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泡沫 3-2

 定時をすこし回ったところで、社用携帯と財布だけを手に取り、エントランスのカフェへ向かった。どこにでもあるチェーン店だ。
 いつものロイヤルミルクティーを注文し、高めのスツールのテーブル席に座る。
 ガラス張りの店内からは、わざわざ注意を向けずとも、嫌でも外の様子が目に入る。ほどなくして、緊張した面持ちの彼女が現れた。ジャケットを羽織り、パステルカラーの通勤バッグを片手に持ち、完全に即帰宅のスタイルだ。
 こちらに一度、強張った顔で会釈してからレジに並ぶ。店の外を行きかうスーツの群れに目をやりながら待っていると、アイスティーをトレイに乗せて彼女が声をかけてきた。

「お待たせしました…」
 どうぞ、と前の席を手で示した。今日はとことんビジネスライクに徹すると決めている。業務面談の気分で、テーブルの下で足を組んだ。
「お時間取らせてすみませんね」
「いえ…」彼女はうつむいたままだ。緩めにかけた縦巻きのウエーブも、元気がなさそうに垂れ下っている。
「要件は先程メールでお伝えした通りです。個人的な話で恐縮なんですが、一部のスタッフとの間にトラブルが生じていましてね」
 彼女にまっすぐ視線を向けたまま、抑揚をつけずに言った。

「あくまで人間関係上の話ではありますが、先方があまりに怒っているので業務に支障をきたしかねなくて。ただ、なぜ急にそのトラブルが生じたのか、自分では原因がいまいち分からなくてね。もし、心当たりがあればお聞きしたいのですが」
「ごめんなさい」彼女はうつむいたまま、さらに頭を下げた。「多分、わたしがみんなに誤解をさせちゃったんだと思います」
「そうですか」
 カップを手に取りひとくち飲んだ。彼女が原因なのならとりあえず良かった。心当たりのないところに火種があるほうが恐ろしい。

 彼女は小さな声で、何度も首を傾げながらぼそぼそと話し始めた。
「そんなに露骨に、みんなを避けるつもりもなかったし、わたしはつばささんの名前は出してないと思うんですけど…この間、お食事してたのを誰かに見られたのかな…わたしが個人的につばささんと仲良くしてて、グループを抜けなよってつばささんに誘われてるんじゃないかって、思われちゃったみたいで」

「はあ」小学生か。「グループでなく、一対一でお食事をすると何か支障があるんですか」
「いえ、その…今回は特殊だったというか」
「特殊?あなたの事情ですか、それとも」カップを置いて言った。「相手がグループ外の人間だったからですか」
 彼女は、気まずそうな表情で首を傾げながら言った。
「なんていうか…みんな、わたしたちってつばささんからどう思われてるんだろうって、不安に思ってる面があるんです。だから、みんなに隠してこっそり仲良くすると、どんな話したんだろう、何かあるんじゃないかって疑われちゃうっていうか」
「なるほど」

「巻き込んでしまって、すみません」
「まあ別にいいです。そちらは大丈夫ですか、疎外されたりしてませんか」
「わたしは大丈夫です。グループ抜ける気ないしって言ってるんで…」
 自分が、女性陣のグループ行動や仲の良さや連携などを面倒に感じ、いつの間にか個人的に仲良くなった彼女に愚痴をこぼしていることになっているのか。
 彼女は上司である自分に気を使い、否定せず形だけ同意しているのだが、自分はそうとは知らず、面倒なら無理にグループ行動しないよう彼女に勧めている。彼女はグループを抜けたくないが、自分の目がある以上はある程度距離を取らないと気まずい。
 女性陣にとっては、仲間が妙な板挟みに遭っている上、元々よく思っていなかったつかみどころのない相手に陰口をたたかれて気分が悪い、ということだろう。

 不仲だのなんだのと、誤解を受けることには慣れている。女性でありながら、女性達と仲良くしていなければ、それは暗黙のうちに「拒否」と受け取られる。そうだ、いつものことだ。とっくに分かっていたことで、未然に防ぐこともできたはずのことだ。
 だが、自分は一体いつまでこの暗黙の了解に捉われ続けなければならないのだろうか。
「それなら良かったです」
「すみません…」
 彼女はもう一度、うつむくように頭を下げた。

 怒りは既に過ぎ去り、代わりに倦怠が沸きあがってきた。急激に細胞を活性化させたせいで、全身がひどく疲れ始めていた。
 職場の同僚と一度食事をしたくらいで、なぜここまで話が膨らむのか。その発想力を仕事に生かせばいいのに、と思いながら彼女を見た。彼女は、自分に相談を持ちかけたとき、この事態を予想できはしなかったのだろうか。
「以前伺った話は、その後どうですか」こうなったのはそもそも、彼女が同僚とランチに行くたびに、結婚の話題で詰め寄られてストレスだ、という話から始まっていたはずだ。「すこしは楽になりましたか。それどころじゃなかったかな」
 今の、彼女たちの話題は専ら自分だろう。ある意味、彼女から結婚の話題をそらす効果にはなったかもしれない。

「彼とは、別れました」彼女が、うつむいていた顔を上げて、さらりと言った。
「えっ?」
 予想外の答えに驚いて、口をあんぐりと開けたまま固まった。
「結婚の話が進みそうになかったので、別れました。今は、婚活パーティに行ったり、婚活アプリに登録して、結婚の意志がちゃんとある相手を探してるんです」

「ちょ、ちょっと待ってください、あれ?」
 手のひらを彼女に向けて、話の続きを制した。頭が混乱してきた。
 彼女は結婚という形に疑問を持っている、という話ではなかったか。結婚するか否かが問題で、相手はあくまで彼であるという前提だったはずだ。
 彼女は、自分の制止をもろともせず、先程までのしょんぼりとした態度が嘘のように、けろりとした表情で話し始めた。
「わたしは、結婚がしたいんです。なのに付き合ってる彼はなかなか結婚してくれないし、それだけでもイライラしてるのに、周りからも何で結婚しないんだとかいろいろ言われるしで、軽く自暴自棄みたいになってたんです。それで、結婚がしたいわけじゃないって、無理に強がってたんだと思います」

「いや、でも、彼とじゃなくて良かったんですか」
「うーん、そもそも、彼にこだわってるから前に進めないのかなって。つばささんとお話したときは、周りにとやかく言われることのほうが嫌で、そもそも結婚って何なのって考えだったんですけど…でもよく考えたら、うちの職場の人ってみんな優しくて、どんな悩みも本当に親身になって聞いてくれてるし、それってすごくありがたいことなんですよね。そう思ったら、わたしが一番嫌なのは、いろいろ言ってくる周りじゃなくて、そもそも結婚に踏み切れない彼のほうなんじゃないかなって」

 やけにすっきりした表情で、彼女は一気に言ってアイスティーを飲んだ。グラスの中身が一瞬で半分ほどに減った。
 どうやら、今回の一件で、一時はグループから離れていたはずの彼女の帰属意識が元の位置に引き戻されたようだ。彼女は悩みから逃れるために、悩みの根本を捨てることにした。
 その選択は本当に正しいのか、残すべきはより未来がある方のものではないのか、そう疑問を感じずにはいられなかったが、自分の疑問など、もう誰からも必要とされてはいないのだ。

「今度、いつものランチのメンバーで合コンやるんです。考えてみたらわたし、職場の人とそういうことするの初めてだなって思って。仕事もプライベートも共有できるグループって、なんかすごくないですか?今、わたしたちすっごく仲良くて、楽しいんです」
「そうですか」
 生き生きと話す彼女の表情の裏に、仲間を作ろうとしないあなたには分からない幸福のかたちでしょうね、というメッセージが、暗に込められているように見えた。
 もう、何を見ても悪意が透けてしまう。うんざりしながら、そりゃ、結婚に一番近かったあなたがフリーになったら、さぞかし皆さん嬉しいでしょうね、という言葉が喉まで出かかった。

「つばささんには、せっかく相談に乗ってもらったのに、すみません」
「いや、気にしないでください。今が楽しいなら何よりです」
 ありがとうございます、と彼女は言って、残りのアイスティーを飲み干して立ち上がった。誰かに見られるとまた面倒だから、という心情が、警戒するように一度外を振り返る彼女の仕草にたっぷりと込められていた。
「本当に、ご迷惑をおかけしました。わたしからちゃんとみんなに、つばささん本当は良い人だからって言っておくので。そうしたらすぐ誤解は解けると思います。すみませんでした」彼女はぺこりと頭を下げた。「じゃ、お先に失礼します」

 はい、どうも、と自分も頭を下げた。顔を上げたときには、既に彼女はドアに向かって歩き出していた。ふと、「みんな」って誰なんだろうな、という疑問が頭をよぎった。が、それを考えるにはひどく頭が疲れ切っていた。

 さっさと帰る彼女とは違い、自分はまた、仕事に戻らなければ。けれど、この一杯のロイヤルミルクティーは、なぜだかたっぷりと時間をかけて飲み干してやらなければ済まないような気がした。

(つづく)

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