう会わなくて、というよりは会いたくないと言い切ってしまっていい人物だった。なぜそういう人に限ってまた巡り会ってしまうのか、人生とは上手くいかないと思わざるを得ない瞬間の一つである。
「やぁ、また会ったね」
「えっと……」
 わざと覚えていないフリをしてしまっていた。本当に忘れてしまっていればどれだけいいものか。だが人間というのは嫌な記憶の方が頭に残りやすいのかと思うくらいある日突然、何度もわいてくる。それでも関わりたくない人に対して思わず取ってしまう態度の一つである。
「覚えていない? ほら、もう1年前くらい前になるけど君に声かけて、スカウトした」
 スカウトという単語をやや強調した。覚えてはいる。心の中でそう答えた。ただなんでこんな所にいるのか、そこに思考が巡ってきたが血液の流れが詰まってしまったかのように上手くその先へと流れない。
「こういう所に足を運ぶという事はやっぱり興味あるんでしょう?」
 覚えている、覚えていないの返事をする前に次の質問を振る。確かに自分は演劇には興味はある。なるほど、それをイコール芸能界にも興味があるのではないかと結びつけたかのか。
「今日は知り合いが出演しているから来ただけです。奇遇ですね、どうしてここに居るのですか?」
「だってご存知、今日ここでは演技を学ぶ専門学生の卒業公演がある。今年の4月からうちの養成所に入る子もいるから観に来たんだよ」
 それを聞いて納得はした。まだ30代後半だろう、若さも故の活力もみなぎっている。それでもその歳で社長という立場にいる人物。今、彼は何か目的を成し遂げようと密かに心を燃やしているようであった。眼鏡の先にある瞳もメラメラ燃えている。
「またこうして会えたのは、これはもう運命としか言いようがないと思うんだけど、あの時、何もリアクションがなかったという事はそういう事なんだよね?」
「えぇ、まぁ。一応あの後、よくよく考えはしましたけど、やっぱり不安の方が大きかったので、そんな気持ちではやっていけないだろうなというのが正直なところです」
「そんなの最初はみんなそうだよ。そういう自信というのは後々に付いてくるもんなんだって」
「それに、私、実は演劇より音楽の方が興味あるんです。もしもそういう世界に入るなら音楽の方でと思っております」
「あぁ、音楽か〜……」
 右手の掌を首筋に添えて初めて困ったような顔をした。どうやら音楽に関してはパイプがなく手の及ばない分野なのだろうと察する事ができた。
「えっ、なに、そのつまりいずれは音楽の道に進もうって決めているの?」
「……いえ、それは色々とこっちにも事情がありますので多分、普通に就職するだろうとは思います」
「そんなのもったいないって! よし、分かった、その夢は僕の言う通りにすれば叶える事ができるって保証するよ。いいかい、最初は女優やタレントの世界で成功するんだ。そうして人気も出てくればゆくゆくはその音楽の道に進む事も可能になるよ」
 いきなりの提案には動揺を隠せいない伊藤。自分の好きな事、両方に手を付ける事ができるという美味しい話ではあるがそもそも果たしてそんなに上手くいくのか懐疑的にならざるを得ない。
「いえ、そんな、もしもやるなら中途半端な実力でやりたくありません。しっかりと勉強して実力を付けて臨みたいです」
「大丈夫、君にはその素質は充分あるから。この世界の事を知ればいずれは自分は向いている、実力があるって気づく日がくるはず」
 一体この人は自分の何を知って次から次へとこんな事が言えるのか。唖然とした気持ちになる。しかし目の前にこんな夢のような話が舞い込んでいる、次はあるのか? 二度ある事は三度あるとは思えないような貴重な話であるのは間違いない。これも断ってしまったらと思うと……。
 当初、見込んでいた未来よりも明らかに輝かしいような事が待っているかもしれない。そこまで言うなら、「あの、私の家、そんな裕福な家庭じゃないんです。凄い魅力的なお話だとは思いますけど、もしも失敗した時の事を考えるとどうしても踏ん切りがつきません。正直、私の不安というのはそこによる部分が大きいかもしれません。これについてはどう答えますか?」
 キョトンとした表情になる男。だが直ぐに軽く笑みを浮かべた。
「なるほど。そういう事か。大丈夫、この世界売れる人間というのは最初からある程度、決まっているんだ。これだけ僕が説得するという事はつまりこれから僕は君を猛烈にプッシュするって事だから。もちろん君がどれだけ与えたれたチャンスをものにできるかにもかかっているけど、でも君はきっと良いパフォーマンスをする、そうだろう?」
 そんな話をこの場でしていいのかとも思ってしまったが、君を信頼しているとも聞こえた。与えられたチャンスをものにできれば扉は開かれる——私にならできる、その言葉を聞いて浮かんできた言葉はそれだった。この人は他人を見る目があるのかもしれない、そう思わせた。


 季節の移り変わりを感じるという事はまた年がぐるりと一周して、ここへまた戻ってきたとでも言うのか、それを気づかせてくてるきっかけをくれる。出会いと別れの季節と言われている春はそれがより一層、胸に染みる。
 まだ冷たさの方が強いが、それでも確実に春の温もりも含まれる強い風に当たりながらここまでの1年間はどうだったか? そう自問した磯村。ようやくかつての平穏を取り戻しつつあり、またよく思考を巡らせて、新しい一歩を踏み出す事ができるかもしれないと簡潔に評価した。
 だが今やっている事は次へと繋がるのか? ただその場限りの発散で終わっていないか? いつまでもこのままではいけないとも理解していた。磯村の進むべき道とも言えるものはまだ見つかってはいない。
「恭一」
 ゆっくりと丁寧に紡ぐようにそう声をかけられた。聞き慣れた声でも、どこかいつもより機嫌が良い声色のような気がした。最近は思うように伊藤と接す事ができていないと思っていただけにこれは少々、意外に思った、それにはどこか安心する。
「どうだった、祐太郎の卒業公演は? 来ていない俺にもわざわざメールがきて、どうやら卒業したら次は大きい劇団の養成所へ入るみたいだよ。なんか着実に前へ進んでいるなって気がするよ」
「そうなんだ。もうっ、凄い良かったよ。最初に観たやつとは比べ物にならないくらい成長していた。永井さんもほぼずっと出ていて、やっぱり学内でも評価されているんだなって思えた」
「そっか。祐太郎はいいな〜自分に向いているものがあって、しかもそれに向かって頑張っているんだし」
「私もね、それが見つかったかもしれないの」
「え?」
 これが今日、一番話したかった事と言わんばかりの調子で嬉しそうに話し始めた。
 伊藤は偶然と言えばそうだが、これはまさに言い換えるなら運命としか言いようがないあの日の出来事を詳細に話した。1年前、ここの駅周辺で声をかけられてスカウトされたあの芸能事務所を経営している社長、芝大輝《しばだいき》に卒業公演が行われた劇場内でまたしても出くわしてしまいそこでも熱のこもったオファーを受けた。
 あまりにも、良い言い方をすれば熱心に、悪く言えばしつこく捲し立ててくる芝はさらに信じられないような条件も提示した。
 伊藤はどちらかと言えば音楽をやりたい、でもやるなら先ずは勉強をして知識と技術も身に付けたいと言うと芝はその音楽を学ぶ場を提供することに決めた。永井が卒業した専門学校には他に音楽を学べる学科がある。そこに学校側が設けている特待生制度を使って入学させても良いと言うのだ。その特待生制度でもしも入学する事ができれば学費が審査の結果次第で減額される。その中でも一番高い評価を受けた者はなんと全額免除される。
 学費を出す余裕のない伊藤だが、芝が言うに伊藤はその全額免除される可能性が充分にあると熱弁した、いや、必ずやそうさせると言った方が正しいか。
 流石にそれは言い過ぎだと思った伊藤であったが、どうやら誰かからの推薦を貰った上で受ければその可能性はグンと高まる。その推薦人となるのはもちろん芝だ。
 芝は実業家であり、芸能事務所の経営者とある程度の影響力を持った人物だ。そんな者が推す子であれば学校側の期待も高まる。卒業生が有名になればその宣伝効果は絶大、その未来への投資と思えば学生一人、2年分の学費くらいは安いものだという捉え方もできる。
 シンデレラストーリーのような話である。そしてその代わりに学業と平行して芸能活動もしてほしいというものであった。最初は雑誌などのモデルを想定しているなど具体的な話も飛び出ている。

 その話を聞いた磯村。まさかこんなにも身近な人物が大スターへの階段を登ろうしている事にいまいち現実味がわかなかった。しかし同時に伊藤なら有り得る話だと思えた。
 初めて伊藤を目にした時、何か他とは違う雰囲気を感じ取った。ある意味、易々と近づき難いオーラのような。
 彼女の太陽のような笑顔を見ただけで心に小さな花が咲いたような幸せな気持ちになれる。この人ならそう遠くない未来、誰もが成し遂げられないような何かをするのではないかと予感、期待をした。
 その直感は見当違いではなかった。それは自分に見る目がある事も意味して、感性にも自信が付く。
「そうか。やっぱり碧はそういう人に見られる職業が似合うんじゃないかとは思っていたよ。こんな綺麗な人が普通の職場にいるなんてちょっと勿体ないって思ってたし」
「社長もそう言っていたよ。そんなもったいない! って大きな声で言われちゃった」
 茶目っけたっぷりの表情で言った。それを受けて笑いながらも磯村は、
「だったら、最初に声をかけられた時からもっと俺からも背中を押せば良かったかもな」
「ううん。きっとこのタイミングだったんだと思う。あの時だとまだ私自身もそこまで乗り気じゃなかったというか、本当にそんな道を進むの? って現実として見る事が出来なかったし。でも将来の事を考え始めたこの時期、そこに永井さんが舞台上で輝いている姿を見て、それで、咄嗟に私もあっち側にまた立ちたいって思ったの。そこでまたあの社長が現れて……」
「心境的にも合致していたってわけか」
「うん、結果的にそこを上手くつけ込まれちゃって」
「そんな、上手くはめられたみたいな言い方」
「だって、道が逸れないかの不安はあるよ。本当は音楽やりたいって言ったのに気がつけばそんな暇はなくなっているみたいな」
「あぁ、そうか。そんな事も考えているんだ。碧ってそこらへん大人だよね。普通だったら舞い上がっても良いような状況だと思うけど」
「やっぱり早いうちから今まで守ってくれたお父さんがいなくなると、早く自立しなきゃって思うのかな。自分で考えて決めて、生きていかなきゃって。お母さんもショックでそこまで頼れなかったし」
「なるほど。どんな辛い事があってもちゃんとそれを生かして成長したのは立派だと思う……」
 まだ磯村が何かを言おうとしていた時に伊藤は割り込んでこう言った。
「それは恭一のおかげでもあるんだよ。恭一の考え方も聞いて、改めてそういう生き方をしようって思えた。きっと実感はないと思うけど、恭一がいたから今の私がいると私は思っている」
「……そう言ってくれるのは嬉しいけど、碧は、別に俺と出会わなくたって輝かしい未来が待っていたと思うよ」
「なに言っているの!?」
 伊藤が声を荒げた。怯む磯村。
「ど、どうしたの?」
「私と恭一が出会わなくてもって、そんな事、言わないでよ。そんなの想像しただけで怖くなる」
「ごめん、たまに俺、突き放すような言葉を言っちゃうんだよね。でもきっと俺がいなくても、碧は、うっ……」
 不意に伊藤は磯村の唇を奪った。ここで磯村の口を塞いだのはそれ以上、先の事は言わせないという意志が見えた。
「大丈夫。自信を持って」
 そう磯村の眼前で囁いた。万一にも彼女の心が離れない限りはこの関係は続くだろうと悟る。
「やっぱり私には恭一がいないと駄目。私は私でこれからやりたい事をやるし、恭一もやりたい事をやればいいけど、最後は私達二人は自然と、磁石のように引きつけ合い、こうしてまた触れ合う。そんな関係がずっと続けばいいと思う」
 磯村はまだどうして伊藤がここまで自分に惹かれるのか分からないでいた。

つづき


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