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メランコリー(21)

 それから19年が経って、悟は37歳になった。
 仕事から帰ってきてひと息ついているこの時間は、自分の書斎でいつも、パソコンのradikoのタイムフリー機能を使ってInterFMのDave Fromn Showを聴いているのだが、今日は珍しくそれをかけず、レディオヘッドの『OK COMPUTER』の20周年記念リマスター版「OKNOTOK」のDISC2をかけていた。当時のトム・ヨーク曰く「壁に出来たひび割れを凝視しているような」痛々しく重苦しい憂鬱と悲観を描いていた、かつて慣れ親しんだDISC1より、穏やかな感情の機微をメロディにのせたようなDISC2の方が今の悟の感性には自然に溶け込んで心地良い。
「父さん、いつものラジオ聴いてないね。何聴いてるの」
 息子の琢磨が書斎に入ってきて聞いた。12歳になる琢磨には、悟の書斎をまるで自分の部屋のように、気安く入れる場所として分け与えていた。
「父さんがお前くらいの歳の頃、よく聴いていたバンドだよ」
 琢磨は悟の机にひじを載っけて、楽しそうに耳を傾け始めた。その顔には、悟が琢磨と同じ歳のころ抱えていた、あの憂鬱の気配はどこにも見受けられない。
 どうしてあの頃、小学6年生から高校3年生にかけて、あんなに何もかも過剰に感情的に、悲観的に、深刻になっていたんだろう。時代のせいだったのだろうか。そうかもしれない。あの時代に、若かったせいだろうか。そうかもしれない。今では深刻に物事を考えすぎることもなくなって、毎日が穏やかに過ぎていく。
 かつての父親の年齢に追いついても、自分の役職が「教授」には遠く及ばない「講師」であることに、やはり父親にはかなわないなと思わされるが、それを深く取り上げて悩んだりはしない。教え子からは「悟先生」と呼ばれて、愉快に過ごしている。
 あのメランコリーは、孤独は、深刻は、どこへ去ってしまったのだろう? 今ではそれを懐かしく思い出す。かつてブランキー・ジェット・シティやレディオヘッドが示したメランコリーや焦燥や暴発よりも、Dave Fromn Showのワイワイした気軽で明るいトークと選曲を求め、身体になじんでいる今の自分がいる。
 潤は20代初めにプロのロックバンドのメンバーとしてデビューした。今でも全国ツアーを廻るほどの人気がある。悟は潤の近況を、公式ホームページやブログなどでいつでも知ることができる。時々「お忍び」で札幌に遊びに来る。「お忍び」のくせに、変装ひとつせず、堂々としている。そんなとき、悟と潤は酒を片手に、互いの仕事の話や家族の話など、たわいもないおしゃべりに明け暮れる。
 透は高卒で公務員になって豊岡で働いている。ずっと交流が途絶えていたが、フェイスブックで1年半前にアカウントを発見し、友達申請をして、承認された。しかし、あまり更新されておらず、誕生日などのタイムラインで挨拶程度にやりとりをする程度だ。
 涼の存在は、まるで初めからなかったかのように、これまで皆が口を閉ざし、話題を避けたが、風の噂で、先日、自殺したと聞いた。真偽のほどはわからない。
「精神分裂病」は「統合失調症」と呼ばれるようになり、通院、服薬、デイケア、障がい者雇用など、さまざまな方法で社会参加や復帰が可能であることが少しずつ知られているところだ。
 涼のことを忘れたことはただの一度もなかったけれど、会う機会や連絡がない限り、努めて思い返さないように心がけてきた。それは悟自身の心身の安全のためだった。しかし、自殺の噂を聞いてから、涼のことを頻繁に思い出すようになった。見下すような冷たい眼差し、無数の陵辱、汚い言葉、ジョイ・ディヴィジョンのことを熱心に話した口ぶり、殺そう、壊そうとした人生最大の汚点となった思い出、病気のことを打ち明けてくれた雨の日とハッカキャンディー、最後のライヴ、そして別れの日。
 何も出来なかった、無力だった自分。
 そんなやりきれない悲しみや苦しみを一生抱えながら生きていく。
 いつか破滅する。それでも僕のことを見捨てないでいてくれ。覚えてくれ。愛してくれ。そう言った涼の気持ちにこれからずっと応えるために。
 七三で分けたまっすぐな髪、長い睫毛、グレーの瞳、公務員が着るような皺一つないシャツ、早死にへの憧れ、サディスティックな性癖、壊れていくことへの恐れ。悟の中では永遠に17歳のままの姿が刻み込まれている。
「アイルトン・セナより長生きしたんじゃないか」
 そう独りごちて、そっと微笑んだ。
 この世界で、結ばれる手段を永遠に持たない、ほかならぬ男。
 いつか燃え尽きて灰になるまで涼の記憶を胸に抱えて、心の片隅で愛し続けていくと決めた。

いつの日か小説や文章で食べていくことを夢見て毎日頑張っています。いただいたサポートを執筆に活かします。