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自意識を捨てよ、旅に出よう(9/9)

 ニート期間に急遽思い立って出かけた、9日分の山陰・瀬戸内海カブキャンプ旅レポートの投稿が完了した。

 旅から帰ってくると、「あんまり有意義なことはしなかったな」とか「こういうときに‘教訓’なんかを持って帰ってくるべきなんでしょうね」とか、終わった行為の中庸さにしみじみする時間が、「ま、楽しかったからいいや」という、一種の開き直り感と共にやってくる。

 旅というのは、「他でもない【私】は、〈分裂〉を繰り返して全然異なる〈リゾーム〉(根茎)と繋がったり、たやすく切れたりする、または、そういうことをしていても許される」と確認するための営みだ。あえて定義するのであれば、おおむね私の旅行というのは、そういうことを目的に行われるのだろう。

 さて、ここで私が述べる〈分裂〉とは、何を指すのか。

 それは、特に病的なニュアンスを持たず、「エゴがふらふらする」「いままで信じていた餅の存在が絵だということを、半分認める」くらいのものだ。
 私たちはおそらく日常的に、無意識にそういう作業を済ませている。自我を自由な空間に遊ばせ、紙の餅にシニカルな一笑をくれる。そういうことを、意識してやっているつもりだ。だが、知らず知らずに無意識理のほうに、攫えきれないキャッシュが溜まっていく。こればかりはどうしようもない。人間は無意識という海に浮かぶ氷山であり、完全な液体へと融解することはできない。それはおそらく、象徴や想像の世界を繋ぐポロメオの輪が外れてしまった状態を指す。いつか、そうなりたい。

 毎朝7時の通勤快速に乗り、毎晩19時の満員電車で潰されながら帰宅する最中だろうと、形式上のハローワークに通う以外は特に予定はありませんねで15時に起きた無職の布団の中だろうと、「毎日」をやるかぎり、睡眠だけでは掬いきれなかった灰汁が少しずつ沈殿していく。煩わしい。人間たちは、このように面倒くさい機構を抱えながら、平気そうな顔をつくって生き続けているのか?
 もちろん、灰汁を解消させる娯楽というのは世間に溢れかえっていて、取捨選択の自由はこの身にある。酒を飲んだり身体を動かしたり、なにかを作ったり、こうやって文章を書いたりすることだってそうだ。どうしてそれだけでは、上手くやっていくことが出来ないのだろう?私は、生活をしながらうまく澱を浄化させる機構を、いまだに持ちません。

 そういうときに私は分裂する。今の自分を絶対視する視線をズラす。私は絵に描いた餅だ。また、私は、ただの鏡である。ゆえに、絵に描いた餅とは、鏡写しのあなたである。

 分裂するとは、「毎日」から逃げ出し、今の自分から少しだけ、ほんの少しだけズレ出すことである。

墓標

 では、〈リゾーム〉とはなにか。私にとってこの概念は、接続の可能性をもつハブたちのことを指す。通常、いくばくかのリゾームとつながり、そこから栄養を補給している私たちは、その根茎が腐ってダメになったときだけしか、新たなリゾームを探そうとしない。
 新しい居場所を探すという行為は常に痛みが伴うため、億劫で面倒くさい。今までの勝手知ったる居場所は生暖かく心地がいい。長年生きているとそういうことがよくわかる。

 また、私が「リゾーム」というとき、そこには、「ふらっと/なんとなく/ゆるやかに」というニュアンスが含まれる。そんなに気合いを入れて、ーーあたかも就活をするみたいにーー探すものではない。なんだ、ここにあったのかーーという事後承諾の形で現れる。

 「リゾームと繋がったり切れたりする」とは、特に崇高な行為ではなく、‘あるかもしれなかった生活’の片鱗を見つけることだったり、今置かれている‘生活の基盤’みたいなものから離れる予行練習だったりする。
 ひとつの根っこだけを、生涯大事にし続けてはならない。失うことへの恐怖は、〈甘え〉を生じさせる。甘い生活は魅力的だが、いつまでも浸かっていてはままならない類の場所だ。私たちは温泉から生を循環させる水棲生物ではない。

 私たちは代替可能である。翻って、私も他者にとって代替可能であるということを承認しなくてはならない。人間関係はそこから、やっとこせスタートラインである。
 そのうえで、「それでも」と言い続ける健気さは、毎朝の拭き掃除のようである。私たちの生活に潤いと規律を与え、快い居場所を提供する。すがすがしく、愛に満ちている部屋をつくる努力を蔑ろにするわけではない。
 だがしかし、また、そこを終の住処にしたいという欲求に対して、疑惑の目を持ち続けたい。以下、無限にループする。ループループループ。
 終止符を打ちたいという、一生満たされることのない欲望が、私たちを〈生〉へと駆動させる。

 日々のルーティンや貯金残高、社会的地位をコツコツと積み重ねる行為が苦手で、そういうものに深刻な意味を見いだせない私たちは、ときどき社会・生活・他でもない「私」から〈分裂〉することに意識を集中させないと、心が壊れてしまうらしい。
 それでも縦横無尽に「ノリつつシラける」「逃げ続ける」だけでは生きていけないことを知っている凡庸な私たちである。なんとか生き続けるということは、すなわち、これらふたつのバランスをうまく取るということなのだろう。

 何が言いたいかというと、つまるところ、ニートの皆さんも、フリーターの皆さんも、働くことに疑惑の目を向ける正社員の皆さんも、帰る場所を残したままで、ふらっと旅に出てはどうだろうかと提唱したいのだ。

 特別な技術や感性はいらない。少しだけお金があればよい。私がこの9日間で使ったお金を記録したメモ書きが出てきた。偉いことしてんじゃんね、私。

ガソリン代 3500円
フェリー代 7000円
食費 4000円
宿泊費 11000円
雑費 2000円
銭湯代 3000円
おみやげコーヒー豆代 3900円

 3万5000円もあれば、9日間ふらふら彷徨うことができる。私はあまり旅の食事に関心がないので、米とレトルトパウチのカレーを積載して旅に出かけた。食費の殆どはアルコール代だ。お酒を飲まないならば、また、すべての宿泊施設をキャンプ地にすれば、もっと費用を抑えることができる。フェリーに乗らない旅程ならば、コーヒーを買わなければ、さらに安く抑えることができる。

ガソリン減らなすぎ

 もちろん、燃費のいいスーパーカブを持っているから、テントや寝袋などが揃っているから出来るのだ、初期費用を考えたらもっとお金は掛かるではないか、という指摘も尤もだ。
 持たざる者は、移動に青春18きっぷを利用したり、なるべく安いゲストハウスを使ったり、いろんなやり方はあると思う。自転車を30km漕いだ先の、隣町の漫画喫茶に立てこもるのだって立派な旅行だと私は思う。
 ようは、がんじがらめの肩書を捨てて、「観光客」という気楽なレッテルを背中に貼り付けて歩くことが肝心なのだ。「私」からズレて、分裂して。

 何にもしない、社会の役に立つことなんか何一つしない、意味のあることをやってなるものか。SNSに書けなくていいし(まあ、私はこうやってnoteにまとめているんだけど)、友だちに伝えなくてもいい。ましてや、したり顔で教訓や標語に帰結させなくてもいい。ただ、どこかをぶらつき、そしてまた戻ってきて、ああ疲れたなあ、と言う。

たくさん走りました

 どうだろうか、やっぱりある程度貯蓄に余裕のある、非永続的ニートにしかできない行為だろうか。私には、あなたのことは分からない。

 だが私は、他でもない私は、生活のさなかに、ある程度資本を支払ってでもこういう気晴らしに興じないと、うまく生きていけないのだ。あなたもそうなんじゃないか?

 決して「自分探しの旅」などではない。肥大化する「自分」を捨てに行く。「自分」というのは本当にろくでもない。
 肉体から離れて、水が低いところへ流れていくように、悪循環の低地へと魂をいざなう。この状態を忘れるためには、束の間の「無我」に没頭しなくてはならない。
 旅行というのは、わりかし誰にでもできる趣味だ。私にとってはマラソンよりも辛くないし、文章を書くよりも根気がいらない。できると思ったその時に、何も考えずに出発してしまえばいい。

 もしかしたら旅先で、素敵な居場所が見つかるかもしれない。もちろん見つからなくてもいいし。ただ、リゾームは世界中で、今もあなたの接続を待っている。

 そして、旅に出た皆さんは、一旦とりあえずは、できれば元の場所に帰ってきてほしい。世界をすべて見尽くして、ダムの底に身を投げたいという欲求が全てを突き動かしているのならば、今際の際までその灯火が消えないのであれば、それはそれでかまわないが。
 でもできれば旅立つあなたが、再びあなたの暖かな布団の中で眠れるようになるその日まで、私はあなたのことを待たせてください、ここで。

 なんだかんだ、「帰ってくる」という選択をしたいがために、旅行へ出かけるのかもしれない、私たちは。「帰ってくる」とは、「このまま生き続けるという(束の間の)覚悟を決める」ということだ。

 この旅行のあと、私は沖縄へ赴き戦争遺跡に打ちひしがれ、九州へダーク・ツーリズム・車中泊に向かうことになる。

 それから、富山・長野・岐阜へのライダーハウス・ゲストハウス・ツーリング。こちらはずいぶん、見ず知らずの他者と喋った気がする。

 そして、インターネットの友人たちに会いに東京へ、その足で御嶽を巡るために成田から沖縄に再訪、八重島列島まで足を伸ばすことになる。その件は、いずれまた。

 死にそうな皆さん。ままならない自意識を捨てに、旅に出よう。

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