日記96 『他人の顔』感想メモ

 久方ぶりに読み返した『他人の顔』。ずっとどこかしらで精神病院が舞台になっていると思いこんでいたが、実際には最後、映画のなかで軍属の精神病院が描写されるのみだった。これは想定外だし、卒論で取りあげなくてよかった、と思った。
 主人公は「顔」を他人との回路と措定し、液体空気による火傷で喪った顔に本物と見紛う仮面を被り、特に妻との回路を回復しようとする。だが、彼は仮面を被ると、まるで仮面が自分自身とは別の人格をもつように感じ、堂々と仮面のまま、他人と接触する(仮面の「顔」を自分の「弟」として振舞わせようとした)。そのとき、画面によって他人との回路を築くことになるのは、彼自身ではなく、画面である。だから、仮面自身に人格を感じた(それすなわち、どんな仮面がよいか悩み、相貌学による選定を始めた)時点で、彼の試みは破綻していたといえよう。
 そしてクライマックスは、彼の「隠れ家」に残された、妻による置き手紙である。彼女は、「女の化粧だって、けっして化粧であることを隠そうなどとはいたしません」(p.322)という。そして、仮面をはがしっこすることこそ愛だ、とも。つまりは世間のみんなはふだんから仮面を被って他人と交流しており、主人公の回復しようとした回路とは、その仮面をはがしっこすることで得られる、と僕は読んだ。そもそも彼が回復しようとしていた回路などというものは、はじめから開かれてはおらず、ごまかしのものだった。だからその逆のことをして、彼は回路を再び開こうとした、だから最初からうまくいきっこなかったのだ……
 結局は、はじめから彼は他者との回路を不十分にしかもてておらず、本作での試みはほとんど無駄だったといえ、彼の苦闘は嘲られることになるかもしれない。しかし、彼を嘲ることのできる、世間立派な仮面振舞いや仮面のはがしっこをする人に対し、そうでない不十分な回路の認識を示してノートのかたちを借り追求したことに、本作の衝撃はあると思う。

(2023.12.14)

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