孑孑日記㉗ 野球の話

 慶應義塾高校が、甲子園大会で優勝した。高校野球をやっていたくせに高校野球に大した興味はないのだが、それでもついニュースは確認してしまうのだ。1916年以来、107年ぶりのことで、まだ阪神甲子園球場もない時代に彼らは勝った。ケチのつけようもない、すばらしい結果である。
 一方で気にかかるのは、かれらに届かず敗れた、無数の球児たちである。言っちゃ悪いが、慶應義塾高校に入学し、華々しい成果をあげているかれらは、はやり多くの庶民からすれば、「持てる者」であり、ちがう種類の人間だ。マコーム著『スポーツの世界史』で、アマチュアリズムとプロフェッショナリズムの対立についての記述があった。曰く、余裕のあるブルジョワジーがアマチュアリズムを称揚して対価を否定した一方で、持たざる庶民は報酬を得てプロフェッショナルとしてスポーツに参戦した。それによってスポーツ競技が庶民にも門戸を開いた、と。
 真実かどうか知らないが、慶應義塾高校の選手が、野球を「遊び」として真剣にやっている、みたいなことを言ったらしいと耳にした。これがほんとうならば、上述のような対立と見事に照応するだろう。アマチュアとして、楽しんでプレイしていた慶應義塾高校が、プロフェッショナルのように、野球に心血を注ぎそれに賭けた数多の球児を打ち破った。
 もちろん、誰が悪いとか、そんなものは一切なく、称えるべき健闘を、誰もが見せてくれた。しかし社会的エリートを打ち破り、自分たちも! という希望を託せるスポーツ競技において、今回の第105回全国高等学校野球選手権大会では、そのまったく逆、すなわち社会的エリートが非社会的エリートを撃破した。前々から言われていた、持てる者はさらに持てる者になっていく図式を強化した形になったと思う。丸刈りとか日焼け止めとか、そのあたりばかり注目されているが、その陰で敗れた無数の持たざる庶民にはもしや絶望をもたらすのではないか? と多少ながら感じるのである。

(2023.8.23)

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