日記119 安部公房の短編

 たとえば、「闖入者」「無関係な死」「壁」「使者」などがある。これらの短編では、主人公あるいは登場人物のうちの誰かが、なかなかのっぴきならない状況に追いこまれる。そこからの助けを彼らは求めるが、しかしまともに取り合ってくれる人は少ない。そしてその助けてほしい願いは裏切られ、彼らはひとりで状況の報いを受ける羽目になる。
 これらの短編において彼らに降りかかる理不尽は、端から見ているとなかなかバカらしいもののように思える。「そんなことようようあるかいな」といった具合に、苦笑いとか、呆れる気持ちが出て来ざるを得ない。しかしそれらが彼らの身に起きているのは事実であるために、問題に向かう熱意のギャップが大きくなり、喜劇となって彼らは状況に呑み込まれてしまうのだ。
 読んでいるとこんなのはあんまりだと思う。しかしもし僕らがこれらの作品の中に行き、主人公らから助けを求められたら、果たして作中の、彼らに助けを求められた人以上の対応ができるだろうか? それを試みたのが「使者」だと思う。この短編には火星人を名乗る男が出てくるが、結局主人公を納得させることはできず、引っ捕らえられて連れていかれる(きっと以前の使者と同じように、閉鎖病棟へ入れられたのだろう)。ついに彼が火星人であるということは明らかにならないし、火星人であるといえる根拠はない。この火星人と同じ状況が、「闖入者」や「壁」などの作品の主人公の置かれた立場だろう。本人は必死なのに、状況が突飛すぎて信じてもらえず納得されず、その状況からくる理不尽を全部背負いこむことになる。市民なのに、市民社会から見捨てられる怖さが現れている気がする。差異を認めて排除する、というメカニズムは、赤坂憲雄の評論で読んだはずだ。

(2024.1.25)

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