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忙しさのバランス

ここ半年ほど、恐ろしく慌ただしかった。

以前も書いたように、春先に義母が骨折したことによって彼女へのヘルプが増えたり、実家の高齢両親のヘルプを兄夫婦の用事がある時に代わりに行ったりといった、介護系の忙しさが今年はぐんと増していた。自分の仕事の方もたくさん依頼をいただいており(それはとても有難いことでしかもそのどれもがとてもやり甲斐のあるすこぶる面白いものだった)、その時点では家事や介護を計算に入れてもちょうど良いペース配分でこなしていけそうだった。ところが締切を守ってくれない人が(それも何度も!)いて大幅に予定がずれ込んでくるという思いもかけぬ事態となり、いくつものタスクを同時進行で抱える羽目となってしまった。とりわけ、9月半ばから10月半ばへの一ヶ月間というのは「これは心身ともに壊れるのではないだろうか」と思うほどの忙殺ぶりで、それでもなんとか持ち堪えて乗り越えることができたことに今、安堵している。

「忙」という字は心を亡くすと書くように、あまりに度が過ぎると心までも失ってしまうものだと思う。実際、そんな状態だった。余裕の無さからすぐイライラして棘のある物言いになったりもした。そのようなことならまだ良くて、家族と居ても何も言いたくない、喋る気力がない、ぼんやりとして押し黙ったままの状態の時はさすがに義母にも「仕事量をもっと考えないと…」と、心配された。彼女は私のことを心の底から案じて言ってくれているのだが、それすらも煩わしくて「ちゃんと考えてお引き受けしてたけど締切守らん奴がいてこんな状況になってるんだよ!!」と大声で叫びそうになるのをなんとか抑え込んだ(言わなくて良かった…)。

ここまで忙しいのは身を滅ぼすことに繋がりかねないとしても、逆にヒマが有り過ぎるのも精神的に良くないように思う。例えば少々の悩みや心配事であれば、仕事や家事に追われているうちにそれらの困りごとが頭の中から追い払われ気がつくとどうでもよくなっていたりする。これがヒマすぎて時間が有り余っている状態だと、実際に起きてもいないことにまで妄想を膨らませ悩みの種を勝手に増やすということも十分にありうる。

若い頃に仲良くしてもらっていた姉御キャラの年上の友達がいた。「竹を割ったような性格」とは彼女のことを言うのだろう、いつもすっきりとした言動でみんなの人気者だった。私が20代の頃あることでクヨクヨと悩んでいた時、彼女に相談したところ「それは今あさひちゃんが暇すぎるから。とにかく予定を詰め込んで忙しくしてその悩みから一旦離れなさい」とスパッと言われた。「ええっ、そんなあ〜!!」とその時は思ったものだが、今ならわかる。本当だね、有り余る時間というのは私の場合ロクな思考回路にならなかった。

冒頭で書いたような心身を壊しかねない忙しさは論外として、やはり家事などで手を動かしていたり、適度に体が疲れるほどの運動量があったり、というのがほどよく健康的な心持ちで過ごせるのだろうね。そして一日の終わりに少し振り返りの時間を持てたり、自分の思いを吐き出す時間を持てたら最高なんだろうな。

ちなみに現在、私は絶賛9連休中である。そうしようと思って連休にしたわけではなく、ワクチン接種などいくつかの所用のために休みをとったり、祝日があったりなどで結果的にそうなった。何か大きいことがしたいわけでも、遠くへ行きたいわけでもない。私にとっては前回のエントリーで書いたように「趣味は生活」なので、

時間に追われ過ぎずに落ち着いて家事をすることがとても良い休日の過ごし方となっている。布団を干す、シーツを洗濯する、雑巾がけをする、猫のトイレの掃除をする、台所のシンクを磨く、惣菜を作る…という毎日である。そしていくらか持ち帰り仕事もあるので日に数時間はそれらもこなす。合間の時間にはこうして心の中を文章に表したりする。こういう適度な忙しさが私にとってはとても健康的なのである。

結局のところ「バランス」ということなのだよな…
時間が無さ過ぎる日々は熟考ができないし、有り過ぎると悲観的な考えが膨らむ。
ちょうどいい忙しさの釣り合いを保てる日々。現代においてそれはとても贅沢な代物なのだなあ。

#エッセイ #仕事 #家事 #生活 #WLB #時間 #暮らし

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