日記115 「水中都市」を読んでいるときに思ったこと

 いま新潮文庫に収録されている安部公房の本を順番に読んでいて、現在『デンドロカカリヤ・水中都市』の途中である。そのなかの「水中都市」では、急に訪ねてきた父親の腹から魚が孵り、主人公の同僚が描いた絵と同じ、水で満たされた世界が広がる。この変化が非常にシームレスで、まだシュルレアリスムの作風を維持していたころの面目を守っていた。しかしこうした前衛的な書き方は、安部が作家として地歩を固めてゆくにつれ薄れてゆく。『密会』『カンガルー・ノート』は比較的前衛的な雰囲気を帯びるものの、基本的にはリアリスティックで、不条理ながらも現実に足をつけたものになっている。
 僕はこのような変化を、ある意味作家として「成熟した」ものだと感じる。「成熟」したことで、彼はあれだけの支持を得られる作家になれたのだ。
 つまり「成熟する」とは、読者の期待を裏切らずに、むしろそれに応えてやることなのである。前衛的な作家がその雰囲気を残したまま「成熟」するとき、かれは読者の予想をぎりぎり越えない・・・・・・・・範囲で突拍子もない、挑戦的なものを表現することになる。
 別にそれが悪いわけではない。絶対に読みやすいし、前衛は大概読むのが難しくてうまく咀嚼できる人を限るからだ。しかし、それで前衛の価値を下げしめるのはどうかと思うし、それに突破力が落ちるのは紛れもない事実であると思う。だんだん創作に慣れてくるのはいたし方ないとはいえ、慣れたのちしか後世に読まれないのには、もったいなさを感じてしまう。

・追記
 僕はここで何の注釈もなく「前衛」という言葉を使ってしまっている。これについては反省したい。これほど幅の広い言葉を、臆面もなく雑に使用したことには言い訳の余地もない。ただ、他に適切な言葉が出てこなかった。批判は受け止めたい。

(2024.1.17)

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