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背に生えた刃 3-3

 三十路を過ぎた女たちには、決して相容れない組み合わせがある。

 子育てに悩みながらも充実した生活を送る女性と、毎月生理がくるたびに肩を落とす、授かり待ちの女性。新婚で何の疑いもなき幸せいっぱいの女性と、一向に成果をみない婚活に疲れ始めた女性。
 二十代までどんなに仲が良かったとしても、境遇によって関係が変わってしまうのが常だ。これは人間性の問題ではなく、互いの人生グラフの調和の問題なのだと、長い目で見て距離を置くのが正しい。

 難しい局面を生きる彼女たちは、その組み合わせ次第では、良好な関係を産みだす。子育て中の女性と、新婚女性。授かり待ちの女性と、婚活疲れの女性。幸せの掛け合わせからはさらなる幸せを、苦しみの掛け合わせからは共闘という名の、孤独からの脱却を。誰もが前向きになれる素晴らしい組み合わせだ。

 自分の周りで巻き起こる、長年の友人たちの関係性の移り変わりを、自分は常に傍観者の立場から見てきた。急に仲良くなり始めるふたり、急に疎遠になるふたり。十代、二十代のころは、カテゴライズされることをあんなにも拒絶していたというのに、三十代に突入した途端に、納得のいく流れの中に皆が収まり始める。
 そして、既婚だが子供を持たない選択をした自分は、ノンカテゴリー族として、良い相性も悪い相性もなく、誰とでも浅く広くの交友関係を続けていけるものだと思っていた。既婚の友人とは夫婦生活の愚痴を、独身の友人とは自由を謳歌する日々の楽しみを。誰とでも流動的に共通点を持っていられることが、この生活の最大の利点だと思っていた。

 違ったのだ。
 唯一、絶対に相容れない相手がいた。
 子供を持たない選択をした女性と、授かり待ちの女性には、決定的な距離があったのだ。

 それは一方のアイデンティティを、まさに一方的に破壊する。子供を切望し、通院を繰り返し、ときに辛く痛い治療に耐えながらも、我が子を抱く日のために歯を食いしばる女性に、あっさりと一言「子供なんていらない」と言い放つのだ。
 いや、実際には言わない。絶対に言葉にはしない。にもかかわらず、子供を持たない選択をした、という佇まいの背中に、そのメッセージを感じ取られてしまうのだ。
 彼女は自分のことを、彼女を否定する存在として意識していたわけではないだろう。彼女はかつて自分と、時期を合わせて一緒に母親になりたいとさえ思ってくれていたのだ。そんな彼女に、まして我が子をうしなったばかりの彼女に、子供を持たない選択をしたとは言えずにいた。
 彼女は何も知らずに自分とともにいた。そして彼女は知らないうちに、長年の友人である自分の背に生えていた、彼女も自分も知らない刃によって深く傷つけられていたのだ。

 泣いてくれたらよかった。彼女は、強くなどなくていいのだ。
 生まれ持った母性が彼女の明るさを押しつぶしてしまうのならいっそ捨て、子供のように、突き動かされた感情のままに「つばさ、つばさ」と名を呼びながら泣いてくれたら。「赤ちゃんが、欲しいよ」と、ただその思いだけを吐き出してくれたら。ふたりの関係が、泣く者と慰める者になれたのなら、いつだって彼女を抱きしめられたのに。
 自分とよく似た境遇を生きてきた彼女から、笑顔の裏の弱さをさらけ出させるだけの力が、自分にあればよかったのに。もっと自分に優しさがあったなら、もっと、彼女を守るだけの強さがあったのなら。それとも、もしも自分が、心も体も正真正銘の男として産まれてさえいたなら、男の持つ本能でそれが出来たのだろうか。
 つい数分前までそこにいた、いつもより幼い顔ではしゃぐ彼女、甘えるように自分の肩にもたれる彼女、理由など何もなく、好きなものを観て美味しいものを食べて、ただ自分と笑って過ごす時間に救いを求めていた彼女だけが、いつかの淡い初恋のように愛おしかった。

「……デザート、食べようか」
 出来る限りの明るい声を出して、立ち上がった。
「お茶淹れるよ」
「ありがとう。ノンカフェインのお茶ある?」
 彼女はやっと自分を見て、デパ地下でお腹をさすったときと同じ、母親の顔で笑った。

 それでいい。彼女はそれでいいのだ。
 キッチンに行き、冷蔵庫から流行りのスイーツの箱を出して、フレッシュなフルーツが煌めくケーキを皿に盛り付け、あらかじめ出しておいた琺瑯のやかんをコンロにかける。
 無言のまま静かに湯を沸かし、彼女のために用意していたレモンの香りのルイボスティーをカップに注いだ。

(つづく)


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